第16話
ユイルアルトが廊下に出た時、既にジャスミンは階段を上っていた。
ジャスミンはユイルアルトの過去を知らない。同時にそれは、ユイルアルトにも言えた。この酒場及び貸部屋、そしてギルドでは過去を詮索するのは得策では無い。ユイルアルトがこの場所に関わる人間の中で、過去を知っている人物は殆どいなかった。
過去を知らなくても、いや、知らないからこそ築かれる関係もあった。けれど、一つだけユイルアルトはジャスミンの過去に関係している事柄を知っている。
ジャスミンは、『騎士』を嫌っていた。
「ユイルアルト」
優しげな老女の声にはっとした。掛けられた声の主はリシューだ。酒場に続く廊下の向こうで、人当たりのいい笑顔を向けてきている。やや曲がった腰で、長く膨らみのあるスカートに隠れた足取りもゆっくりと、ユイルアルトの元へと動いてきた。
「先生」
「ユイルアルト、食事はもう終わったの?」
「はい。先生もですか?」
「今し方ね。それで、少しお話を……と、思ったのだけど」
リシューがユイルアルトの手の中のものを見る。この場所に居を構える人間なら、見たことあるはずのものだ。そしてそれは、リシューも例外では無い。
「……それは、お仕事の分かしら」
「前受金です」
「……まぁまぁ」
袋に入ったその額が、一体何を示しているのかも解るはずだ。前受金と銘打たれた、かなりの額になりそうなその中身。リシューの表情が曇る。
「……私が行ければ良かったのだけど。結局私は貴女に託すことになるのね」
「そんな、先生……」
優しい声で漏れた、リシューの言葉。首を振ったユイルアルトにその瞬間、何かしらの違和が走る。
「……先生、私が何を依頼されたのかご存じなのですか」
「それは」
僅か視線を逸らされた、その仕草を『依頼を持ちかけられたが断った』と取った。その空気を察したリシューが首を振る。
違うのよ。小さなリシューの声が、怒りに満ちたユイルアルトの耳に届いた。リシューの体は、年のせいか相当に悪いのは知っていた。こんな老体を遠方に行かせようとしたのか―――と、そこでその考えは止まる。どうやら違うらしい。
「貴女が行こうとしている村は、私の故郷なのですよ」
「―――先生の?」
「ええ。だから……私は、行けないのです。マスターも、それは知っています」
『行けない』。その言葉に、ユイルアルトの胸の奥に、何かしら鉛のようなものが音を立てて沈み込んだ。同時に感じる、意味の分からない焦燥。それ以上を知ってはいけないという、何処かからの警告。確証はないのに、踏み込んでしまえば『先生が先生でなくなる』、そんな予感。
「ねぇ、ユイルアルト」
その声は変わらず優しい。
「私は、長い間生きていれば……、許したくない人間も一人や二人は、現れると思うのよ」
その声が、こんな事を言う時があるなんて思ったことも無かった。
「許すか、許さなくていいのか。これだけ年を取ったのに、それにだけは答えが出せないの。不死の薬を調合するのと答えを出せるの、私が『消滅する』前に出来るのはどちらが早いかしら」
「せん、せい」
「私の故郷、見てきてくれると嬉しいわ。私がかつて愛したあの地は、変わったのかしら。それとも、まだ変わらないのかしら」
リシューの皺が目立つ手が、ユイルアルトの頭にそっと置かれた。その動作に、ユイルアルトは戸惑いを隠せない。
置かれたはずの手は、重さを感じない。触れているという感触さえ。撫でる動作は目の前で見ているのに、自分の髪が撫でられて動くような感覚すら一切無い。
「せ、先生、あのっ……」
血の気が引く感覚がする。胸に湧いた疑問を口に出そうとした瞬間。
「イル」
呼ばれた声に、反射的にそちらを向いた。
「もう上に行ったかと思ったがな」
声を掛けてきたのは、先程までユイルアルトがいた部屋から出てきたマスター・アルギンだった。
ユイルアルトの心臓が早鐘のように煩い。
「……ある……ぎん」
「どうした、鳩が豆鉄砲食らったような面白い顔して」
視線だけで見れば、リシューはまだそこにいて、マスターに向けて笑顔を浮かべている。ニコニコとした、普通の老女のような顔だ。
「……あー」
