第99話
…………。
気が付くとアルギンの目の前には、白い壁があった。
その顔を心配そうに覗き込んでいる金色の影がある。……視界がまだはっきりしない。
「アルギン」
呼ばれて、視界の悪さに目を擦ろうとして、その腕を絡め取られてしまった。
「駄目です、アルギン。目は、少し休めてください」
「………イル……?」
声で、誰かは解った。視界にある金色は、ユイルアルトの髪だろう。
目の前が気持ち悪いくらいぼんやりしている。このままでは吐いてしまいそうだったので、ゆっくり目を伏せた。
「倒れるまでの事、覚えていますか?」
「………。覚えてない」
「薬の瓶を開けたら、アルギンは倒れたんですよ。あれは私でもやり過ぎたって思うくらいには強い薬でしたから。……でも、鼻血まで出すなんて思いませんでしたが」
「……鼻血?」
「やっぱり、アルギンに使わせないで正解でした。少し離れた場所にいましたが、今の今まで一時間くらい気を失っていたんですよ」
ああそうか、なんだか思い出した。アルギンが靄掛かる記憶を必死に手繰り寄せる。
最後に見たのは自分の血。………その筈だったが、幸せな夢を見ていた気がする。
「………あの人が」
「あの人?」
「アタシの死んだ旦那が、川向うに立ってた気がする」
「気のせいです。大丈夫です。アレは死ぬような薬ではありません」
気のせい、と一蹴されてアルギンは悲しくなりながら上体を起こす。
その場所はオリビエのいた部屋とは違う部屋らしく、他にベッドが幾つかあった。
「……気分は如何です?」
「目が痛い。あと鼻も」
「仕方ないです。目、見せてください。……ああ、少し充血してますね」
ユイルアルトの簡単な診察で、帰ったら薬を処方してもらえることになった。アルギンはそれでいいとして。一番聞きたい事、それはアルギンが問うでもなく、ユイルアルトの口から出て来た。
「オリビエさんは、目を覚ましました」
「……良かった」
「……良かった、とも言えません。直接、様子を見た方が良いかと」
それは、どういう?
アルギンは言葉にするよりも先に、ベッドから下りていた。寝心地の悪い固いベッドは、確かにユイルアルトが褥瘡を心配する筈だ。ベッドに体重を預けていた体の箇所が痛い。
「無理はしないでください」
「アタシの体より、オリビエの方が気になる。……寝てばっかも居られない」
「もう少し寝ていた方が良いです。オリビエさんは逃げませんよ。……逃げられませんから」
ユイルアルトの言葉が気になりつつも、アルギンはそのまま立ち上がる。一回体を伸ばしたら、あちこちから骨の鳴る音が聞こえた。肩も腰も首も痛い。
「……寝ていた方が良いって言ってるのに」
「アタシは健康優良児だよ、大丈夫。……それより、オリビエの様子は」
「止めても行くんでしょうね。……同じ病室ですよ、こっちです」
ユイルアルトの先導で、アルギンが寝ていた病室から再びオリビエの病室に向かう。これで見るのも三度目になる廊下を進みながら、浮かないユイルアルトの表情が気になっていた。
病室のノックは三回。返事を待たずに、扉を開く。
中は、相変わらずの景色だった。開け放たれていた窓は、一番ベッドに近い所を除いて閉まっている。風通しもよく、静かなその病室で、変わったのはベッドだけだ。
オリビエの目が開いている。
「オリビエ」
アルギンが名を呼んだ。
「オリビエ、起きたのか」
アルギンの心に有ったのは、安堵と歓喜だ。これでオリビエは、また再びあの笑顔を見せてくれる。
そう、思っていた。
「…………。」
オリビエからの返事は無い。
「………―――……。」
「オリビエ?」
首を僅か動かしアルギンを見る双眸。入院と眠りっぱなしで仕方ないとはいえ、以前に見たオリビエとは随分違った印象を受けた。まるで、命の灯が消える直前の者のような顔だ。それを見たアルギンは、その顔に濃く見える死の影に、背中に冷たいものが這ったような感触を覚えた。
戦死とは違う、死の色。アルギンは病死で死ぬ者を今まで殆ど見た事が無い。
「オリ……ビエ」
―――憧れちゃいますねぇ、騎士や自警団が手を出せないような、証拠が揃っていない相手に対しても正義の鉄槌を下すなんて!
