第6話 星明かり

舞台が良い出来だったら、蒼の好きなものが全部入ったクレープを奢ってくれと、ソフィアは頼まれたらしい。それで二人は、校庭のクレープの屋台の前で、衣装とメイクを落とした蒼が出てくるのを待つことにした。

「あーあ、お金足りるかな。さっきホットドッグなんて食べなきゃよかった。あいつ、アイスをダブルでトッピングした上に生クリームとチョコソースの大盛り追加とか平気で言うのよね」

 財布を覗きながらソフィアがぼやいている。小鳥は俯き、膨らんだポシェットを指でなぞる。かさかさと、音がした。そこに描かれたもの、自分のした事を思うと、胸が疼く。まるでとびきり甘いクレープを齧った時の胸やけみたいだ。

(蒼くんに見せたら、何て言うかな。喜んでくれるかな)

 想像して、小鳥の唇がほんの少しほころんだ。けれどそこには、後ろめたさもあった。真昼の空に浮かぶ、白く儚い月のような面影が、心を去らない。

(薙との、約束を、私は)

 その時、小鳥は自分の名を呼ぶ声を聞いた。人混みの向こうで、蒼が手を振っている。メイクを落とし、学生服姿で、髪を無造作に束ねた、いつもの蒼だ。どこかほっとして、小鳥が小さく手を振り返すのと、黄色い悲鳴が上がるのが同時だった。

「うわ、またファンが増えてる」

 ソフィアが呆れたように呟く。その横で、小鳥は片手を胸の前に上げたまま凍りつく。蒼は、頬を紅潮させた大勢の少年少女に、あっという間に囲まれていた。先程の劇を称賛する熱っぽい言葉の数々が、離れた場所に立っている小鳥にも聞こえる。蒼は苦笑を浮かべたが、慣れた様子で握手やサインに応じ、ときには写真撮影も快く引き受けていた。

「ね?すごい人気でしょ。演劇部に入った時からこの調子なのよ。あいつもああ見えて調子がいいいから、皆騙されちゃって。猫を被るのもいい加減にしなさい、いつか痛い目見るわよって言ってるんだけどねえ」

 そう言って、ソフィアは面白そうに笑った。そうなの、と小鳥は何とか答えた。表情が抜け落ち、手足がすうっと冷えて固まっていくのが分かる。さっきまでの高揚感は跡形もなく消え、虚ろな絶望の波が小鳥を飲み込んだ。

(私は、何を勘違いしていたんだろう。蒼くんは薙じゃなかった。私を助けてくれたけど、私だけの絵のモデルじゃなかった。皆の人気者で、皆に必要とされてて…あんなに明るく健やかで…私なんかが描いちゃいけなかったのに…!)

 小鳥の中で音を立てて時間が巻き戻っていく。周囲の世界は夢のように霞み、夜を照らす月のように美しく微笑む一人の少年の面影だけが鮮やかに浮かび上がった。

「小鳥?なにぼーっとしてるんだ?」

 怪訝そうな声がすぐ傍で話しかけてくる。小鳥は緩慢に頭を動かした。いつの間にか、蒼が彼女の目の前に立っていた。手にはしっかりと、バナナと生クリームとクッキーとアイスクリームが溢れそうなクレープが握られている。

「舞台、ちゃんと観てくれてありがとな。後で感想聞かせて。あ、もしかして、待たせたの怒ってる?よかったらこれ、一口食うか?」

 冗談めかして言い、蒼は齧りかけのクレープを小鳥の口元にずいっと差し出した。強烈な甘い匂いが鼻をついたその瞬間、小鳥は激しい恐怖の悲鳴を上げて蒼の手を振り払った。

「いやっ!」

 クレープが地面に落下し、べちゃりと音を立てて無残に潰れた。

 真っ青な顔で、小鳥が口をおさえる。ごめんなさいと小さく呟いて、そのまま駆け出した。

「小鳥、どこへ行くの」

 ソフィアが細い声で叫び、後を追う。揺れる金髪が人混みの中へ消えてから、ようやく蒼は我に返り、駆けだした。怯えたように自分を見つめる小鳥の眼差しが、ナイフのように胸に突き刺さっている。

(何であんな目をしたんだ。あの時お前は、何を見ていたんだ)

