第8話 白い手紙

「翠さん、これ、約束の絵です。ドイツの街のクリスマスをイメージして描いてみたんですけど…こんな感じでいいですか?」

 小鳥が遠慮がちに差し出した、B5サイズの画用紙一杯に描かれたクレヨン画を、翠さんは少女のようにひとみを輝かせて受け取った。

「ありがとう!さっそくお店のレジに飾るわ。ちゃんとバイト代を払いますからね」

「そんな、いいですよ。私の趣味ですから」

「ダメよ。これは私がパン屋の店長として、あなたに依頼したバイトだもの」

 翠さんは小鳥の顔を覗き込み、優しい仕草で小鳥の髪をかき上げた。台所のテーブルにはまだ、朝食のサラダの残りや飲み残しのコーヒーカップが載っている。ソフィアは先ほど、慌ただしく鞄をつかんで学校に走っていった。

「ねえ、小鳥。4月から、うちのパン屋でバイトしてみない?学校と両立するのが大変だったら、週末だけでもいいから」

 小鳥はどきりとして顔を上げた。翠さんは、いつもと変わらない温かく柔らかな笑顔で小鳥を見ていた。来年という未来の、具体的な話をさらりと話したのは、翠さんが初めてだった。

「翠さん、私…本当にこのまま、ここにいていいんでしょうか。学校まで行かせてもらえるなんて」

 蚊の鳴くような声で、小鳥は呟く。翠さんの手は、まだ小鳥の髪を撫でている。発酵中のパン生地を撫でるのと同じ仕草だった。

「私達と暮らすのは、嫌?ソフィアと同じ学校に行くのは、不安?」

「まさか、そんなことないです。今まで生きてきた中で、こんなにほっとする場所はありません」

「それならあなたは、ずっとここにいていいのよ。詩織さんもそう言っているわ」

 小鳥は身体を強張らせた。詩織というのは、小鳥の母の妹の名前だ。今は北海道を拠点に、写真家の仕事をしている。彼女は、小鳥の後見人だった。

「叔母さんから、最近手紙は来てるの?」

「いえ。夏に私から便りを出したきりです」

「そう…」

 小鳥は、こげ茶とえんじ色のタータンチェックのスカートを強く握りしめる。ソフィアが、背が伸びて丈が合わなくなったからとプレゼントしてくれたものだ。小鳥は思いきって口を開いた。

「叔母は、母のことを翠さんに言ってきませんでしたか。新学期が始まる前に、ほんの少しでいいから、母に面会することはできませんか」

「小鳥ちゃんは、お母さんに会いたいの?」

 痛ましげに歪む翠さんの顔を見たくなくて、小鳥は目をそらした。会いたいです、と呟く声が、情けなく震えた。

「お母さんが私にひどいことをしたのは、病気のせいだったんでしょう。まだ私を見てくれなくてもいいし、話ができなくてもいいから、母がちゃんと穏やかに暮らしているところを見たいんです。そうすれば私も、過去と決別して前に進むことができると思うんです」

 ふいに、陽だまりのようなにおいと温もりに全身を包まれて、小鳥は言葉をとぎらせた。ごめんね、と、翠さんは小鳥を抱きしめたままくぐもった声で呟いた。

「もう少しだけ…あと少しだけ、お母さんのことを待ってあげて。いつかきっとまた会えるから。あなたのお母さんは、辛いことがありすぎて、まだとても心が傷ついたままなの。とても時間がかかるのよ」

「はい…」

 立ちつくしたまま、小鳥はぼんやりと答える。心のどこかがもやもやする。けれど今は、翠さんの腕の中が眠ってしまいそうに心地いいから、それに身を委ねて考えを放棄することにした。




 クリスマスまであと二週間というある日の午後、小鳥は翠さんにおつかいを頼まれて、商店街に来ていた。賑やかなクリスマスの音楽が流れ、ショーウインドウにはりついている子供たちの姿が目立つ。あちこちに煌めく色とりどりの装飾を、小鳥は心の中でスケッチした。

「小鳥」

 輸入食品店で、コンデンスミルクとサーモンの缶詰を買って出てきた小鳥は、足を止めた。ゆっくりと振り返り、暗い所からいきなり外へ出た人のように眩しげに目を細める。

「蒼くん。久しぶり」

 学生服の上に白いマフラーを幾重にも巻いた蒼が、笑顔で立っていた。

「学校の帰り?今日は早いのね」

「部活が台本読みだけだったからな。小鳥、買い物は済んだのか?翠さんに、夕ご飯を食べに来ないかって誘われてるんだ」

「あと、カーテン生地とアイロンを買ったらおしまい。先に帰ってていいわよ」

「別に急いでないから、お供するぜ。大体、カーテン生地とアイロンなんか、お前一人じゃ持てないだろ」

「そうなの?」

 きょとんとした顔になった小鳥に、蒼はため息をついた。だいぶ表情がしっかりしてきたとはいえ、小鳥にはまだどこか現実から遊離している所がある。

(ほんと、危なっかしいな…)