店に来た最初の日のオリビエを思い出す。あれほどまでにキラキラとした瞳で裏ギルドの事を語るオリビエと、目の前で床に伏せるオリビエが頭の中で紐づかない。
「……ぁ、あー………」
オリビエが、言葉にならずに漏れ出る音を口から出す。その音は、アルギンが覚えているオリビエのどんな声とも合致しない。まるで絞り出すかのようなその声に、アルギンが側に近寄る。
「オリビエ。アタシだよ。解る?」
「……ぁ」
「答えなくていい。今までずっと寝てたんだ。疲れてるだろう、返事はいいよ」
シーツの下の手が震えていた。動かしたくても動かせない、といった具合の動きに、アルギンがシーツの上から手を握る。
この手は新聞の記事を書いていた手だ。ペンとメモ帳を握っていた手だ。オリビエの職業となっていた手だ。それが今、何を持つことも出来ずに震えている。
アルギンは努めて優しい声でオリビエに語り掛ける。それがオリビエに届いているかも解らないが、アルギンに出来る事はもうそれだけだ。
「っ……ぁ。ぁー……」
唸るようなオリビエの声。それが何を言いたいのかも解らないアルギンは、ただ手を握ってやるしか出来なかった。
やがてオリビエは静かに瞼を下ろした。弱々しいながらも呼吸に合わせて上下するシーツを暫し眺めて、二人は病室を静かに出て行った。
病室を出た二人を、待ち構えていたかのようにオリビエの担当医が廊下で呼び止める。その医師はアルカネットと来た時に案内してくれた医師だった。
二人がいない間、オリビエの診察をしたそうだ。時間の掛かる検査は出来なかったが、医師の見立ては良くないものだったらしい。
「この一週間は、予断を許さない状況になるかも知れません」
幾ら素人のアルギンだって、起きたオリビエを見て手放しで喜べるものではないと知っていた。だから、そう言われて疑問など浮かばなかった。
起きた、じゃあ安心だ。そんな甘い考えは、本人を見て崩れ去ってしまっている。アルギンの顔は険しかった。
「どうにか、助かる方法は無いですか」
アルギンの口から出た言葉は、僅かな希望に縋るもの。医師は難しい顔をして、首を横に振る。
「全力を尽くします、としか言えません」
アルギンだって解っている。医者は万能じゃない。その無力感に苛まれているのは、きっとこの医師だけではないのだろうと。
ユイルアルトは、アルギンの後ろで暗い顔をしている。その顔を見れば、彼女にだってオリビエの事はどうしようもないのだと解る。……王国随一とされる医療機関でこれなのだ。今は、オリビエを信じるしか無かった。
「……宜しくお願いします」
胸に過ぎる無力感を押し隠すように、アルギンが医師に頭を下げた。ユイルアルトもそれに倣う。
今は病院に任せるしか無い。二人は大人しく帰路に着いた。
幾ら気分が落ち込んでいたとしても、時間は誰にでも、同じように流れる。アルギンもユイルアルトもそれは良く知っていた。
その日にだって夜は来る。オルキデとマゼンタのいない夜は、酒場の客を捌くには人手があまりにも足りない。アルギンは落ち込むのもそこそこに、目の前の問題について必死に考えた。
考えた結果が、これだった。
「お待たせしました、ご注文の野菜の素揚げです!」
初々しい振る舞いで店内を動き回るジャスミン。エプロンは自前らしく、白地に赤い縁取りがされているもの。初々しいとはいえ、これまでマゼンタの店での動きを見ていて人とのコミュニケーションも苦手ではないジャスミンは不慣れながらもよく動けている。
「え、ええと、白身魚の香草焼き……は、はい、畏まりました」
ジャスミンと同じように店の中に黒いエプロンを付けてオロオロと歩き回っているのはユイルアルトだ。あまり人と関わる事が得意ではないユイルアルトは、困ったように店内を歩き回っては時折ある注文取りに必死の様子。
