第89話


「お腹いっぱいです……!」


 オリビエの食事が終わったのは、客の姿が疎らになって来た頃。オリビエが限界を告げると同時、笑顔のマゼンタが近くに寄って来た。

 空になった食器を重ね、手に持つ。オリビエの様子を見て、マゼンタがくすくすと笑った。


「全部食べられたんですね、お味はどうでしたか?」

「美味しかったです! ……でも、次があったら量は考えたいと思っています」

「ありがとうございます、でも食べ切るなんて凄いですね。もう少しゆっくりしていらしてくださいね」


 簡単な話を終わらせて、マゼンタが食器を持って去っていく。空いたテーブルに、オリビエは早速メモ帳を広げていた。

 料理、星二つ。量が多くて味もそこそこ。

 オリビエはメニュー表も広げて、その内容も走り書きしている。アルカネットが書きつけられた文字を、ぼんやりと眺めていた。


「……アルカネットさん」


 ぼんやりの最中に、声を掛けられたアルカネットは視線だけをオリビエに向ける。


「私はですね、実はもう一つ都市伝説を追ってるんです」

「……またその話か」

「アルカネットさんは、一番街についてどれだけご存知ですか?」

「一番街?」


 アルセン国城下、一番街。

 それは通行証が必要な場所で、城下というのに治外法権とされる場所だ。

 一番街はその周囲をぐるりと塀で囲われていて、中を覗くことも出来ず、入るには通行証が必要となっている。時折アルギンも『家賃払わない奴は一番街に行かせるぞ』が脅し文句となっている。

 アルカネットもそれで何回か脅されたが―――、まぁ、それはそれとして。


「民間人の立ち入り禁止、治外法権、通行証必須……。まぁ、俺の知ってるのはそれくらいか。中に入ったことも無い」

「ですよね!! でも、不思議だと思いませんか? 治外法権で一番治安の悪い場所。私はそう聞いていましたが……、そもそもそんなに治安悪いなら、中の人が出てきても不思議じゃないんじゃないですか?」

「………。」


 オリビエの疑問は、アルカネットの思考を誘導する。まるでその疑問が最初からアルカネットの中にもあったかのように。

 今まで考えた事も無いが、確かにそうだ。二番街より治安が悪いとされているのが一番街。王国の考える事は解らないが、何らかの手段で一番街を独立させているのだろうとだけふんわり考えた事もあった。

 それなのに、アルカネットは今の今まで一番街出身の者を見た事がない。


「不思議ですよね? 不思議じゃないですか? 何とか謎を追いたいって思いませんか?」


 熱心なオリビエ。その目が『仲間を増やしたい』と言っていた。尤も、誘われてもアルカネットは断るしかないのだが。


「……思わないな。俺は自警団だ、そんな危ないところに首を突っ込もうとした奴をどうにか引っぺがすのが仕事なもんで」

「おっと藪蛇! でもですね、引っぺがされたって私は踏ん張りますよ!!」


 楽しそうな笑顔は、アルカネットの目から見ても輝いて見えた。本当に楽しそうだ。同時に不安も覚える。

 この女はまるで好奇心旺盛な子猫のようだ。自分にとっての謎を追い求めるあまり、床だと思って下ろした足の先が奈落に続いていなければいいが―――。


「―――楽しそうですね、お二人とも」


 そんな時、二人に声が掛けられた。

 アルカネットが視線を向けると、そこにいたのはカップを持ったマゼンタだった。二人の前に、コーヒーを置いていく。


「これ、マスターからです。カウンターが空いたから、これを飲んだらあっちで取材の続きを、と言ってました」

「うわぁ、ありがとうございます! ……あ、お代」

「コーヒーに関しては結構ですよ、お帰りの際にお食事代をお願いしますね」


 マゼンタは笑顔で伝言を伝え終えると、笑顔のままアルカネットを見た。


「女性と長くお話を続けるアルカネットさん、相手がマスターとフェヌグリークさん以外で初めて見ました」

「……変な勘繰りはするな。あとその名前も出すな」

「アルカネットさん、フェヌグリークさんって誰です? 恋人ですか?」


 案の定オリビエがコーヒー片手に食い付いてきた。アルカネットが舌打ちをする。

 うふふ、と笑いながらマゼンタは去って行った。余計な話の種だけ残して。

 オリビエから質問攻めに遭いながら、アルカネットがコーヒーを啜る。……その時、不意に違和感を覚えた。


「……?」


 去っていくマゼンタの背中が見える。

 コーヒーは、普通に飲めるくらいに冷めていた。いつもなら熱々のものを提供しているのに。

 アルカネットの違和感も、オリビエからの終わらない質問攻めで頭の隅に流れて行った。




 ある程度のアルギンの取材が終わると、オリビエは広告代を持たされて帰っていった。その広告代は食事代はきっかり抜かれていたが。

 そして店が閉店時間になる。店の看板が中に引っ込んで、今日の酒場は終わり。


「っはー……。疲れたぁ……」


 そう漏らしながら紫煙を燻らせるアルギンの表情は恍惚としたものだった。久しぶりの開店で、客の入りも上々だったらしい。アルギンの隣でオルキデが金勘定をしている。マゼンタは簡単な片付けをしに奥に引っ込んでいった。