 ちょっと眉を下げた小鳥が、それでも何も言わなかったので、蒼はさりげなく車道側に身体を移動させ、彼女の隣に並んだ。二人はそのまま、商店街のアーケード内をゆっくりと歩く。二度ほど学校の知り合いに遭遇し、蒼は軽く言葉を交わして手を振り合った。だが誰も、蒼の傍に茫洋と佇む少女が彼の連れだとは気づかない。小鳥の存在感はそれほどひそやかで、透明なものだった。

 買い物を済ませると、商店街のスタンドカフェで小鳥が熱いココアを二つ買い、一つを蒼にくれた。重い荷物を持ってくれるお礼だという。蒼は小鳥に、次の舞台の原作に決定した『夜叉が池』の話をしてやった。

「…それで、日照りに耐えきれなくなった村人たちは、鐘撞きの妻の百合ゆりを殺そうとした。他人の手にかけられるくらいならと、百合は鎌で自らの喉を掻き切って死んだ。それを知った、彼女の夫のあきらは、竜の姫を封じていた鐘を切り落としてから、自分も命を断ったんだ」

「じゃあ、その村は…」

「洪水が起きて沈んだ。竜の姫が、死んだ夫婦に代わって復讐したんだ。自由になった彼女は大喜びで、遠く離れた池に住む恋人の元へ飛んでゆき、妖になった明と百合は天上からそれを見て幸せそうに笑いあう。生き残ったのは、よそから来ていた明の学友のみ。そういう、結末さ」

 壮絶だよな、バッドエンドなのかハッピーエンドなのか、と蒼が苦い笑みを浮かべる。すると小鳥が言った。

「私は、ハッピーエンドだと思う。百合も竜の姫も、想いを貫き通したのだもの…自分が死んでも、大勢の人を犠牲にしても、何とも思わないで。激しくても美しい、幸せな物語だわ」

 珍しく熱っぽく語る小鳥のひとみは、うっとりと輝いていた。蒼はなぜかうなじがすうっと冷えるのを感じた。ためらいながらも慎重に、問いかける。

「小鳥も、そういう恋をしたいのか?」

「私の、恋?」

 小鳥がおうむ返しに呟く。ひとみからすうっと光が消える。冬の冷たい風が吹き抜け、小鳥のわずかに伸びた髪を乱す。それでも蒼は、彼女から目をそらさず答えを待っていた。蒼は、知りたかった。彼女が未だに心を囚われている人のことを、彼女の口から聞きたかった。

 張りつめた沈黙を破ったのは、呑気に明るいオルゴールの音楽だった。近くの広場に設置されているからくり時計が、時を告げているのだ。小鳥が瞬きし、我に返ったように呟いた。

「大変、もうこんな時間。暗くなる前に帰りましょう」

 足早に歩き出す小鳥の背を、慌てて蒼が追う。

 冬の空が、深紅の帯を一筋残す群青色に変わる頃、二人はベッカライ リヒトに辿り着いた。慣れた動作で、小鳥が郵便受けを開ける。ふっと小首を傾げ、二通の封筒をそこから抜き取る。すぐ傍まで夜の闇は忍び寄ってきていたが、その二通とも小鳥の名前が宛先になっているのを、蒼は辛うじて読み取った。一通は細長く分厚い、どことなく無機質な感じのする封筒だ。もう一通は、ちょうどポストカードが入るくらいの大きさで、ほとんど厚みがなかった。小鳥はその場で、まずそちらを開けた。

「どうして…?」

 間の抜けた声が、小鳥の口をついて出た。蒼は近寄り、背後から彼女の手元を覗き込む。それは、たった一枚の、何も書かれていない、真っ白な便箋だった。

 しばらく呆けたようにそれを見つめていた小鳥が、突然撃たれたように身を震わせ、再度封筒をかざした。宛名と筆跡を、食い入るように凝視する。そうして、彼女の手から全ての物が落ちた。

 蒼が声をかけるより早く、小鳥はもう一通の封筒をびりびりと乱暴に破って開け、何枚もの紙をもどかしげに引き出した。こちらは、タイプされた細かい文字がびっしりと印字されていた。

 貪るように、小鳥は読む。その身体が、凍りついたように動きを停止する。

「二人とも、どうしてそんな所に突っ立ってるの?…小鳥?」

 庭の方から姿を現したソフィアが、訝しげに声をかけた。それが合図だったかのように、小鳥の目からふいに大粒の涙がぼろぼろと溢れだした。

 ガラス細工が粉々に砕け散るように崩れ落ちる小鳥の身体を、飛び出したソフィアが全身で抱きとめた。

「お母さん…」

 嗚咽に混じったうめき声を、蒼はただ立ちつくして聞くことしかできなかった。

 黄昏は終わった。冬の夜が始まろうとしていた。

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