第7話 トランペット吹きの休日

「寒くない?」

 澄んだトランペットの音色の狭間に控えめな声が滑り込み、ソフィアの首にふわりと辛子色のマフラーが巻きつけられた。いつものように家の中庭でトランペットの練習をしていたソフィアは、吹き口から唇を離して笑いながら振り返った。

「寒いの、忘れてたわ。道理で指がかじかんで動かしにくいと思った。小鳥、ありがとうね」

「そうじゃないかと思った。ソフィアのほっぺ、真っ赤だもの」

 ソフィアのお下がりの茶色いダッフルコートを着込み、ベレー帽とマフラーと手袋で完全防備した小鳥がおかしそうに笑った。十一月も半ばを過ぎる頃に判明したことだが、小鳥は極度の寒がりだ。すぐに微熱を出すし、風邪を引きやすい。体脂肪が常人よりはるかに少ない(そして筋肉もほとんどない)せいだろうと、ソフィアは推測している。夏はほとんどの時間を戸外で過ごし、絵を描いていた小鳥は、今では部屋にこもって勉強したり編み物をしていることが多くなった。いつもお世話になっている感謝をこめて、翠さんへのクリスマスプレゼントにマフラーを編みたいのだと恥ずかしそうに打ち明けてくれた時、ソフィアは思わず小鳥をぎゅうっと抱きしめてしまった。

 週末は、時間がゆったりと流れていく。ソフィアは小鳥と連れ立って台所に入り、鍋でココアを沸かして飲んだ。

(不思議ね。子供の頃からずっと、小鳥と一緒にこうして過ごしてきた気がする)

 小鳥と暮らすようになってまだ数か月しかたっていないとは信じられないと、ソフィアは思う。始めはひどく危うげな所のあった少女を絶えず気遣い、見守り、寄り添ううちに、いつしかソフィアは小鳥を本当の姉妹のように想うようになっていた。小鳥が寄せてくれる無条件の信頼とはにかんだ笑顔は、今まで感じたことのない幸福とわずかな優越感をソフィアに抱かせた。

(このままずっと一緒にいられたらいいな。来年から同じ学校に通うんだし、そうなるかな。そういえば、小鳥のお母さんと叔母さんって、今どうしているんだろう…)

 考え込んでいるソフィアの顔を、小鳥が不思議そうに覗きこんだ。

「ソフィア、どうかした?疲れたの?」

「ううん、何でもない。それより、明日は映画を観た後どこに行こうか」

 ソフィアは首を振り、気を取り直して笑った。明日は蒼と三人で映画を観て遊ぶ約束をしている。

 けれど本当は、蒼は小鳥だけを誘いたかったのではないかとソフィアは推測している。

「明日、本当によかったの?私も一緒で」

 遠回しに尋ねると、小鳥はきょとんと目を見開いた。表情が豊かになったなと、こんな何気ない瞬間にもソフィアは嬉しくなってしまう。

「何言ってるの。いつも三人で遊んでるじゃない。ソフィアがいてくれないと楽しくないわ。蒼くんも、きっとそう言うわよ」

(うーん、なかなか鈍い)

 ソフィアは蒼に思わず同情した。

 演劇部の花形であることと因果関係があるのかないのか、蒼の感情表現はとても豊かだ。思ったことは何でもずけずけ言うし、ときに攻撃的で不遜ですらある。けれどそこには、悪意も偽りもないから、誰もがつい許してしまう。感情をしまいこみがちな小鳥とは正反対で、だから互いを気にするようになったのではないか、そしてそれゆえにこの二人は案外釣り合いがとれているのではないかと、ソフィアはひそかに思っている。

 つまりソフィアは、蒼と小鳥の付き合いを応援したいのだった。

「たまにはあいつと二人で出かけてもいいんじゃない。一対一でちゃんと向き合ってみたら、その人の新しい一面が見えて、より仲良くなれるってこともあるわよ」

 ソフィアの言葉に、小鳥は反応せずぼんやりと窓の外を見ていた。そして、ソフィアが自分の言った言葉を半分忘れかけた頃になって、転がる枯れ葉よりひっそりとした声で呟いた。