 不吉な予感が黒い雲のように広がり、蒼は唇を噛みしめる。

 校舎の裏の、人がいない水飲み場で、蒼はようやく二人の少女を見つけた。三つ並んだ蛇口全てから、水がほとばしる。その上にかがみこんだ小鳥が激しく嘔吐し、ソフィアは小さな声で何か囁きかけながら小鳥の背をさすっていた。

「蒼、母さんに電話して。車で迎えに来てって言って。小鳥が落ち着いたら、保健室に連れて行くから」

 蒼に気づいたソフィアが早口で言い、携帯電話を投げてよこした。蒼は声もなく頷き、うまく動かない指で携帯電話を操作する。落ち着きなくさまよう視線が、地面に転がる光る物をとらえた。

 それは、蒼が小鳥にやった涙水晶だった。




 保健室の前の廊下で、蒼は赤い夕焼け空を見ていた。たなびく雲が金色にそまり、息を飲むような美しさだった。小鳥だったらすぐにスケッチを始めるだろうなと、蒼は思った。

 校舎の開放時間はとうに終わり、片付けに精を出す生徒たちの声もほとんど聞こえなくなっていた。今年も文化祭は成功を収めた。ほとんどの生徒が、満足した気持ちで帰路に着く頃だろう。

 扉がカラカラと開く音がし、蒼のこめかみにぽんと冷たい缶ジュースがあてられた。

「母さん、あと15分くらいで来られるって。待たせてごめん…巻き込んでごめんね」

 いつになく殊勝な物言いをするソフィアをからかう気力は、流石の蒼にも残っていなかった。プルトップを起こし、無言のまま一気に飲む。甘いオレンジ味が、しみた。ソフィアは蒼の隣で壁によりかかり、リンゴジュースをやはり一気に飲み干した。ふう、とため息をつく。

「今更だけど、良い舞台だったわ。終わって疲れてたのに、こんなことになっちゃって、ほんとにごめんなさい」

「謝るな。何も悪くないだろう。お前も、あいつも」

 謝罪を繰り返すソフィアに、蒼は思わずきつい口調で言っていた。責めるつもりは欠片もない。ただ、真実が知りたかった。

「…なあ、ソフィア。あいつ、病気なのか?」

 もう目をそらすことはできないと思った。真っ直ぐな蒼の問いかけを、ソフィアもはぐらかすことはしなかった。細く長い息を吐き、宙を見上げた。

「蒼。拒食症って分かる?」

「何も食べられなくなって、食べてもすぐ吐いてしまう病気のことだろ。でもあいつ、夏休みに三人で出かけた時は、普通に飲んだり食ったりしてたよな。今日の昼だって…」

「うん。小鳥が私の家に来た時は、入院と集中治療が済んで、ほとんど治ったって言われてたの。でも、その前に2年近く病気してた期間があったし、しばらくは人の目の届く場所で生活した方がいいから…。それで、小鳥の叔母さんに頼まれて、母さんが預かることになったの」

 ゆっくりと、名残の夕日が空の端に消えてゆく。暗がりでも、ソフィアが目を伏せて涙をこぼしたのが、蒼には分かった。

「小鳥ね、前の学校でひどくいじめられてたんだって。お父さんにもお母さんにもネグレクトされて、ひとりぼっちだったんだって。初めて小鳥に会った時、この子にはもう悲しい思いなんか絶対させないって誓ったの。おいしい手料理をいっぱい食べさせて、色んな場所に連れて行って、沢山抱きしめようって。夏休みの間に、あんたとも友達になれたし、笑うこともできるようになって…すごく嬉しかったのに。何でまた、こうなっちゃうんだろう。私が、学校に連れてこなければ、よかったのかな」

 蒼は、手の中の涙水晶を強く握りしめた。小鳥が落としたそれは、ひび割れてくすんでいた。

(涙と悲しみを吸いとって美しくなるおまじないだと、俺はあいつに教えたのに)

 あの時、今にも風に吹かれて消えてしまいそうな小鳥を繋ぎ留めたくて、とっさに紡いだ言葉だった。戯れにちかい、子供をあやす寝物語のようなそれを、小鳥はずっと覚えていて、大切に持っていてくれたのだ。そして今日も、トラウマであるはずの学校に、ありったけの勇気を振り絞って来てくれた。そんな小鳥の、儚さと純粋さと芯の強さを、蒼ははっきりと愛おしいと思った。

(ああ、そうか。俺はあいつが、好きなのか。そうしてそれなのに、無神経なことをして手ひどく傷つけたのか)

