第100話
オルキデとマゼンタのいない酒場の初日は、忙しいながらも何とか無事に終わった。
特にユイルアルトの気疲れは凄まじく、閉店と同時にテーブル席の長椅子に倒れ込んでしまった。そんなユイルアルトを支えるように、ジャスミンは肩に担いで風呂場に連れて行っている。
アクエリアも疲れた様子だったが、外面はきりっとしたまま自室に引っ込んでいった。ミュゼは煙草休憩の後、特にキッチンが忙しくなることもなかったので先に風呂に入って部屋に戻っていた。
閉店後にいつも行っている簡単な酒場のホールの掃除は、簡単とはいえ大変だった。何せ二回ほどユイルアルトが注文の料理を落としている。本格的な掃除はまた明日に回すとして、その後の帳簿付けも大変だ。
帳簿に書いてある『酒場売上帳簿』。これはアルセンの言葉ではない。事務作業で現金を管理していたオルキデ達の国、ファルビィティスの言葉だった。
ふと思い出して他の帳簿も見てみる。家賃入金帳にしていたノートを開くと、アルカネットと暁の名前に『滞納常習犯』と青文字で書かれていた。これも、オルキデの文字。キッチンの仕事に加え事務作業までさせていてロクに休みも取らせていなかった自分を、とんでもない事業者だと自嘲した。……休みを取るように頻繁に言ってはいたのだが。
どこを見ても、あの二人の影がある。自分で思っていた以上に、あの二人に依存した業務体制だった。何を言っても、何をお願いしても、一生懸命に仕事をしてくれた二人。それなのにアルギンは、あの二人の笑顔がもうあまり思い出せなくなっていた。
最後に見たのは、二人の怒った顔。
あの顔が、瞼に焼き付いたように離れてくれない。
一先ずの片付けが終わったアルギンは、風呂が空くのを待つ為に自室に戻った。風呂の予約は二人分入っていて、まだまだ空く気配は無い。
疲労に任せてベッドに沈む。キッチンでこれなのだから、ホールを担当してくれた医者二人には何かしら給金とは別に礼でもしなければなるまい、と重い頭で考える。五人がかりでこれなのだから、明日も大変だろう。
今頃あの二人は、どうしているんだろう。
アルギンの頭にそれが過ぎるころ、ゆるゆるとした睡魔の誘いのまま、瞼が閉じた。
場所は王城、客間。もう酒場も閉店した夜遅い時間。その部屋は夜遅いというのに蝋燭の灯りがまだついていた。
暫く使われていなかったそこに、その日から使用者が現れた。
一人に一部屋与えられた広い部屋のソファに、ぼんやりと座る影がある。
「………ふぅ」
その溜息はオルキデのもの。長い髪を高く結い上げ、暫く袖を通すこともなかった余所行きのロングドレスを身に着けている。明るく薄い緑色のそれは、貴族令嬢と言っても過言ではない程の品を感じさせる。……元々が亡国とはいえ王家の血筋だったのだ、本人にもそれなりの品はあるのだが。
隠す必要がない憂い顔のまま、ぼんやりとしているオルキデの耳に、扉から響くノックの音に気付いた。
「……開いている、入れ」
オルキデがそう扉に向かって言葉を投げると、そこから現れたのはマゼンタだった。彼女も薄い紫色のドレスを纏い、髪をふわりとした感じに結っている。遠慮がちに入って来たマゼンタは、誘導されるままオルキデの向かいの一人がけソファに腰を下ろした。
「お疲れ様、姉様。まだ起きてるかなと思って」
「お前もな。……まぁ、酒場ほどじゃない」
「酒場はね、疲れるの次元が違うからね……」
気疲れしているらしいマゼンタが、肩を軽くほぐす動きをする。そのマゼンタに視線を向けないまま、オルキデはテーブルの上にあるベルで高い音を鳴らした。暫く待つと、外からメイドがやってきて用事を尋ねる。そのメイドに茶を言いつけると、直ぐにメイドは下がっていった。
王城での生活に直ぐ馴染んだ様子の姉と、鳴らされた後はいつものようにテーブルに乗っているベルを交互に見たマゼンタが、感心したような溜息一回。
「……どうした?」
そんな様子を見て、オルキデが不思議そうな顔をする。
「ベル鳴らすだけでお茶が来るって凄いよね」
「……そうだな。いつもは私達が給仕する側だったからな」
「お金はその場で貰ってたけどね。……今頃、お店も営業終わったかな」
「気になるか?」
オルキデの問い掛けに、マゼンタは複雑そうな顔をする。
勿論、オルキデも気になってはいる。今まで生きて来た時間の中のたった五年とはいえ、その五年が楽しくなかった訳ではない。それなりに人間関係も出来ていて、仕事も全部が嫌だった訳でもない。
「んー……。気にはなるけど、もう全部『捨てて来た』から」
「―――……。」
「だから、もう、どうでもいいかな。でも……私達が居なくなっても平気で店が回ってたら、少しイラってするかも知れない」
そう言ってのけたマゼンタの顔は、僅かな微笑みさえ湛えていた。
その表情を見てオルキデは目を伏せる。……マゼンタは、昔から『こう』なのだ。他人に特別な関心を抱かず、言われた仕事を淡々とこなすのは得意。そして、興味が一定以上無ければ物事を簡単に切り捨てられる。それが、例え五年間働いていた酒場だったとしても。
