第103話
次の日は晴れだった。
アルギンは、その日は一人で病院に来ていた。例の小瓶を持って。
女王からの言葉を受けて一晩しか経っていずに気分は落ち込んでいるものの、昨日も酒場は開店している。こんな時は働いていた方がまだ気が紛れるからだ。
傘は要らなかった。病院までの道程に、乾いていない水溜まりが幾つも残っている。
「オリビエ、来たよ」
病室では担当医の姿もあった。オリビエは寝ているようで、規則的にシーツが上下している。アルギンの到着を見て、担当医は下がっていった。
顔色は少し良くなっている。それでも病人のような顔には変わりない。頬に手を当てると健康的な肉には一切触れられず、皮と骨のような感触に手を引っ込める。
寝ているなら粉を飲ませられない。ベッド脇の椅子に腰掛け、オリビエの呼吸に耳を澄ます。
窓は一箇所開いている。晩秋の空気が入れ替わり、少し寒さも感じられる。けれど涼やかで綺麗な空気だった。
「………ぁ」
小さな声が聞こえて、アルギンがオリビエを見た。その目が開いている。それに気付いて体をそちらに向けた。
「起きた?」
「……は、ぃ」
「そう。良く寝てたみたいだから、起こすの悪いかなって思って」
オリビエの口から返事のような声が聞こえて、少しだけ気分が上がる。笑顔でオリビエに語り掛け、荷物の中から小瓶を取り出した。
「口、開けられる? これ飲んで」
「………。」
今度は返答は無かった。代わりに、乾いた小さい唇が開かれる。そこに少量、ほんの少しを振り入れた。
吸い飲みで口に水を流し入れる。
小さな嚥下音が聞こえて体を離す。
そうしてアルギンは吸い飲みを置いてまた椅子に座った。
「……早く元気になると良いな」
「………」
オリビエからの返事は無い。それで良いと思っていたアルギンだが。
「……あるぎん、さん」
こんな状態になって、一度も聞いたことのないしっかりした発音で自分の名前を呼ばれて。
反射的に立ち上がった。椅子を大きく蹴飛ばし、その顔に耳を寄せる。
「オリビエ」
「……ご、めいわく、かけて、すみません」
「……いいんだ。いいんだよ、そんなの」
次いで出た謝罪の言葉。それに首を振って答えた。
「わたし、は……」
オリビエは言葉が出ないのか、それとも考えているのか、言葉が途切れ途切れだ。
「いち、ばん、がい」
「……!!」
何かを伝えようとしているのは解ったが、最初に出た言葉がアルギンの嫌な予感を的中させた。
こんな状態で伝えようとしているのは、恐らくオリビエがこんな状態になった原因。
「かべ、むこうか……ら、つた、のびて……きて」
「蔦?」
「わたしは……いちばんがいの、なかに……」
「ちょ、っと……それって、中、見たの?」
「しょく、ぶつ、 で、 いっぱ……い」
アルギンの背中に冷たいものが走る。植物、と言われて思い浮かぶのは一つしかない。
ミュゼの言っていた『養分』。
オリビエの言った『植物』。
文字通り一番街を『養分』とした『植物』。プロフェス・ヒュムネの再興の足掛かりが、そこにある。アルギンはその光景を見ずして、直感した。本当は、ミュゼの話を聞いていた時から薄々解っていた事。
解りたくなかった。アルセンがプロフェス・ヒュムネに侵略されている事。それが王妃達の狙いだと。
だからとアルギンにはどうすることも出来ない。今まで接点の無かった一番街だ、それがどうなった所で、アルギンには何の影響もない。
―――影響もない。
「それを、調べに行ったんだな」
オリビエは小さく頷いた。それが自分の命を脅かすことになったけれど。
「……疲れたろ、オリビエ。よく頑張ったな」
「………うれし、い」
「オリビエ?」
オリビエは微笑んだ。その微笑みはどこか綺麗なものに見えた。病人としての顔色に違いは無いのに。
