第101話
雨が降っていた。
アルギンはその雨の中でも、続けてオリビエを見舞いに行った。
しとしととした秋の長雨は、街の通りから人の姿を奪っている。だいぶ使い古した傘を手に、病院までの道程を歩く。
雨は続いた。
次の日もアルギンは傘を差して見舞いに行った。帰りに孤児院に寄ると、双子は雨の中砂場で泥だらけになって遊んでいる最中だったので、二人を抱き締めたアルギンも泥だらけになった。
雨はまだ続いた。
その日のオリビエの顔色は昨日より良く、初日に目覚めた時より少しだけ声が出ていた。
その時に耳にしたのが
「くるしい」
に聞こえて、それがアルギンの心を苛んだ。
その次の日も雨だった。
「アルギン、少し良いですか」
見舞いに出て行こうとするアルギンを呼び止めたのはユイルアルトだった。
「……何、どうした?」
「少し、部屋まで来てもらって良いですか」
何があったかも言わず、ユイルアルトは顎で部屋を指し示す。アルギンはそれを多少不思議に思いつつも、大人しく促されるまま彼女に付いていった。
部屋の中には相変わらずの多数の植物と、もう一人の部屋の借主であるジャスミンがいる。ジャスミンは、調合台にしている机の前でアルギンを待っていた。
「んで? どうしたんだ?」
部屋の扉が閉まってから、アルギンが二人に尋ねる。今の所、二人に呼び出される理由が解っていない。個人的に依頼した薬の代金はもう払ったし、二人から貰うことになっている家賃は今の所満額払われている。
次はジャスミンが机の上を指し示した。アルギンはその側に寄る。
「……なんだ、コレ?」
机の上には、籠に入れられた鼠がいた。
「……生き物飼うの許してない筈なんだけど」
「この子は一昨日部屋に出て来た子です。捕まえた時、すごく痩せ細ってたんですよ」
「痩せ?」
アルギンがもう一度鼠を見る。
それはまるで焼き立てパンのように、長い尻尾以外まるまるころころとしている。
「こいつのどこが痩せてる?」
「聞いてください。……以前、アルギンから渡された物があるじゃないですか」
「渡……? ……ああ」
ユイルアルトのその言葉で思い出した。王妃から渡された、粉の入った小瓶。
あの時は使わなかったものだが。
「それをですね、何が起きるか解らなかったので、鼠の餌に混ぜて使ってみたんです」
「実験体にしたって事?」
「有り体に言えばそうなりますね。……それで、捕まえたのが一昨日なんですけど、このこみるみるうちに太っちゃって」
「………。」
「それ以外は今の所、元気です」
目の前の鼠はどう見ても健康体を通り越した肥満体だ。痩せ細っていたなどと聞いても信じられない。そこで、王妃の言葉を思い出す。
「……救命、か」
王妃はあの日中庭で、『救命を手伝う』と言ったのだ。
約束を反故にするような王妃ではない。そして渡されたのが、ユイルアルトが鼠に使った小瓶とその中身。
「使いに行きますか」
アルギンの心の中を読んだかのように、ユイルアルトがアルギンに尋ねた。
尋ねられた所で、アルギンの心はもう決まっていた。
オリビエの病室は、相変わらず静かだった。雨が降っているからか病室の窓は閉まっている。アルギンは小瓶をユイルアルトに任せたまま、その空間で小さく息をする。今日は担当医も同席してもらった。担当医も、少し気不味い顔でベッドの側に立っている。
相変わらず顔色の悪いオリビエは、瞳を開いたまま時折苦しそうに呻く以外は動きもしない。ユイルアルトももう褥瘡を確かめるような事をせず、その顔を覗き込むだけ。
小瓶の蓋が開く。担当医には、一応の使用了承を貰っている。
「水を」
ユイルアルトの声は決して大きくは無かったが、病室内に嫌に響いた気がしてアルギンの眉間に皺が寄る。
担当医が、無言でベッド脇に置いてある吸い飲みを渡した。それを受け取ったユイルアルトは、先にオリビエの口の中に小瓶の中身を鼠に与えたのと変わらないくらいの少量を含ませる。
「お願い、飲んでください」
それは祈りの言葉にも似ていた。ユイルアルトは彼女が粉を噴き出してしまわないうちに、吸い飲みをオリビエの口で傾ける。
嚥下の音が聞こえた。
「……飲んだ?」
静かすぎる空気に焦れたアルギンが、オリビエから目を逸らさないユイルアルトに問いかける。返事は、返らない。
担当医がベッドから二歩ほど後ずさる。それで、粉の嚥下が完全に終わったことをアルギンは察した。
「飲みました」
漸くユイルアルトの口から言葉が漏れた。
「それで、オリビエの様子は?」
「今飲んだばかりです、直ぐに変わる訳ないでしょう」
担当医も、まるで複雑な治療行為が終わった後のように額に汗を浮かばせている。アルギンがベッドの側に寄ってオリビエの顔を覗き込むが、粉を飲ませる前と様子は変わらない―――
「……ぁ」
ように、見える。
「ぁ……る、……ぎ、」
これまで呻き以外を口にしなかったオリビエが、アルギンの名前を呼んだ。
「オリビエ!?」
