21日のさよなら

唯野キュウ

21日のさよなら

 彼女を初めて見たのは歩道橋の柵の外側だった。

 黒いワンピースの裾を左手でくしゃっと握り、右手を柵の上に置いている。

 黒の軽自動車が足下を通り抜け、遠くから2つの光が覗いた時、彼女が徐々に右手の力を抜いていくのが見えた。

 待って。と、彼女を咄嗟に引き止める。

 びくりと振り向いた彼女は、曇った表情とは裏腹に、透き通るような瞳を持つとても美しい女性だった。


 僕は守ってあげたいなんて無責任に思った。


 彼女を引き止めると、意外にもあっさりと彼女は柵の内側へと戻ってきた。

 もう時刻も遅い。取り急ぎ近くのファミリーレストランで話を聞く。

 話を聞く限り、本気で付き合っていた彼氏との死別が、彼女を歩道橋に立たせていたようだ。

 彼女は、彼は丁度1ヶ月前の21日にこの世を去り、忘れようとはしたものの、思い出が溢れてどうしても彼に会いに行きたくなってしまうと話してくれた。

 僕は彼女を刺激しないよう、ありふれた言葉で彼女を慰める。彼女の話に静かに相打ちをうち、溜まっていた彼女の1ヶ月分の愚痴を体に受ける。

 まさか釣りの帰りにこんなものが釣れるなんてと思いながら、彼女をひたすら慰めていた。


 それから彼女とは連絡先を交換して、お互いが困った時に話を聞き合う、相談屋の様な形でコミュニケーションを取り合った。

 ある時は仕事の愚痴を、ある時は人間関係の悩みを。話す内容は次第に親密になっていき、僕らはお風呂上がりさえ報告し合う仲になった。

 メールのやり取りは電話に、電話のやり取りは待ち合わせに、待ち合わせのやり取りは2人だけの時間へと変わっていった。

 僕の瞳に映る彼女は、終始守ってあげなくてはいけないというベールを着ていて、彼女が少しでも危ない行動をすれば、すかさず僕は彼女の手を取った。

 使命感にも似た愛だった。


 そんな彼女と僕も、ついぞ結ばれることは無かった。

 話を重ね、親密になればなるほど、彼女の心に空いた深い傷跡が浮き彫りになっていくのがわかった。

 彼女はどうも狂気的な迄に死んだ彼を愛してしまっていたようだった。

 彼女は自分に出来る全てを彼に捧げて生きていた。普通では考えられないほど、大きな情動に駆られて生きていた。

 丁度今の僕のように。


 当てる宛の無くなった情動は、決まって21日の日に爆発する。彼が居なくなった喪失感を、昨日の事のように思い出しては枯らすまで涙を流す。

 彼が居ない世界なんて要らない。

 死んで楽になれるなら死んでしまいたい。

 そう崩れる彼女の背中を、何も言わずに僕は摩る。

 僕が傍に居て、彼女の衝動が少し収まると決まって彼女はこう言う。

「ごめんね」と。

 それが何を指すものかは分からないが、それに対して、僕はこう言う。

「謝らなくていいよ」と。


 21日が来る度に、彼女の空いた穴が寂しいと泣く夜に、同じ会話を何度もした。

 朝が来て、斜陽が彼女の目を照らす度に、僕はつられて泣いてしまいそうな程苦しくなる。

 彼女にとって一番苦しい時間が、僕にとって一番大切な時間になっていくのを感じるから。


 次の日が来ると、彼女は決まってケロッとしている。前の日は目を腫らすほど泣いたのに、今では舌を出して僕の前を歩いている。

 彼女の影を踏みながら歩く朝が、僕にとっての全てだった。


 ある日の21日の夜、僕はいつもの様に彼女からの電話を待っていた。ロングコートを羽織り、肌寒くなった外を財布と携帯だけで出れるように準備して、彼女のを待つ。

 今日はいやに遅いな。なんて、他人事のように思いながら待っていると、僕の携帯が鳴った。彼女からだった。

 出て一言、「大丈夫?」と声を掛ける。大抵僕に電話をかける頃には彼女はぐしゃぐしゃになった髪に、声が小さく非力になるまで弱っている。


「もしもし、○○さんの彼氏さんでいらっしゃいますか」


 知らない男の声がした。まさかと思い携帯を耳から話して確認するが、さっき見た通り彼女のもので間違いない。

「どなたですか? 彼氏、ではありませんが……」

 誰か分からないが彼女の名前を言っていたし素直に答えた。この時点で、僕は胸中に嫌な予感を抱いていたからかもしれない。

