第4話
全身に黒を着込んだアルカネットは、人がいる通りを避けて三番街へと向かう。まだ子供くらいしか寝てない時間、通りには幾らか人の姿がある。
腰に、膝まである幅広の愛刀を佩いた姿はどう見ても堅気の人間ではない。しかし、頬にある張り手跡の生々しい赤色は間抜けだ。出掛けに家賃滞納のペナルティをありがたく頂戴したアルカネットは、気が引き締まる反面鬱憤を担いで仕事へ向かうようなものだ。
眉間に寄った皺が怒りを表している。「馬鹿力」とその場でぼやいたものだから、次は蹴りが飛んできたのを思い出して更に不機嫌な表情になった。
本当は、仕事に向かう前に雑念を入れるのは良くないことだと解っている。
けれど、アルカネット自身そんな立派な人間ではないし、なにより今からすることを考えれば完全に悪人だ。命を奪う対象が屑に分類されるイキモノだとしても、手を汚すことを本意とは思わない。
けれど、仕事なら仕事らしく、たまに不平不満を言いながら完遂してみせるだけ。
命は尊い、だから殺人なんてやめましょう。……そんな馬鹿げた正義感なんてものは、孤児として孤独を味わい、不平等を肌で味わってきたアルカネットには無縁だとも言える。教会併設の孤児院に金を渡しても、神に背を向け続けるアルカネットには。
神もきっと、アルカネットに背を向けているのだろう。
「……俺も変わらないな」
自嘲気味に言ったのは、昔のことを思い出したから。
孤児だったアルカネットは成人前に引き取られたクチだった。とは言っても養子に迎えられた訳ではない。
彼が引き取られた先は、あの酒場。後見人として迎えてくれた男も、ja'doreの一員だった。というより、先代マスターだった。ある日、アルカネットが泊まりがけでやっていた自警団の仕事から帰ると、既に彼は火葬されて骨だけになっていた。
恐らく殺されたのだろう、というのはマスター・アルギンが泣きながら言っていた。誰が殺したのか、何年も経つ今ですら解っていない。昔から今のマスターが苦手だったアルカネットだが、マスターが殺したのではないということは解っていた。
その時、自分の後見人がマスターの養父――『兄さん』と呼んでいたが――だということを知る。アルカネットが先代に抱いていた以上の信頼を、マスターが先代に寄せていたことも。
泣いていたその肩を、あの時抱きしめていたら関係はなにか変わっていただろうか。マスターの名前を呼んだのも、マスターの涙を見たのもそれが最後だったような気がする。……いや、涙は違う時にあったか。それは、あのマスターが―――。
ふと、自分が感傷に囚われていたことに気づいてアルカネットが首を振る。もう過去のことだ、今更掘り返してもどうにもならない。今は、目先の仕事に気を向けることにした。
四番街は思ったより外出中の人影が少なかった。五番街より治安が良くない場所だ、もしかしたら自警団の哨戒があって、厄介ごとに巻き込まれないために皆家に引っ込んでいるのかもしれない。
治安の差がどれだけあるかというのを具体的に言えば、例を窃盗関係に例えるとしたら、五番街で「またか」で認識されるものが引ったくりだとすると、四番街では空き巣に相当する。
街は振り分けられた番号が小さくなればなるほど治安も悪化するわけだが、一番街に至ってはアルカネットすら命の危険を感じる場所だ。とはいえ、一番街は臭いものにはなんとやら、の意味で通行証制度が敷かれている。その点、実質的に危ないのは二番街な訳だが。
簡単に三番街へ辿り着いた。拠点にしているF地区には戻っていないことは聞いている。今の仮宿らしい地区を目指して歩を進めるアルカネットだが、唐突に感じる違和にぴたりと足を止めた。
自警団でなくても解る。
何かが燃える悪臭に、嫌な予感がして走り出した。その予感を裏付けるかのように、臭いは暁から事前に聞いていた場所の方角から流れてくる。
暗闇では解らなかったが、走って近づいて漸く煙が見えた。予感は的中した。標的がいるはずの家、それが煙を立ち上げて燃えている。
周囲は既に野次馬で人だかりが出来ていて、人と人との間からなんとか確認できた扉の鉄ノブは既に赤く変色していた。二階の外壁を見比べて、自警団の勘から、恐らくは一階からの出火だろうと判断した。近寄ることも出来ず、野次馬がこちらを怪しむことを恐れて細い路に入り込む。ただでさえこんな晩春に仕事着の真っ黒衣装だ、誰か一人が怪しんだ目で見ればほぼ間違いなく犯人扱いされる。
背中では轟音を立てて家が燃える。仕事の成否より、自分の身の安全を考えたアルカネットだったが。
「――――、おい」
逃げるように入った暗い路の隅に、何かがいた。
服はアルカネットの黒とは違うが、黒に限りなく近い、藍色。
ざわりと、アルカネットの背中に二回目の嫌な予感が駆け上がった。その藍色には見覚えがある。そして。
「……アリィ」
昔から変わらないアルカネットのその愛称も、声も、聞き覚えがありすぎて、アルカネットの頭の中を白が染めていく。頭では何も考えられないのに、足だけが勝手に動く。
近寄った先のその姿は、昼間見たシスター服のままの、妹フェヌグリークだった。
昼間見た? いや、違う。多少使い古した感はあっても、きちんと修道女として整えられた清潔感漂うあの姿ではない。胸がはだけ、顔は煤で汚れ、裾は破れて―――。
