第60話


「歩くの、早いよ」


 二人が酒場を出ると、空から雪が降っていた。明日はまた積もるだろう。

 彼はアルギンの二歩先を歩いていた。店を出る時少し不機嫌そうだったのは、アルギンも感じ取れた。

 抗議に漸く彼も歩む速度を緩め、アルギンの速度に合わせるようになった。


「―――結婚、とは」


 彼の言葉が唇から漏れる度に、白い息に変わる。空中を漂って消えるそれを視線で追うアルギンは、彼の言葉の続きを待った。


「愛し合う男女が行う事だ、と……話には聞く」

「……そうだね」

「神の示す博愛も解らぬ我には縁遠い話だ」

「でも、『月』隊長でしょ? 結婚式も執り行うとか聞いたけど」

「儀式など作法を覚えてしまえば誰にでも出来る。そもそも、今のアルセンで主に行われている結婚式は元々三神教の物ではない。昔他所の国から入ってきた文化が広まったのだ」

「え、そうなの!?」


 二人が並んで隊舎に帰っていく。店を出てから彼の機嫌が戻っていたのも気付いていたから、アルギンも御機嫌取りとか言う下手な真似はしない。

 そうやって進む帰路の途中、民家から離れた場所、道だけが続く場所で彼が立ち止まる。それと同時にアルギンも足を止めた。


「どうしたの?」

「アルギン」


 名前を呼ばれて胸が高鳴る。まだこの声で呼ばれる事に慣れる気がしない。特にこんな二人きりの時では。

 返事もせずに立ったままでいると、今度は彼の顔が近くなる。アルギンの頬に触れる、彼の手と指。

 雪では目隠しにもなりやしない。二人の口付けは、誰もいない場所で、密やかに行われる。しかし、今回は誰もいないと言えど場所としては大胆だった。


「……会議の後、フュンフとエンダから言われたことがある」

「な、なんて……言われたの?」


 顔に触れている彼の指をそっと外して、そのまま手を繋ぐ形にする。肌が出ている二人の指先はとても冷えていた。


「『月』が無理して出る必要はない。長が出る隊は『風』だけでも大丈夫だ、と。『月』が出るとしても、司令塔はフュンフだけでも事は足りる、と」

「……確かに、隊長二人が出るのは大仰かも知れないけど」

「どうしても、あ奴らは我を汝の側にいさせたいらしい」

「………へぇ!?」


 裏返ったような情けない声を出す唇を、彼が繋いでいない方の掌で覆い隠す。こんな夜だ、民家からは遠いとしても迷惑になるかもしれない。

 口を封じられたアルギンは、視線で離してくれと訴えるが、その手は暫く離れない。代わりに彼が小声になって、その耳元に囁かれる。


「……我の、『人並みの感情』とやらが珍しいそうだ」


 言葉に大きなリアクションが無いと解ると、彼は口に添えていた手を外す。


「人並みの……って、どういう事?」

「それは我が―――。……いや、この話をするには時間が足りぬな」


 明日の出陣の事を言っている。そうアルギンが感じた瞬間、彼の手を一際強く握っていた。

 繋いだ手を、少し掲げる。明日になったら、この手は遠く離れてしまう。時間が足りないと、切に思った。

 この男が愛しいと、愛していると、強く想う。―――本当は、行って欲しくないと。


「……それでもいい」


 明日の出陣を取り止めて欲しいと、喉から出そうになる言葉をぐっと堪えた。

 代わりに望むのは、キスのその先。


「時間が足りないなら、私は待ってる。……だから」


 この一夜で、彼の何が知れるのだろうか。足りないと言った時間の中で、二人の時間が今も織られて重なる。

 重なれ。重なれ。重なれ。この幸せな時間が永遠に続くと思いたいから。


「明日の朝まで、一緒にいてもいいですか」


 それはやや恋人に言うには慇懃が過ぎたかもしれない。けれど相手への想いと敬意を表すのに、アルギンの中では最上級の言葉だった。

 彼は僅か驚いたように目を見開き―――そして、微笑む。


「……我の部屋で、構わぬのなら」


 覚悟は届いたようだ。その返答に、アルギンの睫毛が雪を乗せて伏せられる。