「ほめて、もらっ ……わた、し、 あなたに、 だけ、は ほめてもらえ、る」
「……褒めるさ。仕事してたんだろ。でも、もうアレに手を出すのは止めた方がいい」
「……わた、し げんきに、なっ た、ら こきょうに かえり、たい」
切れ切れの言葉。微笑みは変わらない。
「こきょ、 で、 うしと にわと、り なつかし」
「……そうか、それも良い。オリビエの人生だ」
「まいに、ち どうぶ つ げん、きに、 なっ」
その呟きと同時、オリビエの瞼がゆっくりと落ちる。それをアルギンは目を逸らさずに見ていた。
「……違う生き方が選べるなら、それも良かったろう。夢が破れた訳じゃない、確かにお前さんは新聞記者だった」
アルギンが下を向く。
「……ただ、お前さんも、アタシも、もう戻れる場所にいなかったんだ」
オリビエのシーツは、もう上下しない。
徐々に温度を失っていく掌を、アルギンは担当医が来るまでずっと握り締めていた。
「あの粉はですね、お察しの通りプロフェス・ヒュムネの花粉です」
その日、また酒場を休みにして暗いカウンターでアルギンは一人酒を飲んでいた。
皆夕飯も入浴も済ませ、『誰も降りて来るな』と言いつけた一人きりの晩酌だ。そんな場所に、暁は遠慮無しに近付いてくる。
アルギンのすぐ近くまで寄って、いつもより深めた笑みで話し始めた。
「ユイルアルトさん達が捕まえた鼠も死んだようですねぇ。アレは鼠には効きが強かったようですねー」
「………」
「あの花粉は、脳も内臓も全部誤魔化して、正常な状態に近づけることが出来るんです。禁止薬物の一種とでも言いましょうかねぇ」
「…………。」
「使った所で、死にかけが元に戻る訳じゃないです。少しの間、なんとかまともに振る舞えるだけ。それさえ言わないで渡すなんて、本当に王妃殿下ってばお人が悪い。ま、でもウチとしてはウチのオーナーの時間をこれ以上無いくらい奪ってくれたあの人が死んで万々歳なんですけどねぇ? そもそも、なんでオーナーはあんな人の面倒見たんですぅ? 別にそこいらに転がってる石ころと変わりないじゃないですかぁ部外者なんて」
饒舌に喋る暁の言葉の途中で、アルギンが立ち上がりその顔面に一発拳を沈めた。固く握った拳が狙った鼻から、骨が砕かれるような音がする。
暁が床に後ろ向きで倒れた。その次の瞬間、空を裂くような音と共に何かが飛んでくる。アルギンが視認出来た瞬間、もう手遅れだった。
アルギンの体を袈裟懸けに細いものが振り抜かれた。それは暁の人形、スピルリナの足だ。腕で庇いきれず、腕と肩両方に一撃を食らう。
「っ、!!」
激しい衝撃と痛み。よろけたアルギンに更にスピルリナは追撃を掛けようとして。
「止めろ、スピルリナ!!」
暁からの制止命令で、動きを止める。暁は床から上体を起こして、自分の鼻の確認をする。痛みに歪んだ顔、開いた目はアルギンを見ていた。
「……勝手に動くな。オーナーを傷付けるものは、幾らウチの娘でも許さない」
「承知しました、マイマスター」
無機質な人形の声が酒場の静寂に溶ける。手の動きだけで下がっていく人形を見ながら、アルギンが気持ち悪さを覚えた。
立ち上がる暁。その顔は既に笑顔にすり替わっていた。
「……自分の『娘』の躾くらい、ちゃんとしておけ」
「嫌ですねぇ、怒らないでくださいよオーナー。ほら、笑って?」
こんな状態でもアルギンに向かって笑顔でいる暁。鼻から流れる血を乱雑に袖で拭いた彼は、平気な顔をしておどけてみせた。そんな暁にも、苛立ちを覚えて。
「……何で笑ってんの」
「え?」
「鼻潰されて笑ってられるのお前さんくらいだ。……アタシは、それすっごい気持ち悪い」
スピルリナの攻撃を庇った腕が痛い。罅か、良くて打ち身か。折れてはいないようだが、アルギンにはその痛みが不快。その不快の逃がし所を探しあぐねて、手近な暁に八つ当たりする。