それは三人の耳にしっかりと届いた。ユイルアルトも担当医も驚いた顔をしている。それまで動かなかったオリビエの腕を、持ち上げるかのような動きもしている。その手はシーツの中だったが、構わずアルギンはシーツを腕の分剥がして手を握った。
「あ、る、ぎ、」
「アタシはここだ、オリビエ。大丈夫、ここにいるよ」
何が大丈夫なのか、アルギンには解っていない。けれど、そう言う事でオリビエを少しでも安心させられたら。その思考で頭が一杯だった。
「ある、ぎ」
オリビエは何度も繰り返す。その度に、アルギンは手を強く握った。
やがてオリビエの瞳は閉じ、細く小さい寝息が聞こえてくる。それを担当医が確認した後、アルギンはそっと手を離した。
「……信じられない。いや、これまで一回も言葉らしいものを発していなかったのに」
担当医の言葉に、ユイルアルトが小瓶を見る。
「アルギン……、本当に、これは何なんですか」
「アタシも聞きたいよ。……言ったろ、アタシだってただ受け取っただけだ」
「受け取った時、疑問に思わなかったんですか?」
「思ったけどさ。……聞けないよ、受け取ったのは暁経由でだ」
それを聞いたユイルアルトは黙り込んだ。アルギンの物への興味が薄いのにも怒りを覚えた様子だが、暁の名前を聞いてアルギンの心境も察した。ユイルアルトにとってだって、暁は好きな人格をしている訳ではない。いつも湛えている笑みに、空恐ろしいものを感じているから。
「……オリビエも寝たし、アタシ達も帰ろうか」
「何かあればご連絡致します。なにぶん、見舞いに来てくれるのはアルギン様達だけですので……」
「アタシ達だけ?」
アルギンの眉間に皺が寄る。オリビエの故郷まではどうなっているか把握していないが、勤める新聞社には既に連絡が行っている筈だった。それなのに、誰も見舞いにすら来ていないなんて。
「そのようです。あまり言いたくはないのですが、オリビエさんは職場では人に恵まれなかったようですね」
「………。」
淡々とした口調は、それがそんなに珍しくない事であるだろうという事を感じさせた。入院してから、誰も見舞いに来ない。アルギン達が来るだけ、オリビエは恵まれているのかも知れない。
それから簡単な挨拶だけで、二人は病院を後にする。
「解毒薬、栄養剤」
ユイルアルトが帰りしな、誰もいない雨の路で呟いた。
二人の傘はそれぞれ薄汚れた灰色と、濃い黒色。傘の下で、アルギンがユイルアルトに振り返る。
「どっちだと思います、この粉」
「……どっちって……、どっちなんだよ」
「それが解らないんですよね、栄養剤がそんなに直ぐ効くとは思えません。かといって解毒薬だとしたら、実験した鼠は毒を受けていた訳でも無いでしょうし、太っています」
「……どういう事?」
「私はオリビエさんの症状、極度の栄養失調か服毒による衰弱の両方を疑っていました。……外科手術が必要な他の病気だと、私の手に余るところがあるというのが本音ですが」
「???」
「私は私の知っている分野から、オリビエさんの状態を考えていた訳です」
アルギンはユイルアルトほど学がある訳ではない。医者の専門用語を並べられてもさっぱりだったが、ユイルアルトは噛み砕いて説明している。
医者として気付いた事、医者として考えられる事、それらを解りやすくアルギンに伝えたつもりだが―――当のアルギンは頭に疑問符を浮かべたような顔のままだ。
「それはそうと、この粉……不思議なんです」
「? 何が」
「普通の薬であれば、幾らかはさらさらしてると思うんですけどね。少ししっとりしていて、指にくっついて来て。まるで―――花粉みたい」
その言葉で、アルギンの疑問符が消失した。
「……花粉だとして、こんな花粉見た事あるか、イル?」
「無いですね。花粉というのは大体が黄色やその類の色です。……私の知っている花は、ですが」
「じゃあ、イルが知らない花って可能性は」
「……その可能性は充分あります。私だって、世界中全ての花を見た事ある訳じゃないですし」
オリビエの鞄についていた紫色の粉は花粉ではなかったか。マゼンタが漂わせている花の香りと同時に付いた花の花粉とするなら、それはもしかするとマゼンタの花粉。
ではこの瓶に入った花粉は、どこから?
「アルギン、もしかして心当たりあるんですか」
アルギンの様子に疑問を覚えたユイルアルト問い掛ける。その言葉に返す返事を見つけられなくて、アルギンが一度足を止めた。
「……イル、先に帰っていてくれないか」
「どうしたんです、アルギン?」
「ちょっと寄って帰る場所が出来た」
「………。」
踵を返すアルギンを、ユイルアルトは止めなかった。アルギンが向かう道の先を見て、おおよその目的地を察する。
「―――ああ」
ユイルアルトの口から溜息が漏れた。
視線の先、雨に煙る丘の上の王城はどこか、幻想的で不気味に見えたから。
溜息は風に溶ける。
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