第71話


 一日目の酒場の開店は上手くいった。

 来る者が殆ど全員常連で、そうでなくても常連の知り合いで、事情は知られていた。

 皆から労いの言葉が掛けられて、慌てることなく食事と酒の提供が出来たのは、アルギンとオルキデ、マゼンタの三人にとってはとても嬉しい事だった。

 初日の酒場は深夜まで営業はしない。常連達もそこそこに切り上げて、普段の酒場と比べれば早い時間に店を閉めることが出来た。


 『月』の彼はまだ帰って来ていない。

 彼の身の無事を案じて、アルギンは不安で仕方なかった。


「お疲れ、二人とも」

「お疲れ様でした」

「上手くいって何よりです」


 外の看板を仕舞い、灯りを落とし、店の閂は開けたままだが無事閉店。

 遅い時間の夕食を三人で採っていた時だ。


 酒場の扉が大きな音を立てる。誰かがノックしている音だ。


「見てきますね」


 もう店は閉店した。それを伝えるために、マゼンタが扉に近寄った。

 しかしマゼンタの到着を待たず、扉は開かれる。


「……きゃあ!?」


 マゼンタが悲鳴を上げた。

 外から入って来たのは―――血塗れの『月』隊長だった。


「……遅くなった」


 アルギンから血の気が引いた。

 彼の髪も、顔も、真っ黒で見えないが恐らく着ている服さえも、塗料を撒いたかのように真っ赤だった。

 しかしそんなアルギンを他所に、彼は平然とアルギンの側まで歩み寄って来た。


「……片付けてきた」

「―――もしかして、今まで」

「もう、汝が心配することはない。次の『依頼』がくるまでな」


 その言葉でアルギンが察する。―――この血は、返り血だ。

 動揺した様子のマゼンタが急いで奥からタオルを持って来る。それを、彼は辞退した。


「それを使っては、洗っても落ちまい。……風呂は空いているか」

「う、うん。今は誰も使ってないよ」

「湯浴みを。……着替えを頼めるか」

「わかっ……た」


 奥に歩いていく彼を追うように、アルギンが着替えの用意をする。

 先に浴室に入っていった彼の痕跡を作るように、酒場の出入り口から浴室まで、点々と血の跡が残る。

 アルギンはそれを見て、恐らくは外にもあるであろうその跡を消す方法を考えていた。


 オルキデが外に続く血の跡を消しに行った。

 マゼンタは酒場内の血の跡の掃除をしに行った。

 アルギンは浴室の外で、彼が風呂から出てくるのを膝を抱えて待っていた。

 着替えだけは脱衣所に置いてある。彼の入浴する音を聞きながら、アルギンは俯いている。


「………。」


 こんなに早く帰って来てくれるなんて思っていなかった。しかし、その分彼に無理をさせたのだろうという事も解っている。

 真っ赤に染まった彼を、こんな城下で見るとは思わなかった。戦場でなら見た事がある。

 彼は、戦場でも、とても綺麗で。その強さは、剣士として最上級のもの。

 しかしその力を、彼が望んでした事だとしても、兄や自分が背負うべきものの為に使わせていいのか―――。アルギンの思考がぐるぐる巡る。

 考えに答えが出ないまま、浴室の扉が開いた。彼が出て来たのだ。


「―――アルギン」


 名を呼ぶ、涼やかなテノール。この声を含めて、彼を愛していた。


「…………アタシ」


 愛する男が傷つくかも知れない状況を、望む女など何処にいるだろう。


「貴方が傷ついて帰って来たかもって思った時、息が止まるかと思った」

「……我に対して簡単に傷をつけられる者など、居らぬ」

「心配したの。早く帰って来てくれたのは嬉しいけど、こんな思いしたくないよ」


 抱えた膝に、顎を乗せた。彼はそんなアルギンに合わせて身を屈める。


「我は言った。汝に降り掛かる火の粉を払う、と」

「火の粉くらい自分で振り払えるよ。守られてばっかの女じゃないのは貴方がよく知ってるでしょ」

