第4話 羽の生えた人

 八月の最後の日、小鳥が自室へ上がったのは夜もだいぶ更けた頃だった。

(ソフィアと蒼くんと、ショッピングモールで散々歩いて。夕ご飯もそこで、翠さんがお店を閉めて合流してから四人で食べて。帰ってからもソフィアと台所で話し込んでたら、こんな時間になっちゃった)

 耳の奥にまだ弾ける笑い声が残っている気がして、小鳥は微笑んだ。心地よいだるさに身体が包まれている。この一週間、ソフィアと蒼と小鳥は毎日会ってどこかへ出かけていた。ソフィアも蒼も、夏休みの宿題を七月中に終わらせていたし、部活に明け暮れた分を遊びまくって取り戻すのだと意気込んでいた。

 あかね野の観光地や、地元の住民だけが知る穴場を、三人は片っ端から踏破していった。疲れたら早めに相原家へ戻り、翠さんが用意してくれたおやつを食べながらお喋りする。ソフィアと蒼が同時に口を開くと大抵喧嘩になったが、慣れてくるとそれも仔犬がじゃれあっているようにしか聞こえなくなった。

(夢みたいな一週間だったな。友達とお出かけする日が来るなんて…それも、こんなに楽しいなんて)

 どの場面を思い返しても、夏の太陽と三人の笑顔しか、そこにはない。眩しすぎて幸せすぎて、恐いくらいだった。

(だって、一生分の幸せを使い果たしちゃった気がするんだもの)

 カーテンが開いたままだったことに気づき、小鳥は窓辺に寄った。すると、濃紺の夜空にぽっかり浮かんだ満月が目に飛び込んできた。そのおもてを、ふっと鳥影がよぎったような気がして、小鳥は大きく肩を跳ねさせた。

 息を止め、目をこらす。けれど夜は静まり返ったままだった。

(気のせい、か…)

 小鳥は深くため息をついた。

 明かりを点けていない部屋は、ぼんやりとした月明かりにのみ照らされている。二中ずっと賑やかな音と気配にうずもれていたため、夜こうして一人になると、小鳥はまるで違う人間になったような気がする。

(まるで私が二人いるみたい。病気が治って、翠さんとソフィアに大切にされて、誰も私を知らない新しい街で穏やかに暮らす私と、なぎに出会った頃の私と)


 薙。

 その名を、胸の一番奥深い場所へ落とすように、小鳥は呟いた。

 初恋の人を忘れたことは、一日たりとてなかった。


 摂食障害。拒食症。それが、小鳥の患っていた病の名前だ。二年前、まだ小鳥が東京の中学校に通っていた頃が、一番ひどかった。

(学校ではいじめられて、家へ帰っても母さんはいなくて。世界中から捨てられたような気がして、苦しかった)

 絵を描くことだけが、小鳥の唯一の喜びであり、生きる力の源だった。そして、描く題材と居場所を与えてくれたのが、当時小鳥が住んでいた街の古いお屋敷に母親と二人で暮らしていた少年、神山薙かみやまなぎだった。美しく優しく大人びた彼に、小鳥は全身全霊で恋をした。

(私はあの人のことを、名前以外は何も知らないままだったのに。ううん、何も知らないからこそ、薙の全てを好きになったんだわ。目に見えるもの、触れて感じられる、全てを)

 けれど薙は、小鳥の命がけの告白を、受け入れてはくれなかった。限りない優しさと憐れみと、小さな残酷さを残して、彼は翼を広げて飛び去って行った。それは比喩ではなく、自分と母は人ならざる『有翼の民』なのだと薙は小鳥に教え、そして小鳥も、最後の最後にそれを信じた。

 誰も見ていないのは分かっていたが、小鳥は爪先立ってそうっとベッドへ戻り、枕の下に手を突っ込んだ。すりきれて古びたスケッチブックが何冊も、そこには隠されていた。かさりと開くと、ぼやけた少年の肖像画が目に飛び込んでくる。ページの間から、羽根が一枚、ひらりと落ちた。それを拾い上げ、小鳥は唇をおしあてた。

(薙。なぎ。会いたい。今でも私は、あなたが好き)

