第5話 スポットライト

「文化祭?ああ、もう来週末なのね。うん、私は何も予定入ってないけど」

 鏡の向こうで、ソフィアの赤いさくらんぼみたいな唇が動いた。鏡台の前に座っているソフィアの、腰まである金髪を丁寧に梳かしながら、小鳥はほっと息をついた。

「蒼くんがね、チケットを二枚くれたの。ソフィアと私で、よかったらどうぞって」

「いや、絶対そんな殊勝な言い方はしなかったでしょ…。でも、今年は小鳥と一緒に行けるのね、嬉しいな。小鳥、行くでしょ?」

 小鳥はしばらく黙ったまま、手を動かしていた。緩やかに波打つ金色の髪を、細い指がすくい上げ、二本のお下げにまとめていく。小鳥の手つきはいつも細やかで、触れられているとソフィアは猫のように喉を鳴らしたくなる。

「行ってみたい…気がする」

 ついに小鳥は、小さな声で呟いた。ソフィアは思わずガッツポーズを作った。

「うん!行こうよ、二人で!ああ、嬉しい。一緒に色んなもの、見て回ろうね。屋台で美味しいもの食べて、展示も見ようね。男子校って、何でああ凝り性の子が多いのかしらね、どれも結構レベル高くて面白いわよ」

「そ、そっか、男子校なんだっけ。私、初めて」

 小鳥がゴムで髪を留めてくれたのを確認してから、ソフィアはくるりと立ち上がって小鳥の両手を熱く握りしめた。

「大丈夫よ。私がずっと傍にいて、守ってあげる。約束、ね」

 弱い力で握り返し、小鳥は頷く。小さい子にするようにその頭を撫で、「それじゃあ行ってくるね!」と言ってソフィアは部屋を出て行った。紺色のプリーツスカート、白い線の入ったセーラーカラー、えんじ色のしゃれたタイが小鳥の視界に焼きついた。

(あと半年もすれば、私もあれを着て高校に通うんだ…)

 夏休みが終わると、その現実が小鳥にも徐々にくっきり見えてきた。街でスケッチをしている際に、数人の友達と笑いながら歩くソフィアを見かけたことがある。どの少女も真面目そうで可愛らしく、その情景はほんの少し、小鳥に未来への期待を抱かせてくれた。ソフィアの教科書を借りて、少しずつ家で勉強を始めてもいた。海の近いあかね野は、秋風が殊更に冷たい。長時間外をさまよい歩くのが、辛くなってきていたせいもあった。

(蒼くんも、あまり来なくなったし)

 花が盛りの季節は終わり、枯葉の目立つようになったあずまやを思い浮かべ、小鳥は寂しげな目をする。本番が近づき、いよいよ稽古漬けになっているらしく、蒼はもう滅多に顔を見せなくなった。その代わりであるかのように、翠さんの店には頻繁にパンを買いに来たので、ついでに母屋に寄っていく蒼とソフィアと小鳥でお喋りする機会は増えていた。大勢で過ごす時、小鳥の右手はいつも大人しい。だから小鳥も、もうほとんどあずまやに行くことはなくなった。

(今日は午後から雨になるみたいだし、お部屋でお勉強しよう)

 小鳥は静かにブラシを置いた。



 時は飛ぶように過ぎ、いよいよ明日はあかね高校の文化祭を訪ねる日の夜になった。いつものように、風呂上がりの髪をタオルで包んだ小鳥がリビングでホットココアを飲んでいると、ソフィアが携帯電話で誰かと話しながら入ってきた。

「…そう、上演は14時からね。了解、そっちでお昼も食べて、間に合うようにちゃんと行くから。ほら、小鳥は学校なんて久しぶりだから、色々一緒に見て回りたいのよ。…うん?ここでココア飲んでる。かわろっか?」

 ぽん、と電話を手渡され、小鳥は目を瞬く。ソフィアがウインクし、あおい、と唇を動かす。小鳥は、電話をゆっくりと耳にあてる。通話口から、聞き慣れた声が苦笑交じりに流れてきた。