マスターがユイルアルトの視線の先に気付いたようだ。リシューをちらりと見たらしいマスターが、溜息の後に頭を掻いた。エルフにしては短い、混血の耳がピクピクと動く。
「リシュー婆ちゃん、イルに何か言ったのか」
「……あ、わた……わた、し」
その老女への違和感が現実になる気配。
今更気づいた。
この老女と会っている間、今まで誰も側にいたことはなかった事を。
「……ええ、言いましたよ。アルギン、相変わらず損な役回りね」
「よし婆ちゃん、さっさと寝て明日にでも備えてくれ。明日は」
「貴女はいっつもそうやって何でもない振りを決め込むけれど、いつだったかの意中の方と逢引の前だって」
「大人しくしててもらわなきゃ困るんだからな。イルもジャスも居ないんだから、いざとなったら」
「御前にお呼び出しが掛かって泣きながら謁見したんじゃなくて?あの日の愚痴は凄かったわね」
「なんか知らんが急にむかっ腹立ってきた! イル、婆ちゃん変なこと言ってないか!?」
「―――。」
ユイルアルトが見ている分には、二人は何かしらを話しているだけだ。でも、側にいるユイルアルトにはそう『聞こえない』。
噛み合わない会話が成されている。噛み合ってもないし、リシューはまっすぐマスターを見ているのに対し、マスターの視線は落ち着かずあちこちを彷徨っている。
『見えていない』。マスターは、リシューの姿を捉えられていない。
「アルギン、リシュー先生が」
「………」
「……見えてない、のですか」
とても優しく、薬学の教え方も上手で、『自分にお婆ちゃんがいたなら』と仄かに思わせてくれる、ユイルアルトにとっての『師』だった。
「リシュー……婆ちゃんは、アタシが『兄さん』に拾われた時から此処にいた」
『兄さん』はユイルアルトも知っている、この酒場とギルドの創設者だ。けれどそれ以上を知らず、更に言えばユイルアルトは自分が来るまでのこの組織を知らない。
「『兄さん』が兄さんなら、リシューは『
その『師』についてさえ、深く知ろうとしなかった。他人と深く関わる事をしない、ユイルアルトの悪癖のひとつだった。
「アタシがまだこのギルド引き継ぐ前。……確かに、死んだはずなんだよ。婆ちゃんは」
「―――。」
「兄さんと二人で、『また来るから』って、墓の前で言ったのが最後の思い出だ。……墓参り、もう行くのはアタシとアルカネットだけになっちまったがな」
隣に、まだリシューがいる。その顔を見るために視線を向けると、少し悲しそうに俯いていた。その仕草は何の為だろう。今まで死んだことを黙っていたばつの悪さか、それとも今更知られたことへの気恥ずかしさか。
「……アルギン、……先生は……何なんですか」
そんな曖昧な問いにも、マスターは笑って答える。
「さあな。アタシに見えてないのにお前さんには見える、なのにお前さんにも分からないならアタシにも分からないよ」
その言葉に、はっとしたようにユイルアルトが顔を上げる。確かに、リシューは最早ユイルアルトにしか見えないだろうし、誰も存在を感じていないかもしれないのだ。
今更何を怖気づく必要がある。ユイルアルトは、『魔女』なのだから。
「ありがとうございます、アルギン」
「……例を言われるようなことなんて、してねえよ。感謝ならモノでくれ」
「考えておきます! では!!」
踵を返すユイルアルト。リシューに軽く頭を下げ、振り返らず階段を上っていく。
「……若いっていいなぁ」
「そうねぇ」
残された二人は言葉を零すが、それが会話として成立しているように聞こえているのは一人だけ。
「……なぁ、リシュー……『祖母さん』」
薄闇の廊下で、マスターが煙草を出して火をつける。
紫煙の向こうでリシューが笑っていた。
「アタシもあんな風に、人に頼っていられたら……頼る事を躊躇わなかったら、『あの子たち』を幸せに出来たかな?」
マスターの視界には、廊下が広がっているだけ。
誰もいない視界をぼんやりと眺めながら、ホールからの手伝い要請が聞こえて、そのまま廊下を後にした。
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