「我が持ち得るものは少ない。汝に与えられるものなど持ってはおらぬ。ならば、我が示すのは行動のみ―――」


 それ以上を聞きたくなくて、アルギンが彼の腕を引いた。

 乱暴に唇を押し付けて、その首筋に手を這わせる。体を押し付けるように、風呂上がりの真っ新な彼の香りをアルギンの香りで上書きしていく。


「……行動、だなんて。どれだけアタシが心配したかも知らない癖して」


 抱き着いた。まだ濡れている彼の髪を掻き分けて、彼の首筋に腕を回して、まだ残っている気がしている血の匂いを消し去りたかった。

 違う。こんな事が言いたいんじゃない。心配したのは本当だ。でもこんな憎まれ口にはしたくなかったのに。

 それを解っているからか、アルギンの背に手が伸びてくる。二人が体を密着させ、暫くはそのままで。


「……貴方は、アタシがいなくても平気で生きていけるんだろうけど、アタシはもう違うの」

「………。」

「貴方が好きで、大好きで、愛しているの。アタシは、いなくなって欲しいと思う人となんか、結婚しない」


 アルギンの言葉は、どれだけ彼の胸に届いただろうか。結婚しても未だ『好き』が解らない彼が、どれだけ人の心を理解できるだろう。

 けれど彼の手はアルギンの頬に伸びてきた。その手が誘導するように、二人の唇がまた重なる。離れる頃には、二人の唇を銀糸が繋いでいた。


「―――素直に、詫びよう」

「……解ってくれたなら、良いんだけど」


 アルギンの顔が僅かに赤い。その表情は慣れないことに戸惑っていたこれまでと違う、男を知った顔だった。

 彼はそんなアルギンを両腕で姫抱きにし、その場から離れていく。

 辿り着く場所は、二人の寝室だ。


「……アタシ、まだ酒場の片付け終わってない」

「そのようなもの、あの二人に任せればいいであろう」


 寝室の扉が、音を立てて閉まった。




 戦争の足音は刻々と近付いてきていた。しかし、決定的な戦争状態という訳でもない状況が続く。

 国境への布陣命令は、アルギンには出されなくなった。今すぐ戦争という訳でもない今の状況では、アールヴァリンを除く副隊長だけ出陣することが多くなっていった。

 アルギンは昼は執務、夜は時折酒場の仕事といった具合に二足の草鞋を履いている状態。幸いにも、『依頼』がまた来ることは無かった。

 気が向いた時には、『月』の彼も店で手伝うことがあった。


 そんな状況が一年程続いたある日。


 隊長、副隊長の誰もが最悪だと思った。

 帝国の皇帝が、婚姻話をアルセン王家に持ち掛けた。

 要約すると、『五兄妹の末姫を、皇帝の元に嫁がせよ』と。十四を数えたばかりの、国王と現王妃の子供。


 憤慨した国王はこれを拒否。

 皇帝はそれを侮辱と受け取り宣戦布告をして来た。

 実際の所、皇帝もこれが受け入れられるとは思っていなかっただろう。

 国王と王妃は婚姻話という遠回しな戦争開始の意思を受け取った時に、全兵力の半数を国境とその周囲に投入していた。


 それは『花』と『月』も例外では無く。

 布陣は離れる事となったが、二人は同じ戦場に立つことになる。


「たいちょ」


 戦場へ発つ前、ソルビットが城内でアルギンを呼び止める。


「あたし、たいちょーと一緒にいけなくなったっす」

「……どういう事だ?」

「あんまり詳しくは言いたくないんすけど、……他の国周って来るっす。援軍をお願いするために」


 アルギンも知っていた事だ。ソルビットの『個人的な繋がり』を持つものは、近隣諸国の有力者に少なからずいる。

 勿論この戦況で、隊長と副隊長が同じ行動をとる必要は無かった。寧ろ彼女一人で戦力が増えるというなら喜んで行かせるべきだろう。


「ソルビット、言いたくないならアタシは聞かない。でも、いつでも安全な所に居て、きっちり帰っておいで」

「……はい」

「アタシのことなら心配すんな。……ちゃんと生き残ってみせるから」