 北海道の精神病院に入院していた時も、唯一の肉親である叔母の仕事が忙しくなり一緒に暮らせないと告げられた時も、知らない街に引っ越して知らない人達に預けられることが決まった時も――薙への想いだけが、小鳥を支える希望であり揺るぎない真実だった。

 薙のことを他人に話したことは、一度もない。きっと夢でも見ていたのだろうと、一笑に伏されてしまうだろうからだ。小鳥自身も、宝石のような思い出を人にさらけだすつもりはなかった。けれど、自分の中だけに眠らせた記憶は、いつしか薄れて消えてしまいそうで、それが恐くてたまらなくて、小鳥は秘密のノートに薙の絵を沢山描いた。

(それでも、もう思い出せない…あなたの声も、匂いも…)

 狂おしいほどの寂寥感に襲われ、小鳥はあえいだ。手が自然に、床に置きっぱなしにしていた鞄に伸び、ガラス球を引っ張りだして胸元に引き寄せる。けれど次の瞬間、火傷をしたかのように小鳥はそれをとり落とし、恐怖の目で見つめた。

(蒼くん)

 もう一人の少年の面影が、暗い部屋に差し込む眩しすぎる一筋の朝日のように、心をよぎる。歌うような声、ちょっと斜に構えた朗らかな笑顔。

 小鳥の右手が無意識に動いた。その手をもう片方の手できつく握りしめ、小鳥は涙も出ないまますすり泣いた。

「薙。あなたを忘れないために、あなた以外の人は描かないと、そう決めたのに」

 呻くような言葉を、聞いた者はいなかった。




 九月も終わりに近づくと、暑さも和らいでくる。港へ降りていけば、風の冷たさに誰もが身をすくめる。山の手によく植えられている紅葉が、少しずつ色づき始めていた。

 放課後の舞台稽古を終えた蒼は、同じクラブの友達数人と、港へ気晴らしに来ていた。最近オープンしたばかりの屋台のアイスクリームが安くて大きいと、高校生の間で大流行しているのだ。

「水谷、お前のファンがまた後ろの席に見物に来てただろ」

 レモンアイスを舐めながら、『お気に召すまま』の狂言回しである道化タッチストーン役の少年がにやにやする。ロザリンドの父親役がラムレーズン味に噛みつきながら、器用に顔をしかめた。

「まだ本番までだいぶあるっていうのに、すごい勢いで人数増えてる気がするんだよな~。俺、中学校は共学だったけど、まさか男子校に上がってからこんな苦労するとは思わなかった」

「邪魔になってるんなら、俺から頼んで丁重にお帰り願うけど?」

 ダークチョコ、ミントチョコ、ストロベリーチョコの三段重ねアイスクリームをせっせと舐めながら蒼が言う。途端に、恋人オーランドー役に頭をはたかれた。

「お、ま、え、が、練習の合間にわざわざそうやって愛想ふりまくから観客が減らないの!あとチョコレート味の三段重ねって、見てるこっちが胸やけするからやめろ。味のチョイスまで女子かよ」

「はいそれ偏見~。頭使うと糖分摂取したくなるんだから、ほっとけよな。それに、俺は観客の目がある方が燃えるタイプなんだよ」

「ナルシスト?」

 ぼそりと漏らしたタッチストーン役の顔に、蒼は無言でアイスクリームを押しつけてやった。

 ひとしきりアイスの押しつけあいで騒いだ後、オーランドー役がしみじみ呟いた。

「それにしても水谷って、一年の頃からモテモテなのに相手を作らないよな。いっそ彼氏がいますってアピールした方が、過剰なファンが収まるんじゃないの?」

「…あいにく俺は男と付き合う趣味はない」

「え、女役ばかりやるから、てっきり男と付き合いたいタイプなのかと」

「あのなあ。そんなこと言ったら、歌舞伎役者はどうなるんだよ。女形やってる人が全員ゲイなわけないだろ」

 それもそうだな、とオーランドー役はあっさり頷いた。

「じゃあ何で、女役ばっかりやりたがるんだ?」

 蒼は小首を傾げ、ちょっと考え込む素振りを見せた。決して女顔ではないのだが、細く白いうなじに長い髪がさらりとかかる様は、なかなかになまめかしい。そういうところが罪なのだと、その場にいる彼の友人達は同時に考えた。