「…これ以上、蒼くんと仲良くなりたくない。私はもう、恋はしないと決めたんだから」

 ココアが気管に入り、ソフィアは派手に咳こんだ。小鳥が気づいていたことも、そもそも『恋』という単語が小鳥の口から飛び出したことも衝撃的だった。

「小鳥…『もう』って、何?どういうこと。あかね野に来る前に、もしかして好きな人がいたの…?」

 小鳥は答えない。けれどその背中が、消えてしまいそうに儚く見えて、ソフィアは何かに突き動かされるように立ち上がり、小鳥の肩を抱きしめた。

「小鳥が嫌なら、これ以上は聞かない。でも、誰かに話すことで少しでも気持ちが楽になるのなら…お願い、話して。ちゃんと受けとめるから」

 小鳥は小さく身体を震わせ、ソフィアの手に手を重ねた。そして、無言のまま立ち上がり、その手を引いた。




 小鳥の部屋のベッドに並んで腰かけ、ソフィアは初めて彼女の描いたものを見せてもらった。それは、黄ばみかけたスケッチブック一杯に溢れる、一人の少年の肖像画だった。こちらを見つめて微笑んでいるものもあれば、遠くを仰ぎ見ているものもある。遠くから近くから、あらゆる角度で彼の時間は切り取られ、しまいにソフィアは小鳥の目になって自分も彼を一心に追いかけているような気がしてきた。

 小鳥は、甘くとろけるような表情でその絵を見つめ、少年の髪や頬にそっと指を滑らせる。そのひとみと仕草を見ているだけで、ソフィアは顔が熱くなるのを感じた。こんな小鳥は、知らなかった。

「あの人とは、私が病気で一番つらかった、最後の時期に会ったの。桜の花びらが、お屋敷にたくさん降っていた。私に、自由に絵を描かせてくれた。ダンスを教えてくれた。心で飛翔することを教えてくれたの。あの頃が一番、身体も心も痛くて苦しかったけれど…一番幸せだった」

「今もそこに住んでいるの?彼は」

 少年の繊細な横顔と聡明な眼差しに見入りながら、ソフィアは低い声で訊ねた。小鳥は俯き、かぶりを振る。そして、しめつけられるような声で、独り言のように呟いた。

「でも好き、まだ好きなの。どこにいても、ずっとずっと、あの人を想っている。あの人は私に沢山のものをくれたけど、私にはこの心くらいしかあげられるものがないから…だから、私は二度と、恋はしない」

「小鳥…」

 ソフィアは、かける言葉が見つからなかった。あまりに純粋でひたむきな小鳥の恋は、けれど決して叶わないものなのだと、彼女の悲しげなひとみは告げていた。

(私にはできない。応援することも、諦めるよう促すことも…私はまだ、恋をしたことがないから…)

 だらりと垂れている小鳥の手を、ソフィアはただそっと握った。すると弱弱しい力が、その手を握り返してきたのだった。




 小鳥が心の一番奥底に隠していた秘密をついに打ち明けてから、二人の少女は一層友情を深めていった。放っておくと一日中家から出ない(単に寒がりだからである)小鳥を誘い出し、ソフィアは放課後の街に毎日散歩に出かけた。あかね野は既にクリスマスの装飾や音楽に溢れ、ヨーロッパの古い都市のように美しかった。小鳥は路面店のショーウインドウに飾られた巨大なテディベアや精巧なドールハウスに目を見張り、ソフィアは値下げされた派手なパーティードレスを次々に身体にあてがってくすくす笑った。

 そうやって街をそぞろ歩いた後、ある日二人がクリスマスカードとプレゼントのラッピングの材料を買い込んで帰宅すると、久しぶりに蒼が遊びに来ていた。中庭のベンチに腰かけ、文庫本を読んでいた蒼は、二人の足音に気づくと顔を上げて微笑んだ。

「お帰り。街に行ってたのか?」

「久しぶりね、蒼!夕ご飯食べてくでしょ?」

「いいのか?長居しちまうことになるけど」

 蒼がひょいと眉を上げる。それも道理で、時計の針はやっと夕方の四時を回ったところだった。

「蒼くんがいてくれると助かるわ。私と小鳥は、これから病院に行かなきゃならないのよ」

 軽やかな声と共に、翠さんが母屋から出てきた。ダッフルコートを着込み黒革のバッグを抱えて、すっかり外出の準備を済ませた格好だ。それまでソフィアの背後に隠れるようにして俯いていた小鳥が初めて口を開き、小さな声で「私の検診なの」と言った。