『小鳥?まだ起きてた?』

「子供じゃないもの、起きてるわ。こんばんは、蒼くん」

『はい、こんばんは』

 軽やかな笑い声が耳をくすぐる。急に息苦しさを覚え、小鳥はそっと胸元を掴む。顔が見えない分、蒼の声はいつもに増して歌うような滑らかさと艶やかさを宿して響いた。

「…蒼くんこそ、まだ起きていていいの。明日、本番でしょう」

『明日が本番だからこそ、だよ。演劇を始めてからずっと、本番の前の夜はソフィアと電話で話すことにしてる』

「そうなの?どうして?」

『あいつと普段通りの馬鹿話をしてると、緊張がほぐれてよく眠れるんだ。まあ、願掛けみたいなものかな』

 小鳥は黙り込んだ。やけに素直な物言いは、いつもの蒼と少し異なって聴こえた。

(こういう時、どうすればいいんだっけ。励ます?何て言って?)

 必要な語彙を、とっさに上手く引き出すことができない。そんな自分が、もどかしい。

「さっきね、『お気に召すまま』の原作を読んでたの」

 沈黙が辛くなり、小鳥はやっとのことで切り出した。へえ?と、蒼が促すように優しく笑う。

「私はシーリアが一番好き…憧れる…親しみを感じたわ。地位も何もかも捨てて、親友のロザリンドについていく所とか。もし、ソフィアが辱められたら、たとえその相手が自分の親でも、私だってそうすると思うから」

 台所で自分用にホットミルクを作っていたソフィアがむせた。その耳が見る間に赤く染まる。電話の向こうで、蒼はしばらく黙っていた。それから、ひどく静かな、ためらいがちな声で訊ねた。

『もし、俺がロザリンドだったら…つまり、明日の舞台ではそうなんだけど、やっぱり小鳥はついてきてくれるか?』

 予想外の言葉に、小鳥は言葉に詰まった。どうしてか、声がかすれる。

「えっと、蒼くんと二人でアーデンの森へ…ってこと?なんだか駆け落ちみたいで、それは、えっと」

『いやいやいや!目指すは森の中の侯爵で、先に追放されてる俺の親父、じゃなかったロザリンドの父親だから!他意はないから!』

 ひどく焦った声に、小鳥は思わず笑ってしまう。笑うなよ、と拗ねたように言ってから、ふいに蒼はその声音をいたずらっぽい女性のそれに換えた。

『ねえ、私と一緒に森へ逃げましょうよ。木漏れ日を浴びて、小川を越えて。野に咲く全ての花の名を教えてあげる。小鳥が鳴いたら、声を合わせて歌うの。野苺を摘んで、草を採って料理して、一緒に楽しく暮らせるわ』

 ふいに、小鳥の脳裏に一枚の絵が浮かんだ。

 長い黒髪をほっそりした肩に躍らせ、緑のドレスをまとった蒼が、声をたてて笑いながら小鳥の手を引く。小鳥は裸足で、お気に入りの白いワンピースを着ている。花が咲き乱れ、大木が二人を守るように立ち並ぶ中を、気の向くままに駆けてゆく。

 小鳥はそっと微笑み、緩やかに右手を動かして、その絵をそっと掬いとるようにした。

「ずうっと森に住めるなら、楽しいでしょうね」

『でしょ?ね、ついてきてくれる?』

「うん。いいわ」

『やった!』

 最後だけ、元の少年の声に戻って、蒼が心から楽しそうに笑った。


 それから二、三言、他愛のない言葉を交わし、小鳥は電話を切った。いつの間にか傍に来ていたソフィアが、楽しそうに聞いてきた。

「蒼、なんて言ってた?小鳥が来るの楽しみだって?」

「最高の舞台を見せられるよう頑張るって言ってたわ」

「たぶん、開演前に少しだけ会えるわよ。あいつ、小鳥の顔を見たら一層はりきると思うな」

「そう…?」

 小鳥は首を傾げ、困ったように笑う。ソフィアは小鳥の髪を、姉のように優しく撫でていた。





 今年も、あかね高校文化祭は大盛況だ。校庭にはぎっしりと食べ物の屋台が並び、壁や廊下は色とりどりに飾りつけられている。校舎からは軽快な音楽と若者達のはしゃぐ声が、ミックスジュースのように混ざり合って流れ出す。

 歩くのも困難なほどの人込みを、蒼は踊るような足取りで抜けていった。他の生徒達とそっくり同じな制服の袖を軽くまくり、喉元のボタンを二つ外しただけなのに、すれ違う女性達がそろって二度見している。けれどそれには全く無頓着で、カフェスペースになっている教室に辿り着くと、蒼はきょろきょろと視線を巡らせた。大勢の人の中でも一際目立つ、輝く金髪の少女が、白い手をぶんぶんと振って笑った。

