第2話
追い出された暁はまず、酒場近くにあるゴミ捨て場へ向かいアルカネットを投げ捨てた。害獣除けのネットの上に投げられたアルカネットはその衝撃でゆっくりと瞼を開く。
覗いた黒の双眸は暁を見て、そしてまた閉じられた。
「こんな所で寝るんじゃありませんよ、アルカネットさん」
投げ捨てたのはどこのどいつだ。
しかしそんな問いかけもすることなく、今度こそ起きたアルカネットがまずは頭を押さえた。
「……痛い」
「当たり前でしょう、出納帳で殴られたんですよ」
「眠い」
「家賃払わないと一生眠ることになりかねませんがね」
それだけで何があったかを理解した様子のアルカネット。頭を摩る手も休めて立ち上がった。初夏の雰囲気漂う春の終わり、流石にゴミ捨て場の臭気には耐え難いものがあったのかも知れない。
起き上がったアルカネットを見て暁は微笑むと、そのまま何も言わずに背を向ける。歩き出した暁だが、アルカネットから少し離れた場所でいつものようにいきなり二人の女の影が暁を取り巻き、関わるのが面倒だったアルカネットもまた暁に背を向けた。
夕暮れ間近な空は晴れていて、昼寝にはもう遅い時間。五番街の平和な活気に、アルカネットが欠伸をする。
「……給料」
思い出したように呟いたアルカネットがのそのそと向かおうとするのは、本業にしている自警団の詰め所。
ものぐさだが、腕は立つとして重宝されているアルカネットは稼げていない訳ではない。家賃滞納の理由は別にあった。
自由国家アルセンの城下には十を数える地区がある。呼び名は街だが、それぞれがそこまで広い訳ではない。
アルカネットが成人とされる十八を迎えてからは、酒の味も煙草の不味さも覚えさせられた五番街。言葉は無くても不自由なく暮らせるアルカネットの住処。
金は有るが不自由しっ放しの生活。それでもアルカネットは今の生活を気に入っていた。
いつもの喧騒、毎月の作業。向かった先で受け取った給料は、同じ年齢の男たちの中でも少し多めだと確信している。支部の建物に入り事務員の一人から、中身を確認しろと言われ皮袋を開くが、数えることもせず見ただけでその口を閉じた。
「……確認してくれないと、困るんだけど」
事務員の女性が不機嫌そうに呟くと、その言葉に顔を向けたアルカネット。栗色の髪の女性がペンを片手に足を組んで座っている。二人を隔てる腰辺りまでの高さのテーブルの上には、自警団員の名前一覧と受け取りサインを書く紙が乗っていた。先ほどそれに名を記したばかりのアルカネットが肩を竦める。
「数えるのは時間が掛かるだろう、面倒だ」
「貴方、そういう所適当よね。後で中身間違ってても対応しないから」
中身は硬貨だ。もう一度袋の口を開くが、その多さに眉を顰めてまた閉じる。
「数えるには多すぎる」
「じゃあ稼ぎを減らす? 出動回数も減って一石二鳥じゃない?」
「それは困る」
言葉少なに受け答えし、必要以上を話さないアルカネットに事務員が腕組みをしながら溜め息を吐いた。
自警団の一員とはいえ、事務員は服装自由だ。組んだ足はやや短めのスカートを穿いており、膝下の肌が露わになっている。その足が自然な動作、且つ女性らしい色気を纏って組み直されるのだが、アルカネットの視線はそこには無かった。
「……ねぇアルカネット、今晩暇?」
「集ろうとしても無駄だ、金の余裕はない」
「勘違いしないでよね、貴方がそうであるように私も給料日よ。だからたまには……って!」
話し終わるのを待ちもせず、興味が無いとばかりにその場を去るアルカネット。椅子から勢いよく立ち上がった事務員だが、もうアルカネットは詰め所内部から出て行っていた。
「……っもう!」
給料を受け取ったアルカネットが次に向かったのは、部屋を借りている酒場ではなかった。酒場とは逆の通り、五番街の端に近いとある建物。
手狭ではあるが空気の良い静かな場所に建つ教会付きの私設孤児院だった。すぐ側には川が通り、洗濯をしているらしいシスターの姿が見える。
その建物が見えるまで近くに行くと、内部から一人の少女が走って出てきた。藍色のシスター服を纏った少女の髪は黒く、まだ少し幼い顔立ちの快活な笑顔がアルカネットに向いている。見た目としては成人前後だろうか。
「お帰り、アリィ!」
走る足はアルカネットの前で止まる。昔ながらのアルカネットの愛称を呼んだ少女が期待一色の瞳でその仏頂面を見上げた。
「金の無心は一人前だな」