「そういうわけだから、蒼くんとソフィアにお留守番を頼みたいの。病院が混んでいると、何時に帰れるか分からなくて…」

「翠さんがそう言うなら、喜んで待ってますよ」

 本を閉じ、蒼が爽やかに笑った。小鳥は母鳥の懐に飛び込む雛のように、翠さんに駆け寄る。ソフィアは「行ってらっしゃい」と声をかけ、手を振った。




 ソフィアは蒼の隣に腰かけると、彼の持つ本に目を走らせた。

「それ、次の舞台の原作?なんていう本?」

「泉鏡花の『夜叉が池』。和風ホラー、悲恋ものだよ」

 答えた蒼の声は面倒くさそうで、さっきまでの猫は完全に剥がれ落ちていた。いつものことなので気にも留めず、ソフィアは興味深そうに本を見ている。

「そっか、前回は洋物だったものね。あんた、またお姫さまをやるの」

「オーディションに合格したらな。『夜叉が池』の姫はすごいぞ。池に封印された龍神で、さっさと村を滅ぼして恋人の所へ行きたいと願っている。そして、最終的にはその通りになる…今までと全然違う役だから、挑戦したいんだ」

 蒼は凄味のある笑みを浮かべた。ソフィアはぶるりと大げさに震えてみせた。

「頼むから、18禁のホラーにはしないでよ。あんたがリードすると、すぐ悪ノリするんだもの。あんまり心臓に悪い劇だと、小鳥を連れて行けないじゃない」

「小鳥は…もう俺の劇なんて観たくないんじゃないのか」

 ソフィアはためらうことなく首を横に振った。

「あの子はあんたの絵を描いた。本心では、もっと蒼のことを知りたいと思ってるんだわ」

「知ってたのか」

「あの劇の間、私が小鳥の隣にいたのよ。それに、小鳥はあんたと友達になってからすごく変わったわ。蒼には感謝してるし、これからも小鳥の友達でいてほしい」

 ソフィアは心をこめて言った。しかし蒼はそれを聞くと、大きなため息をついて頭を抱え込んでしまった。

「友達、か…」

「蒼?」

 ソフィアの呼びかけに蒼は答えない。ソフィアはしばらく、この悩める幼馴染を見つめていた。他人に対して思ったことはずけずけ言うくせに、自分の心の内の悩みや弱音は決して見せない。それが水谷蒼という少年だ。

(けれど、たまには私を信用してほしい。小鳥がそうしてくれたみたいに。私はあなた達に、幸せになってほしいから)

 ソフィアは無言のまま立ち上がると、母屋からトランペットをとってきた。吹き口に唇をあて、音階をさらっていると、蒼が驚いたように顔を上げた。

「ソフィア。何やってるんだ」

「いいから、聴いていて。夏休みに、小鳥を散々あんたの練習に突き合せたんでしょう。今度はあんたが私の練習に付き合って」

 有無を言わせぬ口調でソフィアは言い、目を閉じる。そして、金色の楽器に最初の息を送り込んだ。

 アームストロングの『この素晴らしき世界』の旋律が流れ出す。明るくのびやかに、トランペットは歌う。空に虹がかかった、美しい一日について。泣いていた子供がいつしか大人になり、世界をそっと肯定する、そんな希望について。

 それはソフィアの一番お気に入りの曲であることを、蒼は知っていた。青空の下、寒さにも負けず凛と背筋を伸ばして一心にトランペットを吹く少女は、微かに内側から発光しているかのようだった。

(そうだ、本当にこいつは…まるで、小鳥を照らす太陽だ)