 蒼の口元が自嘲するように歪み、震える。ガラス球を握る指が白くなる。二人はそうして、翠さんが来るまで、それぞれの後悔を抱えて立ちつくしていた。




 カーテンをしていない窓から、澄んだ夜空と瞬く星々が見える。今夜は新月なのだ。雲一つないから、星の光で夜道だって歩けそうな気持ちになる。

 電気を消した自室で、小鳥は身じろぎ一つせずベッドに腰かけていた。眼差しはうつろで、表情は人形のように動かない。吐きすぎて脱水症状を起こし意識を失い、保健室のベッドで目覚め、翠さんの車で家に帰るまで、小鳥はずっとこの調子だった。周りのことは何も見えず聴こえない。食事も水も受けつけない。

 ずっと考えていたのは、絵のことだった。

(あの人は、別世界の住人。私は、彼しか描かない)

 心の中で何度もつぶやく。けれど、小鳥の頭は勝手に、どの紙を使うか、画材はどれにするか、構図やポーズをどうするのか、考え始めている。

 胸が熱く波打つ。冷たい手足に、わくわくと温もりが灯る。

 そしてとうとう、小鳥は立ちあがった。クローゼットから三脚とイーゼル、それに画材の入っている鞄を持ち出し、部屋の中央に並べだす。どくんどくんと、全身が脈打って、叫び出したいような気持ちだった。

 何も描かれていない真っ白なキャンバスを、小鳥は光る眼差しでとらえる。そして、下書きをするべく鉛筆を近づける。



 味のしないパンを牛乳で流し込んだ蒼は、眠れずに自室の窓から夜空を見上げていた。都会であるあかね野では珍しいほど、たくさんの星が見えた。

(小鳥は今、どうしているだろう。ちゃんと眠れていればいい。チケットなんて渡さなければよかった。俺は、お前が健康で笑っていてくれれば、それでよかったのに)

 深い溜息をつき、蒼はベッドに転がり、腕で目を覆う。ひどく身体が重く、疲れを感じる。



 下書きを終えたら、いよいよ彩色にとりかかる。星明かりだけでは流石に心許ないから、小鳥はスタンドランプをつけて、水彩絵の具の色を確認する。絵の具を溶く水をとりに、足音を忍ばせて台所まで行く。中庭を通り抜ける時、パジャマからはみ出した首筋や裸足がひやりと震えたが、構っている暇はなかった。バケツに水を汲むついでに、ごく自然な気持ちで、オレンジジュースをコップに2杯、ごくごく飲んだ。

 自室に戻り、小鳥は絵筆に水を含ませる。目の高さまで絵筆を持ち上げた時、手が震えた。けれど唇を強く噛みしめ、深呼吸をし、小鳥は静かに絵筆を走らせた。



 眠りはなかなか訪れてくれない。閉じた瞼の裏に、次から次へと色鮮やかな絵が浮かぶ。舞台の本番を終えた後はいつもそうだった。心も体も興奮冷めやらぬまま、もう演じることのない劇の一瞬一瞬が愛おしくて、何度も回想してしまう。

(あの時、自分の中に生きていた人物を…あの場に生きていた物語を、とどめておきたいから)

 でも今夜は、劇の場面の合間に、よく知った面影が、儚く散る火花のように浮かんでは消える。淡い微笑み。いつも不安げな細い声。台詞を朗誦する自分を見つめる、ひたむきな熱い眼差し。

 彼女の全てが、どうしようもなく蒼をとらえている。





 小鳥は、幸せだった。無心に筆を走らせ、白いキャンバスに色をのせてゆく時、自由だと感じた。大切なものを、確かに絵筆でとらえている。世界と自分は調和していると、思える。

(これは、約束を破る行為。私がしてはいけない行為)

 その思いがよぎるたび、小鳥はせり上がる吐き気に苛まれ、描くのを中断しなければならなかった。それは過去の亡霊であり、小鳥に今も巻きつく呪縛だ。

(でも、それでも…私は、描きたい…!)