「こちら○○県警の○○と申します。電話帳の1番上に居たのでおかけしたのですが……」

 県警? 警察が何故彼女の携帯を――

 疑問は抱き終わる前に解消した。

「大変申し上げにくいのですが市立病院までお願い出来ませんか」

 そんな。そんな声すら出なかった。

「どうして……ですか?」

「……21日午後22:42分、交通事故により○○さんの死亡が確認されました。詳しい話を病院でしますのでまずは来て頂いて……お願いします」

 そこから先の警官の話はよく覚えていない。

 もしかしたら携帯を落としたのかもしれないし、固まったまま耳に当て続けていたかもしれない。


 冗談ですか?

 タチの悪いイタズラですね

 死亡って――どういうことですか? 

 よく分からないんですけど……。

 話が見えてきません。


 …………本当ですか?


 様々な疑問が逡巡する頭を僕は両手で抱えた。声にならない声が喉を出ては締め上げるので、過呼吸気味になって暫くの間パニックになっていた。

 そう言えば、警官の声は頻りにこちらを心配していた様な気もする。

 僕は気が付くと、外へ飛び出していた。

 脇目も降らず、あがる息なんか二の次で。

 ただひたすらに彼女の事だけを考えながら、1人きり夜を駆け抜ける。

 それから彼女の病室に入るまでの記憶が欠片も無い。

 次に記憶があるのは、顔に布をかけられ、誰が誰かも分からない布団の盛り上がりにしがみつくように泣いていた時だ。

 怖くなると何かを握る彼女の癖が、僕にも移っていた。


 彼女が居なくなってからの僕はまるで抜け殻の様だった。

 隣で咽び泣いていた彼女の気持ちが、皮肉にも彼女を失ったことで理解出来た。

 彼女は愛する人を失った気持ちを、穴が空いているようだと言っていたが、僕の場合は違っていた。僕の場合、彼女が棘のように感じられる。

 何をするにも、何も食べるにも、忘れようとしても、彼女が僕の心を引きずって離さない。

 痛い。彼女が居ないと駄目なんて、邦楽の歌詞以外で使うとは思わなかった。

 堪えようのない悲しみが溢れては濡らすので僕はどこへも外出することが出来なかった。


 ――ただ1人、声も無く静かになく僕は、ベットシーツの裾を握りしめる。


 3日経った時、僕にできることはないかと模索した。

 考えた末に僕は手記を書いた。弱った頭で考えた、精一杯の“出来ること”だった。


 彼女が居なくなってから1ヶ月。

 彼女の傍に居ない2回目の21日だ。僕はたった2枚の手記を持って、彼女と初めて会った歩道橋を訪れていた。

 書くほどなんだか臭いセリフしか思い浮かばなくて、結局この2枚しか手元には残らなかった。

 苦しいとか悲しいとか、そういった言葉でしか自分を表せない。日がな文章を書いていないツケが今来るとは思わなかった。

 僕は歩道橋の手すりに肘をつき、すっかり冷たい夜風に当たる。

 彼女もこんな気分だったのだろうか。

 1ヶ月間痛み続けたこの胸も、今だけは少し楽な気分だ。

 もうすぐ君に会いに行ける。

 彼女はきっと笑って、僕に彼のへの愛ある愚痴をぶつけてくれるはずだ。


 頭に彼女の姿が浮かび、頬がしとりと濡れる。

「ごめんね」

 ふと、彼女の声が聞こえた気がした。

「謝らなくていいよ」

 迎えに行くから。


 僕は歩道橋の外側へ立つ。着てきたあの日のコートの袖を握り締めながら、車が過ぎるタイミングを待つ。

 1台の車が過ぎて、若干の静寂が訪れた。あの時と同じ、妙な落ち着きのある静寂だった。

 やがて2つのフットライトが僕に影を作る。

 僕は手すりから手を離し、身を外に乗り出す。

 その時――

「待って!!!」

 後ろから女の叫ぶ声が聞こえた。

「えっ」

 僕はびっくりして、離した手すりを握り直す。

 しかし、握り直す手にはもう手すりは無い。


 あ、落ちる。落ちて、僕は死ぬ。

 空を背にし、永遠にも感じられる時間が柔らかく僕を包んでいくのを感じた。走馬灯と言うやつだろうか。今この瞬間を切り抜ける術を、人生の記憶から引き出そうとしているのだ。