「蒼、こっちこっち!」

 お昼もう食べちゃったわよ、と明るく言うソフィアの前に空いていた席をなんとか確保し、蒼は額の汗を拭って大きく息をついた。

「すごい人いきれだな。食券まだ残ってたか?昼前にもうこんな売れてるとは思わなかった」

「おにぎりとパンはあったわよ。でも、カツサンドとハンバーガーとアイスは売り切れ。私が焼きそばパンとオレンジジュース、小鳥は紅茶マフィンとミルクティーを頂いたところ」

 話しながら、ソフィアは自分の肩に隠れるように俯いている少女の肩をぽんぽんと優しく叩いた。豪華な金髪を波打たせ、空色のワンピースをまとうソフィアの隣で、黒髪にいつもの白っぽい簡素なワンピース姿で深く俯く小鳥は、いつもより一層儚く頼りなげに見える。蒼は胸の奥がおかしな風に疼くのを感じ、思わず取り繕うように声をかけた。

「小鳥、ちゃんと食ったか?足りなかったら、外にクレープとかあんまんの屋台もあるから」

 この甘党が、と呆れたようなソフィアの声は無視する。小鳥はほんの少し顔を上げ、小さく口元をほころばせて頷いた。大丈夫、ありがとう、と声を出さずに唇が動く。胸元で組まれた細い指の隙間から、虹色の光がきらりと覗く。それが自分のやったガラス球だと気づいた瞬間、蒼の心臓は今度こそ激しく飛び跳ねた。

「もう行くの?もしかして、まだ練習するとか?」

 椅子を蹴るようにして勢いよく立ち上がった蒼に、ソフィアが驚いたように訊ねる。蒼は明後日の方向を向いたまま、ぎくしゃくと頷いた。

「ああ、まあ。女役はほら、メイクも衣装も時間かかるし。じゃあ、後でな」

 早口でまくしたて、蒼は人にぶつかりながら小走りに教室を出て行く。ソフィアは不思議そうにそれを見送った。

「変な奴。いくらなんでも、メイクと着替えに3時間もかかるわけないでしょうに」

「ソフィア、久しぶり!」

 通りすがりの男子生徒が気さくに声をかけてきた。ソフィアは笑ってひらりと手を振る。高校の敷地に足を踏み入れた瞬間から、何度も繰り返される光景だった。ソフィアの影に隠れたまま出てこない小鳥には、気を遣っているのか気づいてさえいないのか、誰も声をかけてくることはなかった。

「ソフィアは、友達が多いのね」

 カフェスペースを出ながら、小鳥は呟いた。ソフィアは笑って頷く。

「この街に生まれ育ったんだもん、当然でしょ。パン屋の常連さんもいるしね」

「そう…」

 人混みを恐れるかのように、小鳥は一層身を縮めて俯いた。

(こんなに人が多いって分かっていたら、来なかった)

 ひいき目に見ても、夏休みの間に小鳥がすれ違った人数を全部合わせた数より多い。すぐ近くで笑い声がどっと弾けるたび、触れそうな距離を人の気配が騒々しく通り過ぎるたび、小鳥の心臓は止まりそうになる。ソフィアは無頓着のまま小鳥の手をしっかりと握りしめて、ぐんぐん前へ進んでいった。

 小鳥の手には、蒼に貰ったガラス球がしっかりと握られている。持ってくるか置いてくるか、随分迷って、結局持ってきてしまった。小鳥の胸に吹き荒れる嵐を吸い取って、この球は美しくなるのだという蒼の話を、小鳥は心のどこかで真剣に信じている。

(うるさい…)

 さざめく人の声が、耳の奥でぼやけ、何重にも響き合う。目の焦点をわざと外しているせいで、蠢く人の波を識別できない。時間の感覚さえなくなり、自分を引っぱってゆくソフィアの手だけが唯一の現実だった。




 ふいに、耳鳴りがやみ、辺りに静けさが戻った。目を上げると、小鳥は薄暗い空間にいて、ふかふかの赤いシートに腰かけているのだった。

 目の前には、幕が下りた舞台がある。重たい金色の緞帳が微かに揺れ、その奥からはひそやかな話し声と妖精めいた軽やかなくつ音がしている。

(そうか、ソフィアと私は、蒼くんの出演するお芝居を観に来たんだっけ。シェイクスピアの、『お気に召すまま』)