アルコールの注文を受けているのは、久し振りにカウンターに立ったアクエリア。
「お、兄ちゃんがここにいるなんて久し振りだね! また手伝いかい」
「ええ、少しだけですけどね。それで、今日は何飲みます?」
以前アルコールの提供を手伝った事があるアクエリアの事を覚えている常連は少なかったが、それでも長くこの店に来ている客の中には覚えていてくれる者もいた。和やかな話をして、アクエリアも問題なし。
アルギンは、と言えば。
「おおい! ジャス、イル! 上がったぞ!!」
キッチンに引っ込んで、次々来る料理の注文にてんてこ舞いだった。
これまで最初期はマゼンタ、マゼンタがホールに出るようになってからはオルキデに任せっぱなしにしていたキッチンの仕事。全部のメニューとは行かないまでも、注文の多いものは何とか覚えていて、あとはレシピに頼って料理を仕上げていく。
「こっちも! 上がったぞー!!」
回転時にキッチンに殆ど立たなくなっていたアルギン一人ではどうしようもなかったので、キッチンの仕事をミュゼにも手伝って貰っていた。今日は半日で帰って来ていたミュゼに頼み込み、指示を出しながら簡単に出来る料理の方を作って貰う。孤児院でも料理をすることがあるからか、ミュゼの手際は良かった。
ミュゼのエプロンは薄緑の、あちこちに少し染みが付いたものだ。これも自前のもので、孤児院で使っているらしい。
「ミュゼ、あと何が残ってる?」
「大丈夫。あとサラダで終わる。そっちこそ、何かする事ある?」
「いや、こっちもあとは焼き物だから大丈夫だ。余裕あるなら皿出して」
「ほい了解」
どこに皿があるかも直ぐに覚えたミュゼはキッチン内を迷いなく動いた。まるで、前からこのキッチンの配置を覚えていたかのように。ミュゼがこの場所に入ったことなど、殆ど無い筈だが。アルギンの目から見ても手際よく手伝いしてくれるミュゼに、少しだけ疑問を抱いた。
「……ミュゼ、手慣れてんな。有り難いけど」
「ん、そ? 孤児院でも料理作ったりするからなー」
声を掛けてもミュゼは作業の手を止めない。最後と言っていたサラダを完成させ、それをユイルアルトに持って行かせる。
そんなこんなで一旦料理の注文は全てはけた。また注文が入るまでの小休止、アルギンはミュゼの方を向いた。
「なぁミュゼ」
「何だ?」
振り向いたミュゼに、アルギンが小さな木箱を投げた。それはミュゼも何回か見た事ある、アルギンの煙草入れ。中にはマッチも入っている。
「ちょっと煙草でも吸っておいで。慣れない作業で疲れたろ」
「良いの? 有難く拝借するぜ」
言わずとも疲れの色が見えるミュゼを休憩に下がらせ、アルギンはキッチンに一人になる。
ホールの方から聞こえてくる喧騒に、これまでと違う声が聞こえてくる。ちらりと覗けば、忙しそうに酒場の仕事をこなすギルドメンバー。
キッチンに注文の入っていない今、本当ならアクエリアと交代してやれば良いのだろうが。
「………。」
今のアルギンには、ホールに出る気が無かった。ホールが見える位置に椅子を持って行って、それに座ってホールの様子を眺める。
ホールにいる中でアルギンに気付く者はいない。無意識にアルギンが手で煙草入れを探すが、それはもうミュゼに持たせた後だった。
何も掴めなかった手を、無言で見つめる。それから視線を天井に向け。
「もーちょっと……労ってやれば良かったかな」
自分の酒場が知っている酒場で無くなったような空虚な感覚を、アルギンは初めて感じていた。
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