仏頂面が溜息とともに吐き出した呟き。少女の笑みが更に深くなる。
「……今月分だ」
アルカネットが差し出したのは、硬貨の音が聞こえる皮袋。
重いはずのそれを一も二も無くひったくった少女は胸に強く袋を抱いた。
「ありがとう、お兄ちゃん大好き!!」
「こういう時だけ妹面か」
シスターの髪と瞳。アルカネットの髪と瞳。
両方ともに、同じ青みがかった黒をしている。
少女の名はフェヌグリーク。成人前に後見人により姓を貰うことができたアルカネットと違い、後見人がいない彼女は姓を持たない。
この二人は、この施設で育った。兄と呼んでいるものの、親が同じなのかは解らない。それでも、そう呼び合うことが二人の支えだった。
孤児院には常勤で計三人のシスターがいる。教会側の非常勤を合わせると片手では収まりきれないが、常勤として勤める内の一人がフェヌグリーク。
そしてその妹へと一ヶ月に一度、『寄付』という形ではあるが育った孤児院に金を渡すのがアルカネットの常になっている。
「あ、アリィお兄ちゃん!」
自警団員ということもあって、子供達にとってはアルカネットは『立派な大人』だった。例え素顔がものぐさ家賃滞納常習犯だとしても。孤児院の子供たちが目ざとくアルカネットを見つけ、駆け寄る。すぐに二人の子供が不機嫌な黒髪を囲んだ。
「その呼び方をやめろ。シスター・フェヌグリークの真似をするな、大きくなれないぞ」
子供の頭を撫で軽くあしらい遠ざけながら、孤児院の中に通されたアルカネットは応接室で別のシスターから紅茶でもてなされた。
アルカネットは、これがこの孤児院で出来る最大級のもてなしだと知っている。最早、今となってはアルカネットが持ってくる自警団の給金が、この寂れた孤児院の最後の頼みの綱だということも。
紅茶を持ってきたシスターは、アルカネットとしては馴染みの薄い新入りに属する常勤のシスターだ。金の髪と翠の瞳を持つ、『シスターらしいシスター』。その所作一つ取っても品があり、その口が神への敬意と愛を口にする。どちらかというと苦手なタイプの外見をしているが、内面はとても良く出来た人物だと聞いてからは警戒を解いていた。
「フェヌグリークは本当によくやってくれています。子供たちもよく言いつけを守っていて……今、子供たちは将来の夢がシスターと自警団に二分されているんですよ」
彼女が近況を話してくれるが、その声が語る話題はここ最近あまり変わっていない。紅茶を口にしたアルカネットが微笑むシスターを見て顔を顰めた。
「俺を見本にするのはやめてくれ。所詮はしがない自警団員だ、間違いも犯せば家賃も滞納するさ」
「あら、……またアルギン様からの拳骨でも?」
アルギンというのは、アルカネットが根城にしている例の酒場のマスターの名前だ。五番街では知らないものが居ないとまで言われている、色々な意味で有名な暴力マスター。
そんなマスターとは付き合いは長いが、最近は咥え煙草と仕事姿しか見たことが無いような気がする。勿論、それ以外の姿をしているときはただ単にアルカネットが寝ているだけなのだが。
「……滞納なんて。まさか、アルカネット様」
シスターが途端に心配顔になった。
アルカネットは今回給金の全てを渡している。一自警団が稼ぐ一ヶ月の給金を考えれば、渡す額はそれなりのものだ。
文字通り無一文な訳だが、嫌に聡いシスターにそれを気付かせる訳にもいかずにいつもの無表情で答えた。
「心配することはない、フェヌに掠められる前に幾らか取ってある。少なくなって悪いが、あれで今月やっていけそうか?」
「は、はい。充分です。もう夏も近いですし、農園の野菜も幾つかは収穫できるのですよ。少しずつ蓄えに回していけるほどに」
そうか、と答えることなく軽く頷くだけで終わらせたが、頭の中は金策で一杯だった。貸し宿を追い出されたところで転がり込める場所は、この孤児院を含めて幾らかある。しかしそれでは子供たちに示しがつかない。いっそ夜逃げも悪くはないが、この孤児院に顔を出せなくなるのは嫌だった。
「……アルカネット様、最近は物騒な事件が増えているようですね……」
シスターが切り出した話に、思考が急激に戻された。内容としては、いくらものぐさでもそこいらの一般人より把握している自信がある。その事件を『知っている』人間として。