 結局今日はアルカネットは最後まで酒場に残っていた。どうせ明日は休みだからと風呂さえ後回しだ。


「閂閉めるか」

「いんや、まだミュゼが帰って来てないだろ。今日は本業の筈だが、遅いな」


 そうこうしてると、入浴を終わらせたアクエリアが酒場のホールを覗いていく。まだ濡れている髪は、彼の跳ねている毛先を大人しくさせていた。


「帰って来ていないのは暁もではありませんか、アルギン」

「アイツはどうでもいい。他所に帰る場所があるってんのに別荘的にこっちを扱う奴は出て行って貰って全く構わん」

「……またそんな事言って……」


 なんだかんだで暁が居ないと困る事になるのは、参謀役としても暁を使っているアルギンなのだが。

 アクエリアがやれやれといった風に首を振って、そのまま階段を上がっていく。そして金勘定が終わったオルキデが、帳面を付けて売り上げと一緒にアルギンに渡した。


「ん、お疲れオルキデ。今日もありがと、もう上がって良いよ」

「はい。……では、私は風呂に入らせて貰います」


 そう言うとオルキデは部屋に下がっていった。着替えを取りに戻るのだろう。

 アルギンもそのまま自室に向かう。金庫に金を入れに行ったようだ。


「……はぁ」


 そしてアルカネット一人になったホール。

 風呂も埋まったし、特にすることが無くてカウンター席に頬杖を付いた。もう腹はそれなりに膨れているし、後は風呂に入って眠るだけ。待ち時間をゆったりと過ごしていると、奥からマゼンタが片付けを終わらせたのか出て来た。


「あら、アルカネットさん。まだ下にいらしたんですね」

「……風呂が埋まったからな」

「今日もお疲れさまでした。何か飲みますか?」

「……じゃあ、温かい物でも貰おうか」


 そしてすぐマゼンタは中に入っていく。キッチンからは湯を沸かす音が聞こえてきた。

 アルカネットが飲み物を待っていると、酒場の扉の方からミュゼが入って来た。


「おーおーこんな時間なのに、アルカネットどうして下にいるんだ?」

「……色々あってな。まだ風呂は空いてないぞ、入るなら俺の後になる」

「ああ、この時間混んでるって思って孤児院で子供達と入って来た。良い匂いだろ?」


 ミュゼはその場で優雅に一回転。確かに石鹸の香りはアルカネットの所まで香りはするものの、着ている服は朝と一緒なので少し汚れている。紺色のシスター服だったが、裾には見て解るくらい泥らしいものが付いていた。子供を相手にする仕事だ、汚れない訳がないのだが。


