第78話


 お願いです、神様。

 今まで信じなかったことは謝ります。懺悔します。

 愚かだったアタシをお許しください。


 あの人が居なければ生きていけないんです。

 あの人がアタシの全てなんです。

 アタシを愛していると言ってくれた、あの人をどうか助けてください。


 信じます。

 信じますから。

 叶うならアタシの命なんか要らないから。


 どうか、あの人を助けてください。



 アルギンは何度も祈った。何度も願った。

 苦しくて悔しくて、唇の皮が破けるまで食いしばった。

 城に着いて、戦況を報告し、治療も受けずに城を飛び出そうとしたのを引き留められた。


「アルギン、其方は最悪の時を考えて城に残れ。城に残る軍勢の指揮権、全て其方に委ねよう」


 王妃は、一人しか座っていない謁見の間で、冷静にそう言った。

 王妃が階段の上の玉座から立ち上がる。

 アルギンはその時、ヴェールにいつも隠れている筈の素顔を見た。


「私が往く」


 アルギンは耳を疑った。王妃がヴェールを外しての言葉は、立場を考えれば俄かに信じられないものだった。

 驚いているアルギンの横を通り過ぎる二人の影がある事にも気付かないまま。


「暫し、借りるぞアルギン」


 そう言われて階段を下りてくる、その王妃の側に寄る二人。

 オルキデとマゼンタだった。


「―――オルキデ、マゼンタ」

「暫く、外します」

「すみません、アルギンさん。行ってきます」


 二人は皮鎧を身に着け、アルギンに笑顔を向けていた。アルギンは状況が理解できていない。


「プロフェス・ヒュムネにはプロフェス・ヒュムネで対抗するしかないであろ。……行くぞ、二人とも」

「はい、姉様」


 アルギンはその時の事を忘れない。

 オルキデが姉と呼んだ王妃の事も。

 豊かなウェーブを象る濃紺のような黒髪を持つ、美しい王妃の顔も。


 ―――アルギンの時間は、それから暫く止まったような感覚になる。


 生きた心地のしない時間は、日が昇り、それが傾き、沈んでも、終わりはしなかった。

 息をするのも辛く、思い出すのは最後の言葉ばかり。

 アルギンは何度も城を抜け出そうとした。しかし、その度に連れ戻される。幽閉されている訳でも無いのに、脱走は上手く行かなかった。

 情報は入って来ない。有り得ない話だった。何回も早馬で戦況を伝える兵を迎えて見送っても、アルギンに直接聞かされる話は何もなかった。


「アルギン様」


 同じく城に残ったフュンフは、ある時いつもと変わらない表情で。


「隊長が戦死なさいました」


 そう、言ってきた。




 それから一週間程経った頃。


 アルギンはフュンフに連れられ、城の地下を歩いていた。

 そこはアルギンも何回か通った事のある、寒気さえ感じる場所。

 二人分の足音だけが響く、その場所を進んだ先には狭い部屋がある事も知っている。


 見張りをしている兵がいた。フュンフがその兵を下げさせる。

 きぃ、と木造りの扉は簡単に開く。狭い部屋に、蝋燭が二本。部屋の中央に、棺桶がひとつ。

 フュンフがアルギンに何も聞かず中を開くと、首の無い死体が入っていた。

 ボロボロになった服はアルギンもフュンフも見覚えのあるもの。一緒に彼が愛用していた長剣まで入っている。


「……フュンフ、二人きりにして」

「………ですが」

「アタシは、まだ、死なないから。……心配ならその剣、持って行って」


 素っ気ない口調でフュンフを追い払う。

 フュンフは言われた通り剣だけを持って、その部屋を出た。

 アルギンは足音が離れていくのを聞きながら、そっと彼の首の断面に触れた。

 ねとり、血が固まったものに触れた感触。


「   」


 この喉が、『愛している』と言ってくれた。


「   」


 この体が、『愛している』と抱き締めてくれた。


 アルギンが服を開けさせる。最早冷たいその肌に、見覚えのある傷跡や痣が見えた。

 本人確認なら、それで充分だ。何度も、何回も見てきたものだから。


「……   」


 名前が、呼べない。喉が潰れそうだった。

 気付くと彼の肌に何回も雫が垂れている。それが涙だと気付いた時、もう涙は止められなくなっていた。


「   」


 名前に嗚咽が混じる。


「やだよ」


 言葉が上手く発せない。

 もう誰も聞いていないけれど。


「いっしょに、いさせ、て、って、言ったじゃないかぁ……!!」


 出来もしない『これから』を約束したその傍にいたかった。

 何があっても、離れたくなかったのに。

 この喪失と絶望を、感じたくなんてなかった。


「うあああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」


 骸に縋りつき、泣いた。

 どれだけ泣いたか解らない。けれど泣いても泣いてもどうにもしきれない絶望は、確かにそこにあった。