 ソフィアが吹き終わると、蒼は静かに一つ息を吐いた。そうして、呟くように告白した。

「ソフィア。俺は最近、小鳥に避けられている。それは、おれがあいつに、友達以上の好意を抱いていると気づかれたからだと思うか?」

 ソフィアはトランペットを抱いて蒼の隣に座った。大きなひとみに、プリズムのように光が散りばめられており、それが瞬きと共に揺れた。驚いた様子ではなかった。

「自信ないのね。あんたがそんな殊勝な言い方するなんて、珍しいわ」

「俺はただ、これ以上小鳥を傷つけたくないんだ…文化祭の時みたいに」

 蒼は声を荒げた。ソフィアはごめんと謝り、それから強い眼差しになる。

「蒼。あの時のことは、あんたのせいじゃない。そのことだけは分かって。劇の間、小鳥はすごく活き活きした顔で絵を描いてた。あの子が自分から、強い意志を持って何かをしたのは初めてだった。あんたが引き出したのよ。小鳥はあんたに、ちゃんと心を開いてる。でなきゃ、三人で遊びたいなんてしょっちゅう言わないわよ」

「そう、小鳥が望むのは、いつでも三人だ。俺と二人には絶対にならない」

 蒼は膝に頬杖をつき、物憂げに言った。ソフィアはため息をつく。蒼の言う通りだと分かっていた。

「まあねえ。でも、それでも、蒼が気に病むことじゃないわよ。うじうじ悩んでるのって、あんたらしくない。小鳥のことは、もう少し待ってあげた方がいいのかもしれないね…大切な人を失った痛手から回復するには、とても時間がかかるのよ」

 ふっとソフィアの意識がそれ、数年前に父親が病で世を去った時のことに思いを馳せた。

(お葬式が終わってからも、父さんの面影をずっと探し続けてた。父さんはお墓じゃなくて、パン工房やリビングや、庭にいるような気がしてた。でも、見つからなくて、ますます悲しくなったっけ)

 ソフィアはぼんやりと、冬の透明な青空を――天国があると彼女が想像する方を見上げる。しかし、蒼が思い至ったのは全く別のことだった。

「大切な人って、誰のことだ?小鳥の過去には、親のネグレクトと学校のいじめの他に、まだ何かあったってことか?」

 鋭い声で訊かれ、ソフィアはしまったと思った。それもしっかり顔に出たらしく、蒼がたちまち顔をしかめる。ソフィア、と咎める声音で呼ばれ、咄嗟に言い訳じみた口調になった。

「私だって詳しく聞いたわけじゃないわよ。ただ、東京で暮らしてた頃に、すごく好きな人がいて、病気で苦しかった時の支えになってくれたんだってことだけ…その人にしか恋はしない、って言ってた」

 蒼は大きな大きなため息をつき、がっくりとうなだれてしまった。

「それって、俺は完全に振られた…んだよな。小鳥って恋愛に関しては一途そうだもんな~…ヤンデレ一歩手前、みたいな」

「あんた、はっ倒すわよ」

 すごんでから、ソフィアは困ったように眉を下げる。どうやら本気でダメージを与えてしまったらしい。

(私としては、ここであっさり諦めてほしくないんだけどな…)

 この時ソフィアが、蒼の顔を覆う手の奥を覗き込めば、落ち込んでいるにしてはやけに冷静な光を宿す双眸を認めることができたかもしれない。その唇がほんのわずかに弧を描いていることに気づいたかもしれない。この少年が、高校の演劇部きっての名優であることを、ソフィアはうっかり失念したのである。

 ためらいながらも、ソフィアはとうとう口にした。

「でも、もう会えない人みたいだったわよ。小鳥の片思いで終わった、みたいなことも言ってたかも」

 へえ、と呟き、蒼は組んだ手を顔の半分まで下げて、考え込むような表情を見せた。その眼差しの強さに、ソフィアは何故か胸がざわつくのを感じた。

(もしかして私、言わなくてもいいことを言っちゃった…?)

 けれどそれ以上ソフィアが何か考えつくより先に、蒼は表情を和らげてソフィアに向き直った。

「確かに、お前の言う通りかもな。あまり考えすぎずに、小鳥のペースに合わせることにするよ。なあ、他の曲を聴かせて。ミュージカルナンバーがいいな」

「いいわよ、いくらでも」

 ほっとしてソフィアは元気よく答え、立ち上がる。そして、祈りを込めて、『ウエストサイド物語』の名曲『サムウェア』を吹き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る