第5話

 フェヌグリークが店員であるオルキデと湯に向かうのを見届けて、アルカネットとマスターがバックヤードで顔を突き合わせるように座っている。小さなテーブルには、賄い料理らしい出来立てのリゾットが湯気を立たせていた。マスターはそれに手を付けるでもなくアルカネットの瞳を見ていた。灰色の瞳が容赦なくアルカネットを突き刺して、それでもアルカネットはその視線に抵抗するように見返し続けている。


「今回暁送ってないから、どんな事になってるのかは知らないが……」


 切り出したマスターの顔からは、先ほどの慈愛などとっくになくなっていた。慈愛どころか、触れれば切れそうな威圧感さえ見せている。美人なだけに余計、人に与える感覚が倍加している。笑えば綺麗なのになぁ、というアルカネットの心のどこかからの囁きを自らぎゅうぎゅうに押し付けて、今はマスターの言葉に耳を向けた。


「お前が行ってから、鐘が鳴った。3番街付近から煙が上がったって報告を受けたぞ」

「……」

「あの子絡みか?言いたくないならいいが、次はあの子から聞くぞ?」


 マスターの言葉には、アルカネットが椅子を蹴飛ばして立ち上がった。椅子が転がる大きい音、マスターはただ椅子を目で追うだけで。彼女の灰色が一瞬だけ細められるが、ただそれだけ。お互いの威圧はお互いに構っていられない、それが解っているからアルカネットが怒りを含めた口調で言い放つ。


「あれには関係ない」

「あの子、確か孤児院のシスターだよな?お前さんが寄付に毎月通ってるっていう」

「……関係ない」

「関係ない?忘れんなよ、お前さんが何も話さないならこっちはそれでいい。その代わりこっちが事務として背負ってやれる全てをお前さんが一人で片付けることになる」


 アルカネットが言葉を詰まらせた。オーナーの助けが無いということは、最悪仕事が露見した際に王室が庇ってくれる罪を、そのまま背負い込むことになりかねない。その場合は通常の殺人罪だ、国外逃亡でもできればいいだろうが、定職について妹さえいる今の生活を投げ捨てるなんてできない。


「まぁ、あの子を見れば……あの子がやったことの推測はつくけどな」


 本日何本目かのマスターの煙草。懐から出された煙草とマッチで一服をはじめたマスターを見ながら、アルカネットが強く自分の両膝を掴む。表情は暗く、噛み締められた唇は白くなるまで力が篭る。


「今日の最初の自警団の呼び出し」


 紫煙を吐き出しながら、マスターがアルカネットに言う。


「教会のシスターが買い物から帰らないから、探してくれって内容だったそうだ」

「……!?」


 アルカネットの表情に憎悪の色が浮かぶ。

 思わず拳を握り、テーブルを殴りつけた。そこに乗っていたリゾットの器が衝撃で跳ね上がり、零れないまでも大きな音をさせる。音には不快そうな表情を見せたマスターだが、言葉には動揺もなく、寧ろ冷淡で。


「……知ってて俺を行かせなかったのか!?」


 アルカネットにしては珍しく声を荒げた。そんな姿に、マスターは相変わらずの小馬鹿にするような笑みを浮かべたまま。指で挟んだ煙草の先を動かしながら、神経を逆撫でするような言葉ばかりを並べる。


「お前さんさ、甘いよな。アタシが素直に答えてやると思ってる?子供じゃねンだ、少しは駆け引きとか学んだらどう?」

「……今すぐお前をブチのめせるなら考えるがな」

「それが子供だってんだよ、アルカネット。どっちにしろ、お前さんもあの子も、もうキレイなまま生きていられない。あの子が何をしたにしろされたにしろ、お前が『仕事』で稼いだ金であの子は飯を食った」

「違う!!孤児院には、自警団の給料だけで」

「違わないよ、お前の汚れた手で稼ぐ金だ。それに、あの孤児院に金をやらなかったら、その手は汚す必要なんて無くなるんじゃないか?」

「俺は……っ」


 神がいないことはとうの昔に知っている。だから、せめて自分が妹や、あの孤児院を守りたかった。守る力が足りないのなら、せめて助けになりたかった。

 守る方法を間違えたんじゃないか、というのは、十八でマスターから斡旋されて経験した初めての『仕事』の時だった。以来六年間、アルカネットはずっと後悔しつづけている。

 俯いているアルカネットに、マスターが溜息を吐く。


「アタシは昔、念を押したね」


 まだ長い煙草を床に落とすマスター。それを足で押し潰す。すぐに消える火は、僅かな煙だけを上らせて消えた。


「無理強いはしない、って。戻れなくなるよ、って。それでもお前さんは金を欲したね。悪人殺して金入るなら、自警団のヒラやってるよりいいって。まぁなんてこのクソガキはなけなしの正義感発揮してんだ、って思ったさ」