 アルギンは暫くの間、王立の病院に入院することになる。戦争の重傷者もそこに居て、献身的な看護を受けていた。

 暫くだったはずの入院が、延びて、延びて、半年。アルギンは酒場関係者や医療関係の者以外の誰とも会わないでいた。それはフュンフに対しても同様だ。

 フュンフは焦れていた。『月』隊長亡き今、アルセン軍は動揺していた。それは数か月経っても一緒だった。

 今の状態で、兵にも慕うものが多いアルギンに何かあれば―――。


「おい、聞いたかアルギン隊長の話」

「え、隊長が何だって?」


 そんな中、城での移動中にフュンフは兵が話しているのを聞いてしまった。


「隊長、もうすぐ退院すんだってよ」

「本当かそれ!」

「一時期はどうなるかとは思ったけど……、これで少しは安心できるな」


 兵のその話に、フュンフは目を細めた。

 退院できるようになったからと言って、その心が癒えている訳ではあるまい。

 フュンフは少しばかり後悔していた。あの日あの時、あの場所にアルギンを残していれば、アルギンがここまで苦しむことは無かったのではないか、と。


 フュンフは、踵を返してそのまま病院へと向かう。




 木造の広い病院で、アルギンの部屋を訪ねたフュンフはすんなりと病室まで通された。

 病室廊下の名札には、アルギンの名前がひとつだけあった。個室らしきその部屋を、看護師が数度ノックする。


「アルギン様、お客様です」


 中から、「はいよ」とだけ声がした。

 看護師はフュンフに頭を下げて、その場から去っていく。

 フュンフは病室の扉を開く。中は、大きな窓がある白い病室だった。


「……お、フュンフじゃん。久し振り」


 何てことなさそうにしているアルギンは、ベッドに座っていた。中は来客用のソファらしきものがあるが小さく、長居するのは余程親しい者ばかりという空間だ。

 フュンフは中に入る。それから、アルギンを見て、驚いた。


「―――アルギン様」


 その腹が、服の上からでも解る程に膨れていたのだ。

 元から細身だったアルギンだが、腰回りだけ丸みを帯びている。今着ている服も、あまり体の線が出ないゆったりとしたものだ。


「……それは、隊長の」

「いやー、病院の飯って美味しくないけど食べなきゃダメって言われてて」

「どのくらいになるのですか」

「……中期ってところかな」


 アルギンがベッドから立ち上がった。見た目も雰囲気も、少しだけ丸くなった気がする。

 フュンフがまじまじと腹を見る事で、アルギンも少し困ったような笑みを浮かべた。


「………傷の手当で入院から少ししてさ、体調が酷く悪くなったんだ。最初は……精神的なものなんだろうって思ってて、もう滅茶苦茶毎日死にたくて、……死ねなくて、気分悪いし、毎日吐くし、立ってらんないしこれはもうアタシ心の病も患ったなって思ってて」

「………。」

「そしたら、ある日検査して、その結果が……今。安定期に入って、調子も落ち着いてきたから……今度、退院するんだ」


 アルギンが自分の腹を愛しそうに撫でる。その膨らみは、妊娠中期にしては少しばかり大きく見えた。


「……死にたいって、思ってた」


 アルギンは、ぽつりぽつりと話し始めた。


「兄さんが死んで、あの人が死んで、アタシに帰りたい場所なんて無くなって。一緒に居たかったから、せめて今死ねばあの世とやらで一緒に居られるかなって思ってた」

「……それは、あの方の逆鱗に触れるでしょうな」

「置いてったのはあっちだ。……文句も何でも、聞いてやるから一緒に居たかった。……でも、妊娠してるって解って……アタシは、死にたいなんて、思わなくなっちゃった」


 その瞳には涙が浮かんでいたが、流れ落ちたりはしない。

 フュンフは、ソファに腰掛ける事もせずに話を聞いていた。


「……あの人はもう、一緒に居ないけど、この子がいてくれるなら……アタシは、多分、生きていける」

「………」

「生きてても、いいかな。あの人が居ないと生きていけないって言ったけど、それ、嘘にしていいかな」


 フュンフが、その場に膝を付く。

 アルギンは、突然のフュンフの行動に目を見開いた。こんな場所で何をするんだ、と。


「フュン、」

「お許しください。私は、貴女をあの場に置いて行かなかったことを後悔していました」

「……フュンフ」

「隊長を失った苦しみ、想像を絶するものと承知しています。ならば、私に出来たのは、貴女を見殺しにする事だけかと―――思っていました」


 膝を付いて、俯いた、そのフュンフの顔の下に雫が垂れた。アルギンは、それを見ない振りをする。

 涙だ。彼を失った悲しみは、彼の中にもあったのだ。


「御懐妊、心よりお喜びを申し上げます」

「……フュンフ」

「貴女を連れ帰って、本当に良かった」


 フュンフは、声を殺さず泣いた。

 アルギンは、声を殺して泣いた。


 泣いたって、もう、どうしようも無かったけれど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る