 ――無い。そんなもの。人生で死にかけるなんて今日が初めてなんだから。

 僕は静かに目を閉じて、“最後の時”を待った。


 ――ゆったりと流れる時間を引き戻したのは、見知らぬ女だった。

「っ……!! 離して!」

 女は僕の手をギリギリの所で掴み、僕の全体重をその両手と、手すりに腹を乗せてなんとか支えている

「貴方が落ちる! 僕の事はいいから早く手を離して!」

「うるさい!!」

 僕の静止を振り切って、彼女は僕の事を引き上げようとする。

「がぁ……!」

 全体重が自分の腕に掛かってびりびりと痛い。

 よく見れば女が握っているより上の部分が紫色に軽くうっ血している。

 どうしてこんな、こんなことを。

 ふと、僕の目には、僕の事を支える彼女の手が映った。とても、とても細い手だ。男の僕とはまるで違う、女性の手。あんな細い手で僕の体を支えたら、体は――

 その時僕は、はっと目が覚めた感覚を得た。

 僕の考え通り、女の手は近いうちに限界を迎える様だ。力が徐々に抜けていき、小指のあたりが痙攣している。

 僕は掴まれていない右手を歩道橋にかける。

 ぐっと体を持ち上げると、左手の負担は大きく軽くなった。

 反動をつけ、右手をより奥へ奥へと伸ばしていく。

 ザリザリという音と共に、僕の体の支点となる右手の指がさびた金属に削られていく。

「ぐぅ……ああ!!」

 僕は削れる右手を二の次に、右足を橋にかけて無理やり歩道橋の上へと持ち上げる。


 ――手すりを乗り越えて、僕は歩道橋の上へ返ってきた。

 体を支えた左手と、皮膚が削がれた右手がそれぞれずきずきと痛む。久しぶりの、彼女のこと以外での痛みだ。

 僕を助けた女に目をやると、地面にへたりこんで荒く息を切らしている。


 どうして、なんて言葉を吐けるほど、僕は腐ってはいなかった。女の後ろで、割れた卵と、転がった野菜が無作為に投げ出されている。

「……ありがとう」

 取り急ぎ僕は感謝を述べた。

「でも、僕は――」

 辺りに頬を叩く快音が響いた。


「死んで、何になる」

 女は僕に問い詰める。僕を叫んだ声と同じ声だ。

「……彼女に、会いたくて」

「彼女はそれを望んでるのか」

 冷たく、怒っているような、責めているような口調だった。

 でも不思議と、温かい感じがした。

「……分からない。自分がそうしたかったから」

「勝手だね。随分。自分の都合ばかりで、周りの事なんざどうでもいいって感じ」

 全てその通りだ。彼女の元へ行こうとしたのも、僕の我儘で、気付いていた。彼女がそれを望んでいないことも。

「さよなら」

 彼女はその言葉を最後に、僕に野菜一つ拾わせることなく立ち去ってしまった。

 僕は歩く彼女を、ただ座り込んでみていることしかしなかった。


 ――気付いていた。


 彼女の“死にたい”には、1%も本心が含まれていないことに。結局僕も彼女も臆病だった。縋るものが無くなった恐怖に脅かされていた。ただそれだけのことだった。

 僕らは弱かった。弱い事を、誰かのせいにして愚かなまま腐っていったんだ。

 僕はおもむろに立ち上がり、ポケットから2枚の手記を取り出す。僕はそれをまとめて持って、2枚から4枚へ、4枚から8枚へと破っていく。


 もう誰も読めなくなった手記を、僕は歩道橋の上からばらまいた。

 白い紙がまばらに散っていくのを、僕は静かに見つめる。ある紙は右へ、ある紙は左へ意思もなく飛んでいく。

 僕らも本来は、こんな風だったんだろうか。


「さよなら、か」


 僕の言葉は、誰も居ない宙に反響した。僕の弱さを、彼女のせいにする訳にはいかない。

 くしゃりと裾を握りしめていた手をほどき、僕は深い静寂に包まれた肌寒い22日を踏みしめた。

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