「んじゃ、お休みアルカネット。私は疲れた、もう寝る」

「ああ、ゆっくり休め」


 ミュゼは部屋に向かう。階段の音が彼女に合わせてギシギシとなった。

 それから暫くしてマゼンタがお茶を持って出て来た。カップは二つ。


「……あら? ミュゼさんの声もした気がしたんですけど。もう上に行っちゃいました?」

「行った。風呂はもう済ませているらしい、寝るそうだ」

「そうですか……。じゃあ、私が飲んじゃお」


 ひとつはアルカネットの所に。もうひとつはマゼンタの手の中に。

 二つのカップが傾いた。淹れたてのお茶は、熱くて直ぐに飲めはしない。アルカネットは啜る様に飲んで、マゼンタは息を吹き掛けながら少しずつ飲んでいる。


「今日も大変でしたね、アルカネットさん。オリビエさん? でしたっけ? 何の話をしていらしたんですか?」

「……別に、特に面白みも無い話だ。聞かせる内容も無い」

「そうですか」


 マゼンタは笑顔を浮かべる。その笑顔に、再びの違和感を覚える。

 今日のマゼンタは何かが変だ。いつもは人懐こい笑顔を浮かべる、酒場の看板娘。成人したとはいえどこか顔に残る幼さは、今日は成りを潜めていた。


「良かった」


 それは笑顔の筈だった。


「―――……それは、どういう意味だ?」


 しかしアルカネットには、それに底冷えするような寒気を覚える。アルギンの笑顔にも似た苦手に思っている、どこか含みのある笑顔に見えた。

 マゼンタがアルカネットを視線だけで見る。底冷えが、まだ終わらない。


「……もう。またまたそんな事言って。色男なんですから」

「……。」

「フェヌグリークさんが嫉妬しちゃいますよ?」


 ここで妹の名前を出すか。アルカネットが眉を顰める。

 妹はアルカネットにとって拠り所でもあるが、わざわざここであの名前を出されるとは思っていなかった。僅かであるが、言い知れぬ不快感がアルカネットを襲い、茶の入ったカップをカウンターに下ろす。


「……あいつの名前を出せば良いとでも思ってないか」

「そんな事、私は」

「俺があいつの名前で都合よく動くと思ってるんなら、その考えを改めろ」


 マゼンタは戸惑った様子も見せず、アルカネットの視線を黙って受け入れている。それがまた奇妙な話だった。普段のマゼンタは、アルカネットと普通に話を交わす事はあっても、フェヌグリークの名前をこんなに頻繁に出すことは無かった。それに、アルカネットが苛立ちを交えた視線を向けても素知らぬ顔で茶を飲んでいる。人の地雷を踏む話は直ぐに撤回するマゼンタには殆ど無い事だ。


「……マゼンタ、何か企んで―――」

「おいおい、何の話だ」


 奥からアルギンが帰って来た。手に持っているのは空っぽになった売上袋だ。それをカウンターに収納して、二人の会話に割って入る。

 アルカネットは舌打ちをした。これはアルギンに聞かせていい話かが解らなかったからだ。無言でもう一度カップの茶を啜った。


「マゼンタ、お疲れ。片付け終わったならもう上がってくれ」

「はい、お疲れさまでしたマスター」


 マゼンタが自分のカップを手に、奥へと入っていく。その後ろ姿を視線で見送ったアルカネットは、その姿が見えなくなってからアルギンに話しかける。


「……オーナー。今日のマゼンタ、変じゃなかったか」

「あ? ……そうか?」


 アルギンは遅い時間だというのにまだカウンター内でゴソゴソしている。出て来たのは彼女が愛飲している煙草だ。仕事終わりの一服を、それはそれは気の抜けた顔で吸っている。アルカネットから見ても美貌と思う顔の持ち主は、この顔を目的に来店する客に見せたら幻滅されそうな表情でカウンターに頬杖を付いた。


「マゼンタは今日も頑張ってたぜ。うちの看板娘は優秀だ」

「……そうか」

「おー。……何か気になる事でもあんのか?」

「……。」


 ―――裏ギルドの話は、とても素敵な話だと思います。だから、私は


 オリビエの言葉が脳裏に過ぎった。これ以上深入りして貰っても困る。目の前のこのオーナーは、義理の弟相手でも命を脅かすような言葉を吐いたのだ。それが部外者で、何の関係も無い相手だったら……前置きすらせず、その首を掻っ切ってしまうのではないか。


「オーナー」

「はいよ」

「オリビエの所に、これ以上都市伝説に深入りしないよう手を回せないか」

「……随分心配性だなアルカネット。なに、惚れた?」

「冗談が過ぎるぞ」


 アルギンは、いつかにアルカネットに見せたような凄みすらないような表情で、カウンターに直接頬を付けて茶化した。それにも苛立ちを感じたアルカネットが、棘を隠し切れない口調でぴしゃりと言った。


「……手は、回せる」

「本当か」

「でも、穏便に出来るかは解らんぞ。……今なら、あの小娘一人の首を落とす方が安上がりだろうからな」

「―――。」

「忘れんな、アタシ達はそんな感じの集団だ。今の状態で上に掛け合ってみろ、暁辺りが嬉々としてそんな感じの依頼持って来るぞ」


 アルギンの紫煙が燻る。

 アルカネットはその紫煙の根元を眺めつつ、厄介な扱いを受けている暁の事を思い出していた。暁の事は知らない事がとても多い。解らなくて良いと言われた、その理由さえ解らない。

 二人が顔を見合わせているその横を、マゼンタが自室に引いていく。二人はそれを視線で見送るだけ。


「……ま、風呂空いたら声掛けるから、お前も部屋に行ったらどうだ」

「そうする。じゃあな」

「おう、お疲れ」


 アルカネットはこれ以上ここにいる意味が無くなった。カップは既に空っぽだ。

 アルギンの視線を背中に受け止めながら、階段を上って自室に向かう。


 今日はとても静かな夜だった。

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