「お前」
血で汚れていた。
「ごめんなさい、ごめんなさいアリィ。わたし、シスターなのに」
それ以上を口にすることを躊躇ってしまうくらい、女として悲惨な姿。アルカネットが上に着ていた服を脱いで、その肩にかけてやる。フェヌグリークは自警団の仕事で来たと思っているのだろうか、強く瞳を閉じたまま震えている。妹といっても、血の繋がりがないかも知れない女。それもこんな状況ともなれば、兄としても男としてもアルカネットにはどうすることも出来ない。
「来い、人気のない道を通る」
「アリィ、わたし」
「静かにしろ、見られたくないだろう」
どこに連れて行くか、今は一箇所しか思い浮かばない。裏も表も人間の汚さも全て内包して、ありのままを受け入れてくれるだろう場所。少なくとも、そういった面ではあの酒場の面々は人のぬくもりを知っているはずだ。
「どこへ」
「……俺も知るか」
それは場所について言ったのではない。なぜ、そこしか思いつかないのか。アルカネットは、自分で思っていた以上に『一員』だった。
振り返ると、燃えていた家が丁度音を立てて崩れ去るところだった。家の骨組みが斜めになり、野次馬さえ一時退避するくらいだ。
鐘の音が聞こえる。火事を知らせる鐘は、暫く鳴り止むことはなかった。
J'A DOREの裏口はバックヤード直通だ。気配を殺して裏口を開ける。酒場には初めて足を踏み入れるらしいフェヌグリークは、アルカネットに肩を抱かれたままでまだ涙を浮かべた顔をしていた。
バックヤードには誰もいない。料理場がある場所だけに、誰かは居るだろうと踏んでいたアルカネットだが、いちいち人を呼びにいかないといけない事に僅か苛立ちを感じる。なにより、まだ小さく震えている妹のことを考えれば、短時間でも離れることはしたくない。無力さを感じて舌打ちをするが、その反応すらフェヌグリークは敏感に感じ取って震えてしまう。
「泣くな」
「アリィ、でも私」
「黙れ、……ち、誰か仕事の時はバックヤードに人を置いておくべきだろう」
冷静でいられないのは、それが妹だから。成人してから幾らかは冷静さも残酷さも身につけた筈だったが、小さいときから知っている大切なもののひとつを汚されることが耐えられなかった。
中に入るなり、フェヌグリークに掛けていた自分の服を引き剥がした。予告もしないその行動に、フェヌグリークの肩が大きく震える。
「何もしない」
きっぱりと宣言して、アルカネットが水場まで行き蛇口を捻った。先ほどの服を濡らし、それでフェヌグリークの顔を拭う。煤で汚れた顔。ある程度まで清め、今度はそれをフェヌグリークに押し付ける。押し付けられた側も戸惑いが隠せない。けれど、アルカネットから見て全身砂と煤と、他のもので汚された姿を口で指摘することも出来ない。アルカネットにはそんな器用さは無い。
「体は自分で拭け。オーナーと話をつけてくる、俺のいないその間に」
「あ……」
泣くこと以外、何も考えていないような妹の姿。金に汚くて、お転婆で、まだ幼いと思っていた血の繋がりさえ解らない、けれど大切な妹。殺意が胸に渦巻くのが解る。けれど、その殺意は誰に向ければいい?だって、フェヌグリークの手は。
「……ごめん、ごめんね、アリィ」
拭くものを受け取ったその手は、普通じゃありえないほどに血で汚れているのに。
「謝るなら泣きやんでから聞く。いいな、そこに―――」
「いいじゃないか、一緒にいてやれよ」
空気を読まないその突然の声。アルカネットが言葉を詰まらせ、動きを止める。
振り返らなくても解る。この嫌な言葉遣いと声の主は、アルカネットの知っている世界には一人しかいないのだから。
思わず振り返り、フェヌグリークを背中で庇う。案の定、声の主であるマスターは嘲笑に近い笑顔でアルカネットを見ていた。見下すような視線がアルカネットへと突き刺さる。ここで気圧される訳に行かないアルカネットだが、マスターが接いだ言葉に驚いた。
「お嬢さん、こんな場所で済まないな。湯の用意なら出来ている、一人女性を入浴に手伝わせるから、先に風呂にするといい」
それはフェヌグリークの姿を見ての言葉だろう。動揺することも無く、マスターが背を向けて、手伝いに誰かを呼ぶためかバックヤードを出て行く。しかし、その背を向ける直前の一瞬に見せたマスターの表情は、アルカネットの思考を思い切り揺さぶった。
「……アリィ」
固まったアルカネットに、恐る恐る声をかけるフェヌグリーク。
「あの女の人、誰?きれい」
フェヌグリークに向けられた笑顔は、慈愛に満ちたやさしい笑顔。
「……あれが、悪名高いうちのマスター兼オーナーだ。……名前は聞いたことあるだろう。アルギン」
「あの人が?」
そう、黙っていれば綺麗なのだ。あの女は。
エルフの血を継いでいるらしい、少しだけ尖った耳。銀の髪は背中で光るように揺れている。
切れ長の瞳も、細い体も、老化を知らないかのような白い肌も、その性格以外は一般的には美しいとされるもので。
マスター・アルギンは、五番街で一番(外見は)美しいとされる『女性』なのだから。
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