 けれどこの覚悟の意味は、通じたのだろうか。

 繋いだ手の先から、彼への想いが言葉以外ででも伝わればいいのに。アルギンは柄にもなく、そんなことを思いながら隊舎に向かった。




 帰り道には誰にも会わなかった。流石に隊舎の中では夜の番をしている兵達と擦れ違い、その度に凄い顔をされたが、彼は別段気にしている風では無かった。

 騎士隊長・副隊長合計八人には個別の部屋が与えられている。個室と言っても、城には別に執務室が与えられているので中は寝泊まりして身支度を整える程度の広さしかない。アルギンのものと同じ程度の広さ――およそ縦横四メートル――のそこは、白と黒で揃えられた空間だった。机と収納とカーテンが黒で圧迫感を覚える。灯りの蝋燭に火を灯しても、部屋が暗い印象を受けた。

 申し訳程度に置かれた白いソファは二人掛けだ。座ってもテーブルが無いので、人をもてなす気が無い部屋にしか見えない。


「好きに座るといい」


 言われたので、遠慮なしに好きに座る。ソファに腰を下ろすと、その隣に彼が腰掛けてきた。


「何か飲むか」

「いい。兄さんとこで飲んだから充分」


 そんな会話も、静かな部屋に溶けて行く。隊舎の彼の部屋に入るのは初めてだったが、緊張感はあまりない。緊張している暇もないほど、彼との時間を大切に過ごしたい。

 大きくソファが動いた。彼が立ち上がったのだ。何かされる、と期待半分不安半分でアルギンが身構えたが、彼はその場に片膝を付けただけだった。


「アルギン」


 見上げてくる彼の瞳に、アルギンが映っている。彼の声だけが聞こえるこの場所は、まるで聖域のように思えた。


「汝が知らない事がある。我は―――汝とは違う」

「……え?」


 それはいつぞやに聞いた、アルギンが彼からの振り文句と思った言葉だった。

 聞き返す様に漏らした声。すると彼は、自分の着ている服―――神父服の下衣の片裾を引き上げた。

 そこにあったのは、足では無かった。


「―――。」

「……腕のいい人形師が作った。魔力を込めているらしいのでな、多少の戦闘にも充分耐える代物だ」

「……いつ、から?」

「幼い時分に。これは隊長職を与って新調したものだ」


 滑らかな黒曜。部屋の灯りで照らされた表面が艶めかしい光を放つ。

 まるでそこにあった筈の骨の代わりのように形作られた二本の黒曜は、足の代わりと言わんばかりにそこにあった。


「我も、戦災孤児だった」

「……そう、なの……?」

「教会に拾われ、孤児院でなくその教会の神父に育てられていた。……小児性愛の、聖職に相応しくない男だったが」

「え……それって、ちょっと待って」

「何があったかは、聞かぬ方が良い。下衆ではあったが、対外的には良き神父であった。年月の幾らか過ぎたそんな折、見出されて『月』に入隊することになった。それからは、恐らく汝も知っていよう」


 問おうとするアルギンの口は、彼の言葉によって閉ざされてしまった。彼の表情は変わらないが、辛い過去には違いない。

 聞いたことのない、彼の昔話だった。他に誰が知っているんだろう。そう思った時


「汝の他には先代と下衆の神父、そしてこの足を作った人形師の一族しか知らぬ。……信じているが、他言は無用だ」


 思考を読み取りでもしたのか、アルギンの疑問を真っ先に解きに来る。


「も、勿論」

「我は幼い時に『感情』を殺した。喜びも悲しみも、怒りも憎しみも、抱かなければ楽になれた。そういった生き方に慣れてしまった。……汝と、出会うまでは」

「アタシ、と?」

「汝の生き方は、我には眩しいものだった。よく笑い、よく怒り、よく冗談を言う。我とは違うのだと、故に眩しいのだと、そう思っていた」


 アルギンにも自覚があった。馬鹿を言って、それでも実務はこなして、笑って怒って、そうして立っていれば、部下たちは文句を言いながらも付いてきてくれた。彼の独白は、アルギンにとってくすぐったいもの。自分の事を自分以外から語られるのは、とても恥ずかしい。それが想い人であるなら尚更に。