 霧が晴れたように冷静になった頭の奥で、小鳥は考える。いつの間にか、二人は講堂に到着したらしい。客席のほとんどが埋まっているらしく、独特の息苦しさがある。わずかに小鳥が身じろいだ時、ベルが鳴り、照明がふっと消えた。


 幕が上がる。


 広い舞台は、造り物の木や茂みや花々で溢れていた。ネットのどこかから引っ張って来たのであろう庭園の写真が拡大コピーされ、ボール紙に貼りつけられている。それでも、鬱蒼とした雰囲気はよく出ていたし、登場して喋り始めた役者達の衣装も演技も堂々たるものだった。

(第一幕第一場。騎士の息子オーランド―と、その従僕アダムの会話。その後、彼を陥れようとしている兄オリヴァーの登場)

 何度も台本を読まされ、原作も目を通したので、大体の物語の流れは頭に入っていた。周囲が暗く静かになったためか、小鳥の心はだいぶ落ち着いていた。すっかり人肌の温かさになったガラス球を、そっとワンピースのポケットに滑り込ませる。

(第一幕第二場。ロザリンドとシーリアが語り合う。道化タッチストーンを伴い、競技場へ赴く。そこで選手として出場し、見事勝ち抜いたオーランド―とロザリンドが、一目で恋に落ちる)

 舞台が暗転し、スポットライトが舞台の中央に寄り添って座る二人の姫君を照らし出した。客席から一斉に、感嘆と憧憬のため息が漏れた。小鳥は息を飲み、瞬きすら忘れて舞台を凝視した。

 シーリア役の少年はまだ一年生らしく、華奢であどけなさの残る顔立ちをしていて、金髪の巻き毛のかつらもよく似合っていた。しかし、その傍らで凛と背筋を伸ばし微笑む蒼に比べると、彼も太陽に並んだ月のように霞んでしまう。蒼の艶やかな黒髪は、とき下ろすと肩甲骨の下まであった。衿ぐりの大きくひらいた水色のドレスをまとっているので、透けるように白い鎖骨とほんのり色づいた胸元が露わになっている。くっきりと華やかな、けれど決して濃すぎない化粧は、蒼の強い眼差しや形のよい唇やきめ細やかな肌を絶妙に引き立てる。そこにいるのは、女性の役を演じる男子高校生ではなく、誇りと気品に溢れたロザリンド姫だった。

「お願い、私の大好きなロザリンド、陽気になって」

「シーリア、これでも私、精いっぱい陽気に見せているのに、それをあなたはもっと陽気になれと言うの?追放されたお父様の事をどうしたら忘れていられるのか、それを教えて下さらなければ、何か素晴らしい歓びを想い出せと言っても、それこそ無理というものよ」

 あの夏のあずまやで何十回と練習した台詞を、蒼が軽やかに唇から解き放つ。その声は、今まで小鳥が耳にしたどんな時よりも、澄んで晴れやかに響きわたった。

 その場の人間全てが、蒼に魅せられていた。蒼の仕草一つで、場の空気がぐんと変わるのを小鳥は感じた。五感の全てが、ナイフのように研ぎ澄まされてゆく。身体が熱い。耳の奥で、潮のうねりのように血が巡る音が響く。

(ああ、どうしよう。もう誤魔化せない。私、蒼くんを、描きたい)

 今こそ小鳥は確信した。ためらいや恐怖や悔恨や執着を一瞬で吹き飛ばすほどに、舞台の上の蒼は美しく魅力的だった。今すぐに、見たもの感じたものを描きとめなければ、きっと死んでしまうと切実に思った。




(第一幕第三場。シーリアの父、フレデリック公爵がロザリンドを追放する。ロザリンドとシーリアは、アーデンの森へ逃げることを決める)

 小鳥は膝の上に置いていたポシェットから、メモ帳と鉛筆を取り出した。そして、白いページに鉛筆を走らせ始めた。舞台と手元へ、交互に目をやる、その表情には鬼気迫るものがあった。