 それは強がりだった。戦場で、どんなことがあって命を落とすか解らない。

 けれどアルギンには、帰る場所がある以上おめおめと死んでなんかいられなかった。少なくとも、死ぬ気は無かった。

 戦場では『月』は『鳥』の、『花』は『風』の後衛を勤める。

 アルギンは一人で居なければならなかった。それでも、『彼』という新しい『帰る場所』がある限り大丈夫だと思えた。




 前以て話していた通り、戦争が開始と同時に戦線は後退させていた。


 時に乱戦となり、時に静観し、それを戦争というには少々お粗末な戦いが繰り広げられた。

 相手側の士気は有るようで無かった。これまで畳んできた背後の戦線から、アルセンの友軍として各国の兵が一挙に迫ってきていると、『風』の報告で知ることになる。

 それら全てが全てソルビットのお陰では無かったけれど、その幾らかはソルビットの手によるものだとアルギンは知っていた。


 各隊の隊長が直接戦線に出ることは無かった。

 最初に帝国が布陣していた国境向こうは、日が経つにつれて少しずつ数が少なくなった。

 やがて乱戦の回数も減り、互いに静観の時間が長くなった。まるで戦争直前に戻ったように。


 ―――『風』からの報告で、相手側が動く気配がないと確信が持ててから、それぞれの隊が順番に帰城することになった。

 それが叶うようになったのは、戦争が始まって三か月後の事だ。


「……こっちから攻めるって事はしないんすかね?」


 自分の『仕事』を終わらせて、隊に戻って来ていたソルビットは『花』の帰城が決まった後、アルギンだけにそう零した。


「しないだろ。向こうもそうホイホイ攻めさせてはくれないだろうし、こっちだって兵糧・進軍経費・負傷した兵の搬出・その他……。考えるだけで、ただ守るだけより何倍も金が掛かるんだから」

「……たいちょ、そんな所は良く考え回るっすね」

「これでも隊長だからな。酒場経営もしてると、費用対効果ってのにも頭を回さなきゃならんし……」


 今回の帰城は、『月』隊と時期をずらすことになった。『月』の残留は決定している。

 彼と逢えない時間が更に延びる事になったが、それはそれで仕方ないと割り切れ……てはいなかった。

 実はアルギンは、静観時期になった頃から時折『月』に顔を出している。その度に暁から本気なのか冗談なのか解らないアプローチを受け、その度に『彼』から個人的制裁を受けている暁の姿を見ている。

 その逢瀬も、暫くは無くなる。


「ま、帰ったらたいちょーのお店で一杯やらせてくださいよ」

「……そうだな、マゼンタとオルキデいるし、何か作って貰おう。」

「楽しみにしてるっすよ、たいちょ」


 荷造りをしながら、アルギンがその手を一度止める。

 このまま帰る事に抵抗があった。それが永遠の別離という訳でもないのに、『彼』の顔が瞼に浮かんだ。

 その様子を、何もかもお見通しといった顔でソルビットが笑ってみせる。


「……逢いに行っちゃどうっすか、たいちょ」

「………。」


 しかしそんな彼の顔を振り払うように、アルギンが首を振る。

 もう、彼とは別れの挨拶を済ませている。それに―――逢ってしまえば、恐らく、もう城に帰れない。


「馬鹿言え、仕事は溜まってんだ。あの人に逢ってぴよぴよぷーでいられるか」

「っは!? ぴよぴよぷーの自覚はあったんすね!?」

「うっさい、ソルビットこそ荷物は用意出来てんだろうな」

「あたしはもう終わってますよー。ぴよぴよぷー」

「お前、後で覚悟してろ」


 彼に逢いたい気持ちは筒抜けだ。彼を思う気持ちはもっと前から。

 それだけ、周りにも分かるほど、アルギンは彼を愛している。


 少しだけ。少しだけ、離れる。それだけだから。

 アルギンは荷物を纏めながら、胸に襲う寂寞感に堪えていた。


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