 しかしそんな恥ずかしさを汲んでくれる訳も無く、彼の独白は続いた。


「一時期は厭わしいとさえ思っていた」

「―――……。アタシを?」

「仮にも肩を並べる者。嫌っているばかりではいずれ任務にも支障が出よう。そう思って歩み寄ろうとしても……汝は我に対して余所余所しかった」

「はい、自覚有ります」


 指摘されるととても気まずい。それも彼に対しての想いの裏返しだったのだが。


「感情を殺した筈だった。……初めて、胸が痛んだ」

「……。」

「それでもいい、と。拒絶をされている訳ではない。遠くで見ているだけでも良いと、そう思っていた。……先日の、あの祝いの話を聞くまでは」


 祝い―――。アールヴァリンの成人祝いだ。

 アルギンが考えるまでもなく思い至ると、彼はアルギンの手を恭しく握った。その姿勢は、まるで姫にするようなもので。


「汝が妃候補として選ばれ、仕立て屋を呼んだという。……仕立てた衣装で、皆の前で、祝いの席で妃候補として振舞う汝の姿を思い浮かべた時、……込み上げたのは不快感だった。見たくないと、強く思った」


 手が握られる、そんな人並みの温かさを感じる触れ合いに、アルギンの胸に擽ったさが込み上げる。


「……だから、来なかったの? 命令を無視してまで」

「処罰があるのなら甘んじて受けよう、と。不快感を抱えたまま姫の前には出られぬ。婿候補として振舞うことも出来ぬ我は居ない方がいいと考えた。……自主的に城内を警邏中、テラスにいる汝を見つけた時は驚いた」

「あー……、あの時ね。あれは……酔ってたから」

「酔っていながら外に出て雪と戯れるなど、汝は相変わらず阿呆よな」

「……………すっごく怒りたい気分だけど、我慢する」


 これが彼でなく他の者が言った暴言なら、遠慮なく怒鳴り散らしていただろうアルギン。そんなアルギンの言葉に、彼が少し瞳を伏せる。


「……汝はやはり、我にのみ態度が違うな」

「え」

「我にも、怒鳴っていい。我の知らない汝の姿が、あまりにも多すぎる」

「……貴方には怒りたくないんだけど。言ってる事間違ってないし」


 まだアルギンがもごもごと居心地悪そうに言い訳を続けていると、彼が急に手を引いてきた。


「ひゃ、」


 彼の腕の中に閉じ込められたアルギンが小さく声を漏らす。


「ああ」


 吐息に混ざる、彼の声。


「汝を担いで運んだ時。汝と踊った時。汝と触れている時は何故か、離れがたい何かを感じる」

「……アタシは、すごく恥ずかしい」

「何故だ?」

「……貴方が、好きだからだよ」


 それは何度も繰り返されてきた、アルギンからの愛の告白。

 しかしその度に、彼は返すべき言葉を言えずにいる。『好き』が何か、彼にはまだ分からない。例え、何度口付けを交わしても、何度その頬に触れても、何度その体を抱き締めても。

 手探りで、彼は胸にある感情の答えを探していた。二人で居るのが不快ではない、寧ろ心地いいと感じていても、彼の中で『好き』とは結び付かない様子で。


「……我は」

「分かってる。でも、覚えてて。アタシは貴方が好き。……だから、待てる」


 彼の頬を両手で覆って、アルギンからの口付け。

 恋人関係になってから、何回も繰り返されてきたその行為は、僅かな恥じらいをもって行われる。

 

「待ってるから、無事に帰って来てね」


 アルギンの言葉に、彼が小さく頷いた。


 出立の時間が、一秒一秒近付いてくる。

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