「この不運を自分だけの肩に背負い込み、私をけ者に、ひとり悲しみに耐え抜こうなどと、そんな考えを起こしては厭、なぜって、私、天に賭けて誓ってもいい、御覧なさい、私たちの嘆きに面を曇らせているあの大空に賭けて、あなたがどう言おうと、私はあなたにいて行きます」

 舞台の上では、シーリアが高らかに言いきった所だった。蒼に触発されたのか、実に活き活きとした演技だ。親友の宣言に嬉しげに涙ぐむロザリンドの輪郭を、小鳥は指がぼやけるほどの速さで描きとってゆく。

「さあ、今から私たちは心安らかに自由の世界に旅立つの、追放の旅ではなくて」

 シーリアが言い、ロザリンドの手を引いて退場してゆく。照明がふっと消える。と同時に、小鳥は新しいページをめくった。




(第二幕第四場。男性に扮したロザリンドと羊飼い娘に扮したシーリアが旅を始める。恋にやつれる羊飼いコリンから、小屋と牧場と羊を買いとり、そこで暮らし始める)

 颯爽と舞台に登場した蒼は、緑を基調にした衣装に着替えていた。ディズニー映画のピーターパンをもう少し派手にした感じのズボンと上着とベストをまとい、細いブーツを履いている。長い黒髪を一本のお下げに編んで片方の肩に垂らし、メイクも女性のままなので、赤い唇で優雅に微笑み高い声で喋ると、立派に男装の姫君に見えた。小鳥はほとんど手元を見ずに、その姿を描き続けた。先程から不安そうにソフィアがこちらを伺っているのには気づいていた。でも、説明する余裕はなかった。

(第二幕第五場。ロザリンドの父親の公爵の部下達が、森の中で宴を催す。そこへ、ロザリンドの想い人であり、同じく逃亡の身となったオーランド―が、忠実な従僕アダムと共に登場する)

 このシーンは本来、男役のみで構成されるのだが、話をはしょって時間内に収めるため、先に父親と再会したロザリンドとオーランド―の再会のシーンに変更されていた。宴の席で立ち上がったロザリンドが、歌いだした。

「緑なす 森の木蔭に

 我と坐し 楽しき歌を

 鳥の音に 合わせ歌わん

 人あらば 来れや来れ いざ来たれ

 このかたきなく あだなき国に

 仇なすは ただ冬空の 寒きのみ」

 暗い密閉された空間に、清涼な風が吹き抜けるようだった。蒼の歌声をこのシーンのメインにするために、わざわざ台本を変更したのかもしれないと、小鳥は心のどこかで思った。

(第三幕第二場。オーランド―が森の木々に、ロザリンドへの恋歌を書きつけてまわる。心を撃ち抜かれたロザリンドは男の振りをして、オーランド―の本心を聞き出そうとする)

 ここでも、本来はシーリアが読み上げるはずの恋歌を、ロザリンド本人が歌うように変更されていた。蒼がとろけるような声で、あの日小鳥のためだけに紡いだ歌をうたい上げる姿を、小鳥は描いた。

「東の果てより西のへり

 類い稀なるロザリンド

 その名は高く風に乗り

 天が下しるロザリンド

 いかに妙なる絵姿も

 光失うロザリンド

 他のかんばせは忘るとも

 ただに偲ばん ロザリンド」




 その後も次々に、華やかで賑やかなシーンが繰り広げられた。小鳥の指は真っ黒に染まっていた。メモ帳は途中から、校内で受け取ったチラシの裏や紙ナプキンの余白に変わった。それでも紙が足りなくなった時、ソフィアがそっと自分の分のチラシを渡してきた。

 約一時間にわたった舞台は、恋人達の結ばれる大団円で幕を下ろした。緞帳の前に出てきて笑顔でお辞儀をする役者達に、惜しみない拍手喝采が送られた。

 小鳥は、ぼんやりと座ったままでいた。電池が切れたロボットのように、手も足もだらりと垂れている。膝の上には、大きさも色もまちまちの紙が大量に散らばっている。頭の中では様々な思いや鉛筆の線や歌声が千々に乱れて、もう何もまともに考えられなかった。

「小鳥。小鳥、外に出ましょう。もう少ししたら蒼と合流して、おやつを食べに行こうって約束してるから」

 ソフィアが言い、小鳥の肩にそっと手を置いた。小鳥はぎこちなく頷き、緩慢な動作で紙をかき集めてポシェットにしまった。




 

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