「……じゃあ、この鼻の詫びに、ウチと結婚してくれます?」
暁は困ったような笑顔になって、アルギンにそう言った。
「……それとこれとは別だろ」
「えー、残念。これはウチのずっと前からの悲願なんですけどねぇ。まぁ鼻の一つで折れてくれるお人でもないですよねぇオーナーは」
それは自分の折れた自分の鼻を掛けた渾身の冗談だったのだろうが、アルギンは聞き流して自分の腕を見る。徐々に青紫になってきているようだ。鈍い痛みを感じているが、目の前の暁の痛みはきっとそれ以上だろうというに、アルギンの前ではニコニコ笑っている。
以前から変わらない。いつかにアルギンの手の甲に唇を落としたあの時から、何一つ。
「それじゃ、ちゅーの一回でもしてくれたら許しますよ」
「……しなかったら許さないのかよ」
「んー、それはオーナーの出方次第ですかねぇ? あんまりウチを怒らせると、夜に部屋に忍び込みますよ」
「………。」
冗談めかして言う暁の胸倉を、痛まない腕で掴んだ。驚いた暁の顔。そんな暁を無視して、胸倉を掴む手に更に力を込める。
―――アルギンの唇が、暁の頬に触れた。それはたった一瞬で、触れただけで、口付けとも言えないお粗末なもの。
「……ごめんな、暁」
それは、アルギンが暁に対してする初めての、ちゃんとした謝罪。
「アタシ、あの人との口付けは、あの人の何処にするにしても、場所がどこでも、いつもずっとドキドキしてた。……暁との口付けは、全然ドキドキしない」
胸倉を掴んでいた手が離れる。
「あの人の代わりには、きっと誰もなれない。アタシは、今でもあの人を愛してる」
「っ……!!」
それまで笑顔だった暁は、顔に激しい憎悪を見せた。胸倉を掴まれていた方の腕を奪って、唇を強引に奪う。初めての強引な口付けに、アルギンが驚いた顔をした。唇を無理矢理割り入ろうとする暁の舌を、驚きながらも拒み続ける。痛む手で暁の胸を押し返すも、その体は離れてくれない。
諦めの悪い暁は、尚もアルギンを求め続けた。逃げようにも、もう背中はカウンターに付いてしまっている。……暁が離れたのは、唇を充分に蹂躙されてから。
「……ご満足?」
不快感を顔に表しながらも煽るように問いかけたアルギンに、苛立ちを隠さない暁の顔。アルギンの肩に両手を置いて、顔を下に向けた。
「……ウチなら、今の貴女を守ってあげられます。その為に出世しました。なんだってやってきました。ウチを愛してなくても、ウチが貴女を二倍愛します。それでも、ウチを選んではくれませんか」
懇願にも聞こえる暁の言葉を背中に聞きながら、またカウンターに座るアルギン。まるで、今起こった事が何でも無い事だという風に。
「アタシはお前さんに守って貰って愛されるだけって。そんなアタシは、お前さんが好きだって言ってくれるアタシの姿なの?」
暁は何も言わなかった。やがて、あんなことをしても普段通りの姿のままのアルギンを残して自室に下がっていった。
アルギンは自分のグラスに二杯目の酒を注ぐ。……暁は気付かなかったが、グラスは二つ、カウンターに並んでいる。ひとつは、死んだオリビエに捧げるもの。
オリビエは明日にでも荼毘に付されるらしい。故郷の身内は、オリビエの死をどうやって知るのだろうか。死因をどうやって伝えたものか。その辺りはアルカネット経由で自警団から新聞社に話を通してもらう事にして、……そこまで考えて、何故殆ど関係も無かった筈の自分が此処まで考えているのか、ふとおかしくなった。
オリビエと関わった時間は長くなかった。けれど、それでもアルギンはオリビエに感情を抱いた。自分の過去を重ねた、郷愁のような感情。
あの輝いていた瞳が好きだった。
もう、開くことは無い。
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