もしかすると、異端なのはオルキデの方かも知れなかった。プロフェス・ヒュムネは皆、多少の差異はあれど大体がマゼンタと同じような性質を持っている。その中でも自分に近しいと思える同族は、いつか酒場にやって来ていたスカイだけ。
「そうか」
そんな妹に返す言葉が他に見付からない。相槌を返した頃に、扉が再びノックされた。扉の外から現れたのは、給仕のメイドと、あと一人。
「夜分遅く失礼します」
「ロベリア?」
「今日の事で、少しお話が。マゼンタ様もこちらにいらっしゃると伺いましたので」
長い黒髪を持つ青年の姿が見えた瞬間、マゼンタの表情がぱっと明るくなった。オルキデがそのいつもの表情の変化に苦笑しつつロベリアを見る。彼もまた、優しい笑みを浮かべている。
それだけで互いが互いをどう思っているか解りそうなものだが、今の所それを知っているのは二人以外の者だけ。オルキデは二人を見ながら、前に置かれた紅茶を口に含む。日を追うごとに寒くなっている今の時期にぴったりの温度の紅茶だった。
メイドが部屋を出て行くのを見送って、オルキデが口を開く。
「それで、話とは何だ? この時間に淑女の寝室を訪ねるとは、余程の覚悟があるのだろうな、ロベリア」
「……話は既に王妃の耳にも届けてあります。王妃からの許可も頂いておりますゆえ、御容赦頂けると有難く思います」
「……姉様に?」
オルキデとマゼンタが顔を見合わせる。
「零番街の育成は順調なのですが、『養分』がこのままでは枯渇すると」
「……。」
「先日解放した者も、そこまで大した養分にはなりませんでしたし……」
「どれほど足りないんだ?」
「それはこちらに。どうぞご覧ください」
そうして渡された書類に目を通すオルキデ。書かれていることが気になって、マゼンタが隣に座って覗き込む。
二人にとっては芳しくない状況が書かれているようで、オルキデの眉が寄る。そして口から出る言葉は。
「この前四番街から連行した奴等は? そこそこ肥えてて使い所がありそうだったじゃないか」
「そんなもの、もう『養分』として使用しました。残っているのは骨と皮だけですよ」
「もうか? 燃費が悪いんじゃないのか」
「全員が純血のプロフェス・ヒュムネという訳ではありませんからね。このままでは犯罪者を収容するより先に枯渇しそうです」
それは恐らく、プロフェス・ヒュムネ以外が聞けば耳を疑うような事。
「……犯罪者を文字通り『養分』とし、この国でプロフェス・ヒュムネによって零番街という新しい我らの街の土台を作り上げる―――」
それを言い出したのは、いつかの王妃だった。
「全く、姉様の考える事は恐ろしいよ」
それはまるで、アルセンという国に接ぎ木するように築き上げるプロフェス・ヒュムネの国。その完成図は恐らく、プロフェス・ヒュムネの夢でアルセンにとっての悪夢。
一番最初に養分として目をつけられたのは、一番街の者達だった。そこに住まう者は女子供、老人であっても例外なく、全ての者を文字通り『搾り取った』。
一番街の地下をプロフェス・ヒュムネの居住区として、地下から一番街の者達を養分として『使った』。そう決定して実行した王妃達プロフェス・ヒュムネには、慈悲なんてものは無かった。
プロフェス・ヒュムネの純血は、十年に一度だけ母樹という植物から産まれてくる。それぞれに生殖能力が無い訳ではないが、王家の者はそこから産まれてくる植物の子だ。母樹から産まれた王妃とオルキデ、マゼンタにはそれだけの年の差が開いている。母樹は戦争敗北の折に伐採、破壊されてしまった。
純血の者が他の種族と交わると、体の何処かに葉緑斑という緑の痣のようなものが出てくる。それは背中だったり、顔だったり、変わった者では髪の毛が緑だったり、眼球の白い部分が全て緑という者もいる。純血のオルキデやマゼンタは、国が滅んだ後に自分をヒューマンだと偽って生きる事は容易かった。しかし、そうでない者達は奴隷にされたり、見世物にされたり、それらから隠れて怯えて暮らしたりと、決して幸せとはいえない生き方しか出来なかった。
だから。
「ファルビィティスを見捨てたこの国に、復讐を考えるなんて」
アルセンとファルビィティスは友好国だった。
それでも、ファルビィティスが帝国に攻め込まれた時、アルセンは援軍を出さなかった。ファルビィティスは逆の立場の時に軍を出したのに、だ。
王妃は今でもそれを恨んでいる。少なくとも、オルキデはそう思っている。
人々から搾り取った養分は、時が来れば土地を持ち上げ、天に高く聳える植物になる。
今度こそ攻められない土地へ。今度こそ滅ばない国へ。
それが、王妃の悲願だった。
例え、人の命を堆く積み上げた血塗られた国になろうとも。
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