今、この国を騒がせている事件。最初は事故死に近い他殺――例えば、被害者が突き飛ばされた先が移動中の大型馬車の目の前だったり、最初は飛び降りだと思われていた死体の喉笛が切り裂かれていたり――ばかりだったが、こうも工作も無くあからさまな殺意丸出しの殺人というのは、自警団所属のアルカネットとしては黙っていられないものだ。
先日の首無し死体は身元さえ判明していない。それについてはアルカネットがどうこうすることも出来ない。死体は話せないのだから。
「子供たちに施設外に出る事を控えさせてはいますが……、犯人が捕まらないことには安心できませんし」
「解っている」
紅茶の入ったカップを下ろした。揺れる鮮やかな赤茶色はアルカネットの瞳を映す。
シスターはアルカネットの穏やかな声色に安心したのか、金色の長い髪を揺らして微笑んだ。
「俺も暫くは顔を出せないかも知れない。……この件については心配するなとは言わないが、不安がるな。シスターの不安は子供に悪影響だ」
色までを映してくれるわけではない紅茶。映った瞳は濁って見える。
シスターに事件について話すことが、そして自分の言葉が、その時に限ってやけに白々しく思えた。
重い足取りでアルカネットが家路に着くと、既に酒場も開店していた。扉を開き騒がしい店内に足を踏み入れると、接客中のマスターが気づいたらしく一瞬だけアルカネットを見る。
思わず足を竦ませたアルカネットだが、視線を逸らして二階へ続く階段へ向かう。お叱りならまた今度でいい、今はただ寝ていたかった。マスターもホールに出て仕事中だ、なら今日は相当忙しいはずだ。アルカネットに使う時間の余裕なんてないくらいに。
少々足早に階段を上り終えた辺りで、二階に人の気配が無いことに気付いた。
酒場にしては規模が大きい建物で、三階にも幾つか部屋はある。下の騒音とは打って変わった静寂にアルカネットは瞼を伏せる。一階へ食事に行っているだけかも知れないが、下で入居者の姿を見つけることは出来なかった。外出しているのだろう。
新築とは程遠いボロい酒場。今のマスターで二代目と聞いている。踏みしめた床板が軋んだ音を立てた。
誰もいないせいか廊下に明かりは無い。明かりを取りに下りるのも面倒だ。慣れと勘と夜目を頼りに自分の部屋へ辿り着くと、扉を開けて転がるように自室の床に倒れこんだ。
体が疲れている訳ではない。もとより体力は売ったとしても有り余る男だ。本当は眠りたい訳でもない。仕事での召集がないのをいいことに昼過ぎまで寝ていたからだ。
それでも寝台にすら上がらず、床で気絶するように横たわるのは、あのマスターの顔を見続けるのが怖かった、その精神的な疲労から。
アルギン。
初めて出会った時から何も変わらない、鈍い銀色の髪と、雪の中で見る地面のような灰茶色の瞳。知っているのは、初めて会った時から今まで関わってきたまでの幾らかの情報だけ。
その瞳には雪のように柔らかい優しさなんてものはない。あるのはただ、背筋を凍りつかせるほどの冷たさと、アルカネットを見下したような不透明な視線だけ。
『だけ』しか無いのに、アルカネットはマスターが怖かった。自警団で担当したどんな事件より。……初めて死体と対峙した仕事より。
こんな訳の分からない恐怖を感じるなんて、とアルカネットが唇を噛み締めた瞬間、彼の腹が間の抜けた音を立てた。
「……腹減ったな」
どんなに気だるくても、生き物である以上空腹には勝てなかった。ぼやいて起き上がると、それと時を同じくして外から何かが聞こえて来る。
鐘の音。それも、自警団の警鐘だ。何かの事件を予感させるそれを聞きながら、アルカネットが窓際に歩み寄る。自警団の支部あたりで火が炊かれている。どうやらそれなりに大規模な事件らしく、道らしい道に明かりが散らばっていた。おそらくあれの殆どが自警団の者が持つ松明だ。
音が聞こえてきたなら行かねばならない。給料にも直結する。
溜息を一つ吐き、廊下に出た。何かが視界の端で動いたような気がして顔を上げると、暗闇に暁が立っていた。
「行かなくていいそうですよ、アルカネットさん」
暗闇に、明かりがひとつ。暁が手にしているランプが、暁の微笑を不気味に照らしている。
「オーナーからのご命令です。『仕事』だと」
その笑顔に、アルカネットが舌打ちをした。
「……俺は自警団だ、行かないと仕事にならない」
「あれ、それでいいんですか?」
暁は言葉少なに、笑みだけ深くしてアルカネットを脅していた。
「戻れるとでも、お思いですか?」
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