 マスターの表情は憂いを湛えていた。長い睫毛がその瞳を縁取り、無駄に美人なだけにその表情が似合っている。しかし、その表情を以ってしても、アルカネットの怒りは解けない。それどころか殴らないようにするので精一杯だ。


「お前さんに、話を持ちかけるんじゃ無かったよ」


 マスターの溜息が聞こえた。


「貧乏なままで、孤児院と家賃とのやり繰りで頭抱えてればよかったんだ。アタシらが裏で何やってるかなんて、知りたくて、でも知れないままむくれてれば良かったんだ。そのまま死んでいけば良かったんだ、お前さんなんて。馬鹿正直にまっすぐ生きてれば良かったんだ。後悔するくらいならなんでアタシらの仕事しようなんて思ったんだ、この馬鹿!!」


 怒鳴られて、弾かれたように顔を上げる。視線の先のマスターの表情は、困ったような、苦しんでいるような、今までこんな話をしているときには一度も見たことがない顔。今日だけで、何回このマスターの知らなかった顔を見るだろう。アルカネットが驚いているのが解っているのか解っていないのか、矢継ぎ早にマスターが捲くし立てる。


「兄さんが死んだときにお前を追い出すべきだった。アタシも酒場引き継いだばかりで、マスターの業務も殆ど何も解ってなくて、なのに何でお前さんを置いてたんだろう!お前さんみたいな短絡馬鹿、アタシの手に余るってのに!何も知らなくて良かった奴を、どうしてアタシは引き込んで」

「オーナー」

「うっさい、黙―――」


 アルカネットは、激昂した女性の扱いを知らない。女というものを知らない訳ではないが、その内面に触れることは一度も無かった。妹たち以外。その僅かな知識をもとに、マスターへと実行した。

 座ったままのマスターを抱きしめた。アルカネットは長身なので、少し屈んで。その頭を胸に押さえ込んで、痛くない程度の力を込めた。

 思っていたよりずいぶん小さい。大きいのは態度だけで、実際の体の小ささにやはり驚く。髪からは洗髪剤の香りと煙草の匂いが混ざっていた。こんな体が全部を背負っていたのかと思うと、何かしら不甲斐ない気分にさせられる。

 マスターは嘘が吐けない。駆け引きだなんだとは言っているが、嘘は決して言わないのだと昔に知った。ただ、言わない。真実を。

 アルカネットの、マスターへの恐怖の理由に今更気付いた。

 何も言われないことが怖かった。幾ら信頼を寄せても、知らない振りで無視されるのが怖かったのだ。


「そうか、……そうだよな。お前とも義理の姉弟になるのか、俺たちは」

「……」

「ずっとお前は『オーナー』だったから忘れていた。……お前も忘れていたみたいだがな」


 マスターは反応しない。動きも言葉も止めて、静かにアルカネットの呟きを聞いている。

 馬鹿な姉だ。勢いに任せて隠してた本音をぶちまける奴がいるか。駆け引きなんて、お前の方こそ追い詰められたら弱いじゃないか。


「あの人が死んだあと、お前泣いてただろう」

「……忘れたよ、馬鹿」

「守りたかったんだ、俺は。妹も、泣いてるお前も」


 その決心は世間知らずの臆病風に吹かれて、いつしか忘れてしまってたけど。

 自分より強いはずの、義理の姉が泣いていたから。血は繋がっていなくとも、大切な繋がりがあると、その時には既に知っていたから。


「……変わった自分に気付いてなかったんだ。お前を守りたくて、お前の力になりたくて、この手が汚れることの意味も知らない子供のままで……」


 腕の中のマスターが落ち着いた頃合を見て、アルカネットが腕を解く。随分小さく感じた体だが、それは自分が成長したからかもしれない、とアルカネットが思い至った。無言のまま、目だけで見上げて来るマスターに罰が悪くなり、視線を背ける。幾ら相手がクソガキ扱いしても、自分としては体だけは大人になったつもりだ。誰かに見られたらその絵はそれなりに気まずいものだろう。