「まあ相対的に見て俺は華奢だから、ドレスを着た時に不自然じゃないだろ。それに、どうせ演じるなら、徹底して自分と違う役の方が面白いからな」

「確かに日常生活で堂々と女装する機会ってないもんな。じゃあ、ほんっと~にモテたいからではないんだ」

「…そう勘違いしてるやつが他にもいるなら、よ~く否定しておいてくれよ」

 げんなりした顔で言った蒼は、何気なく道の先に目をやり、そこに見慣れた人影を発見して軽く目を見開いた。

「悪い、俺ちょっと寄るところ思い出したから。じゃあな!」

「おう、明日の朝練に遅刻するなよ!」

「分かってるって!」

 大口を開けてアイスを食べ終えると、蒼は笑いながら走っていった。




 その人物は、海に向けてイーゼルを立て、熱心に絵筆を動かしていた。大きめのパレットを支える左手はいつ見てもひどく細く、重みに耐えきれるのか不安になる。キャンパスには、今まさに水平線に沈もうとしているオレンジ色の夕日が描き出されていた。

「小鳥」

「蒼くん?」

 手をとめ、小鳥が振り向く。その表情に、蒼は一瞬息をとめた。

「久しぶりね。今日も部活だったの?お疲れさま」

「あ、ああ…」

 潮風に舞い上がる髪をおさえ、ふわりと笑った小鳥はいつも通りで、蒼は安堵した。

 ひどく寂しげに見えたのは、きっと逆光のせいだったのだろう。

「ずっとここにいたのか?寒かっただろ」

「大丈夫、このショールとても暖かいから」

「そう?えらく古めかしい柄だな、一瞬、街のシニアお絵かきクラブの婆さんかと思ったぞ」

「えっ、これ、翠さんが貸してくれたんだけど。リヒトさんからのクリスマスプレゼントだったんですって。リヒトさんのお母さん手編みの」

「…」

 茶と橙の格子柄の、どっしりしたショールにすっぽりくるまった小鳥は、純粋なひとみで首を傾げる。そして、石のように黙り込んでしまった蒼がそれ以上何も言わないのを見てとると、イーゼルに向き直ってパレットに色を作り始めた。その横顔は、やはり少しやつれて見えた。

(最後に会った時は、だいぶ明るくなったように見えたんだけどな)

 蒼は黙ったまま、小鳥を見つめていた。夏休みの最後の一週間を一緒に過ごした小鳥は、初めて会った時とは見違えるようによく笑い、よく喋った。

 けれど時折、抜け殻のような表情で、小鳥が遠い所をぼんやりと見つめているのを、蒼は鋭く感じとっていた。話しかけるのがためらわれるほどの深い孤独をまとって、何かを探すように、小鳥は空を見上げる。そんな時、小鳥の心には、ソフィアも蒼もいない。

 今、絵を描いている小鳥は、その時と同じ表情をしていた。蒼がついさっきまで賑やかな友人達と過ごしていたせいで、余計に小鳥が違う世界の住人のように見えるのかもしれなかった。

「小鳥は風景ばかりで、人を描かないんだな」

 なんとか彼女をこちら側に連れ戻したくて、蒼は思いついたことを口に出した。小鳥は手を留めた。その横顔が、沈みゆく夕日と共にますます深い陰影を帯びた。

「…人は、もう描かないと決めたの」

 低くひんやりとした声音だった。道端で弱弱しく羽を動かしていた蝶を誤って踏んでしまったような思いで、蒼は言葉に詰まった。小鳥が顔をそむける。力の抜けた手から絵筆とパレットが落ち、その痩躯がぐらりと傾いだ。

 蒼は鞄を投げ捨てて飛び出し、間一髪で少女を抱きとめた。小鳥の呼吸はか細く、それでいて酷く荒い。冷えきった身体が細かく震えている。辛うじて意識はあるようで、蒼が背中を撫でてやりながら低い声で「大丈夫、ゆっくり息をしろ」と囁くと、必死に従おうとした。

 小鳥が落ち着くまで、しばらく時間が必要だった。夕暮れの潮風が冷たさを増してゆくのを気にしながら、蒼はじっと少女を支えていた。そうしてその間、彼女の痛々しさと儚さをとり除いてやるのに自分は何ができるのだろうと、考えていた。