 小鳥は歯を食い縛り、顔を上げて描き続ける。額に汗がにじむ。




 蒼はさっきから、起き上がって外を見たり、また寝転んで目を閉じてみたりという動作を繰り返していた。いつもより目が冴えて、全く眠れない。手足がむずむずして、心臓の鼓動がはっきりと感じられる。これでは、好きな歌を思いきり歌う直前と同じだ。

(ああ、そうか。小鳥は俺にとって、とびきり歌いたい歌なんだ)

 ふっと蒼は思った。




 窓の外が白んできた。指が強張り、肩が重い。目もかすんできている。小鳥は荒い息をつきながら、描き続ける。キャンバスの上では、親しい人物が、微笑み、歌っている。その人の息遣いや笑い声を、小鳥ははっきりと心で聴くことができた。

(薙のことを想うと、愛しくて会いたくて、でも会えなくて悲しくて、胸が痛くなる。でも、蒼くんとの思い出は、いつも眩しくて優しい。歌や、花園や、夏休み…心が温かくなるような時間を、あの人は私にくれた…) 

 だからこそ小鳥は、蒼に惹かれ、描きたいと強く思ったのだ。

(そうか。蒼くんは私の、光だ)

 小鳥は静かに思った。ふうっと力の抜けた指から、絵筆が落ち、青い絵の具が涙のように飛び散った。




 窓の向こうから、日の光がいっぱいに差し込んできた。一階の倉庫では、がたごとと音がしている。翠さんがパンを焼く準備を始めたのだろう。

 小鳥は、完成した絵の前に、放心して座り込んでいた。指一本を動かすのも今は辛かった。けれど、汗びっしょりになった顔には、静かな会心の笑みが浮かんでいた。

 こんこん、と部屋の扉がノックされ、ソフィアの遠慮がちな声がした。

「小鳥、起きてる?具合はどう?」

「…うん、平気」

「朝ご飯、どうする?食べられそう?」

「うん。シャワー浴びてから行くわ」

 オッケー、とソフィアの声が明るく弾んだ。軽快な足音が遠ざかり、消えてから、小鳥はずるずると壁にすがるようにして立ち上がった。汗でどろどろの身体を、早く洗い清めたい。その後で、翠さんが用意してくれる、美味しくて栄養たっぷりの朝食を食べよう。絵が乾いたら、綺麗に額装して、できるだけ早く蒼に渡そう。




 墓地には、赤と白のコスモスが満天の星空のように咲いていた。命が全て枯れ果てる前の、優しい秋の景色だった。蒼が久しぶりにその場所へ足を踏み入れた時、少女は白いワンピースをまとって、コスモスの妖精のような風情で花の間に佇んでいた。

「小鳥」

 蒼が名前を呼ぶと、少女は振り向いて小さく頷いた。まだ顔色は悪いが、ひとみは活き活きと輝いていた。そうして小鳥は、胸に大事そうに抱えていた包みを、蒼に差し出した。

「えっ…俺にくれるのか?」

「あげる。あなたのために、描いたの」

 小鳥の声は、銀の笛のように細く高い。その言葉に鼓動が速くなるのを感じながら、蒼はガサガサと包装紙を開いた。濃い緑の地に白い木々のシルエットを描いた絵柄の包装紙は、ベッカライ リヒトのものだ。そうしてその中から姿を現した絵を、蒼は食い入るように見つめた。

 水色のドレスをまとった長い黒髪の姫君が、両腕を大きくひらいて、こちらへ歌いかけてくる。赤味の差した頬にも、細められた切れ長の目にも、溢れんばかりに喜びをたたえている。その少し後方には、深緑色のシャツとベストとズボンで男装した同じ姫君が、長身を少し傾けながら流し目で微笑んでいる。長い黒髪は一本のお下げに編んで肩に垂らし、ディズニー映画のピーターパンによく似た帽子に色とりどりの花を飾っていた。

 そこに描かれているのは、今にも動き出しそうなロザリンド姫であり、同時にまぎれもなく水谷蒼だった。こんなに美しく表現された自分を見るのは、蒼は初めてだった。何度か息を吸い込み、それでも震える声で、蒼は尋ねた。

「あんた…たった一晩で、これを描いたのか。あんたの目に、俺はこんな風に映っていたのか」

「気に入ってくれた?」

 小鳥は不安そうだった。ようやく絵から視線を引きはがし、蒼は真っ直ぐに小鳥を見つめて微笑んだ。屈託のない、少し照れくさそうな、小鳥が今まで見た中で一番幸福そうな蒼の笑顔だった。

「ありがとう。すごく嬉しい。こんなに嬉しいプレゼントは初めてだ」

「そう。よかった」

 湖面に光が反射するように、小鳥の顔にもようやく笑みが浮かんだのだった。

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