 途端に無言の重い空気が流れる。アルカネットは勿論、マスターさえ一言も発しない。

 あまりの空気の悪さに、マスターに視線をやったアルカネットだが


「……!!?」


 そのまま、固まる。

 マスターが、顔を赤くしていた。泣いている訳でもない。困ったような表情で、唇を噛み締めて視線を彷徨わせている。やがてアルカネットの視線に気付いたマスターが、赤い顔のまま怒ったような表情でアルカネットに毒づく。


「……何見てるんだよ」


 いや、そんな顔今見せるなよ。お前それでなくても顔はいいんだぞ。顔だけは。

 そんな事、アルカネットが言える訳も無く。慌てて視線を外して冷静な振りをするので精一杯だった。


「いや、なんでもにゃい」


 頑張ったが冷静でいられなかった。舌を噛んだアルカネットがその場で座り込んで悶絶する。おかしいもので、そんなあからさまな動揺にも茶々を入れることなく、マスターが立ち上がる。


「ふ、風呂見てくる!!おっかしーなぁ、オルキデ達遅くないか?」


 走るようにバックヤードを出て行こうとするマスターだが、テーブルの足に蹴躓いて派手に転ぶ。手付かずのリゾットが激しい音を立てるが、やはり零れることなく無事にテーブルに乗っている。顔から床に突っ込んだマスターの痴態を、ちょうど風呂から戻ったらしいオルキデと、小綺麗な薄桃色のワンピースに身を包んだフェヌグリークがモロに見てしまった。


「……、…………マスター?」


 たいして驚くでもない、それでも心配するかのようなオルキデの問いかけ。

 痛みを堪えるように唸りながら起き上がったマスターの額と鼻が真っ赤になっている。思わずアルカネットが噴き出しそうになったが、そこは大人の男としてなんとか堪えた。舌を噛んで口に手を当てていたので、堪えるにはちょうど良かった。

 驚いているのはフェヌグリークだけ。目を丸くして、何があったのかとアルカネットに問い掛けるような瞳を向けた。

 しかしそれに答えることも出来ずに、咳払いをしながら立ち上がる。まだ唇の端が震えているが、それも次第に落ち着いていく。

 マスターも立ち上がったあと、椅子に座りなおした。アルカネットが座っていた場所にフェヌグリークを座らせるように手で指示し、二人が向かい合う形になる。

 マスターはリゾットをフェヌグリークへ出し、オルキデがスプーンを出す。最初は遠慮がちにしていたが、一口食べた後、体が空腹を思い出したのか結局食事に夢中になっていた。飢えた子供じゃあるまいし。そう思ったアルカネットだが、この妹に何があったのかを改めて思い出すと何も言えなかった。

 おそらくマスターは確認のために、フェヌグリークに話を聞こうとするだろう。それは止めたかった。せめて、『何かあった』その日にそんな話をするなんて、心情を思い図れば兄として辛い思いはさせたくなくて。

 マスターが口を開こうとした瞬間だった。アルカネットの手がピクリと動く。

 それを冷静に見ていた、緑の瞳。オルキデはその時だけアルカネットを見て、次にマスターを見た。


「マスター、話してくれるそうです」

「はっ……!?」


 間抜けな声がアルカネットの口から漏れた。


「入浴の最中、大部分を伺いました。マスターに同じ事を話してくれるか、そうお願いしたら了承を頂きまして」

「オルキデ、お前……!!」

「何かいけなかったか、アルカネット?」


 しれっと答えたオルキデ。不快を顔全体で表しながらアルカネットがフェヌグリークを見る。

 しかしフェヌグリークは平然としている。少しだけ顔は強張っているが、それだけだ。見つけたときの不安そうな顔ではなかった。

オルキデはふてぶてしいまでの無表情でアルカネットを見ている。こんな場所で働くくらいなのだから、多少変わり者でも仕方ないのだろうが、マスターとオルキデは別格だ。

 二人の睨み合いが続く中、フェヌグリークがアルカネットに、遠慮がちに声をかけた。


「アリィ、私は大丈夫だよ」

「……しかし、お前」

「……、大丈夫。動揺していた私のせいなの。アリィが心配してることはなかったよ」


 リゾットを完食したフェヌグリーク。アルカネットが思っていた以上に、妹も逞しく育ったらしい。それにフェヌグリークの言葉を信じるならば、アルカネットが危惧していたことも無いかもしれない。


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