「…ごめんなさい。もう大丈夫だから」

「いいよ、もう少し寄りかかってろ。急に身体を起こすと脳貧血になるかもしれない」

「慣れてるのね…この前も、すごく落ち着いて助けてくれたよね」

「俺の両親は、考古学者なんだ。外国のすげぇ日差しの下で何時間も発掘することが多くてさ、熱中症だの貧血だの、持病みたいなもんなんだよ。それだけのこと。誰だって不得意分野はあるんだから、助け合えばいいだけの話だろ」

 軽い口調で蒼が言うと、小鳥は微かに笑った。

「…ね、もう一つお願いしてもいい。蒼くんの歌が、聴きたいの」

「お安い御用」

 芝居めかして答え、蒼は静かに歌いだした。

「東の果てより西のへり

 類い稀なるロザリンド

 その名は高く風に乗り

 あめしたしる ロザリンド

 いかに妙なる絵姿も

 光失う ロザリンド

 他のかんばせは忘るとも

 ただに偲ばん ロザリンド」

 小鳥は目を閉じ、聴きいっていた。柔らかく甘く、清水が一滴ずつ砂地にしみこむように、蒼の歌が心を静める。

(前にも歌ってもらったわ。確か、騎士オーランドーが、一度だけであったロザリンドを恋い慕う、独り言のような詩…この後ロザリンドは、この詩をばかにして、怒るのよね。こんな詩をあちこちに貼りだされて迷惑だって。そのくせ、本当は自分もオーランドーのことが大好きで…本当に、ずるい…)

 ずるいのは自分だ。

 薙をまだ想い続け、夜ごとカーテンを開けて空に目を凝らさずにいられない。それなのに、おまじないのガラス球を肌身離さず持ち歩き、歌をねだる。ずるいのはこの自分なのだと、小鳥は苦く思う。

「何がずるいって?」

 蒼が歌うのをやめ、驚いた顔で小鳥を見た。声に出てしまっていたらしい。

「何でもない。今日はありがとう…私、もう帰らなきゃ」

「送っていくよ」

 有無を言わせぬ口調で言い、パレットと絵の具を拾いだした蒼に、少し遅れて小鳥も続いた。




 薄青い闇の降りた坂道を、橙色の街灯がぽつりぽつりと照らしている。冷たい秋の風が吹き抜けると木々がざわめき、小鳥にあの秘密のあずまやを思い出させた。

(そういえば、最近行ってないな…本格的に寒くなる前にもう一度行って、最後の花たちを描いておかなきゃ)

 小鳥は頭の中に、その情景を思い描く。そうして空想の中でスケッチをしていると、自分の居場所はあの物言わぬ花々の間にこそあるような気がしてくる。

 ぼんやりした表情で黙り込む小鳥を気遣わしげに見やり、蒼はポケットを探って二枚のチケットを取り出した。

「小鳥、これやるよ。来月の文化祭のチケット。あんたと、ソフィアの分。暇だったら来れば」

「私に?…どうして?」

「台詞の練習に散々付き合わせただろう。そのお礼だと思ってくれればいいよ」

 差し出されたチケットを受け取らず、小鳥は心底不思議そうに首を傾げて、あんなに下手な棒読みだったのに?と呟いている。蒼は大きくため息をついた。

(やっぱり伝わらないか。本当にこいつは、融通がきかないったら)

 パン屋の明かりが遠くに見えてきた。心なしか香ばしい温かな香りも漂ってくる。急に足をとめた蒼を、小鳥が不思議そうに見ている。

「小鳥、俺の舞台を観に来て。俺のロザリンド姫を、ちゃんとあんたに見届けてほしい」

 ゆっくりと、一言ひと言に力を込めて、蒼は言った。暗がりでも強く光るその目から、小鳥は目を逸らせなくなる。息が苦しくなり、頷くのがやっとだった。

 蒼はほっとして笑みを浮かべた。小鳥がためらいながらもチケット受け取ったのをしっかり確認し、再び軽やかに歩き出す。

(どうしてだろう。ロザリンドを恋い慕うあの歌をうたう時、小鳥の顔が思い出されるのは。こいつの前で、全身全霊で演じきった時、こんなにもこいつに構わずにいられない気持ちに、答えがでるかもしれない)

ぱたぱたとついてくる、羽のように軽い足音を聞きながら、蒼は目に力を込めて前を見据えていた。


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