*21* 夏休みのご予定は?
本日は“七月二十九日”。
窓の外を照らし出す太陽はサンサンどころかいっそギラギラと表したら良いような気候だ。そんな中でもシンと冷え込むような緊張感に漲る教室内にて、ついに裁きの時は来た。
名を呼ばれて受け取りに行った紙を自分の席に戻り、神妙な面持ちでそっと開く。そこに輝くB+の文字と欠点ギリギリ回避の数字に、思わず拳を握りしめる。
「あ、赤点……ゼロ……!」
そして返ってきた最後の一枚に天を仰いで机に突っ伏したのは、この微妙に落ち零れたCクラスにおいて私だけではなかった。むしろ今だけは身分の垣根などなく、完璧な一体感を感じることすら出来る。
それでもやはり何名かうなだれているクラスメイトもいるので、喜び方は程々を心がけた。下手にやっかまれるのは面倒だからね。普段なら仲の良い子同士でもこの時ばかりは敵になりかねないからなぁ。
――とはいえ、終業の鐘の音でバラバラと席を立つ生徒達の中でにやけてしまうのは許して欲しい。これで明日からの夏期休暇が去年と違って完璧に自由の身だと思うと、正直嬉しくて仕方がないのだ。
ラシードに『自覚が出来たなら楽しまないと損よ』とそそのかされて、開き直りの境地に達したというのもあるけれど、一番はやっぱり“私が”そうしてみたかったからだ。
二十二日は結局この間プレゼントはもらったから、四人で遊びに行きたいという推しメンの要望を叶えるために街へ出かけて、門限に遅れるくらい遊んだ。そのせいで、テスト期間中だというのに反省文五枚というペナルティーも食らったけれど、とても楽しかった。
直前にラシードが言ったように難しいことを考えず、転生して友人の【
だけどあの日ラシードが投下した爆弾発言……“アンタのアイコン変わったわよ”については、その後新しい情報が全く提供されていないので、かなり宙ぶらりんな状態だ。もしかしたら、いつまでも煮え切らない私にラシードが発破をかけるために吐いた嘘かもしれない。
しかしその真偽も定かでない言葉に少し心が軽くなったのも、またどうしようもない事実だった。
別にまだ推しメンを幸せにすることを諦めたり、ここで投げ出したりするわけじゃない。だけど一旦私もこの世界のキャラクターになってみても良いのではないかというちょっとした欲求は、知らない間に鬱屈していた私の心を少し上向かせた。
ストレスを溜め込んだままではいずれ駄目になる。私も広域で言えば、一応この学園のプレイヤーだ。確かにここ最近は遊びが少なかった気もしているので、ここら辺で一度パーッと遊んでみようかと思わないでもない。
うん、別にゲームを放棄するわけじゃないんだよ?
ただほんの少しプレイヤーとして自分の欲求に生きるだけで。いつまでもグラグラと揺れるくらいなら、いっそ青春時代らしく頃合いを見計らって告白して、完膚なきまでに爆死しようかと。
確かにラシードの言うように、拗らせたまま上手く終わらせられない恋愛なんて、将来的に毒にしかならないからね。中途半端に恋したままだと結婚するお相手にも悪い。
そうしてそれが叶った暁には、私は自分に胸を張って言ってやるのだ。私は乙女ゲームの【
大体色々と並べ立ててみたところで、私は“婿養子”を探さないといけないのだ。だけど推しメンは領地持ちで家格も上。オマケに長男で一人っ子。この時点で“婿養子”という言葉にまるきり条件が当てはまらないのだ。そもそも相手の了承もなく当てはめようとするなという話ではあるけどね?
けれど考えてみれば、これは得難い幸運でもある。二次元に対して拗らせたこの不毛な感情を、同じ側として存在出来る上にヒロインちゃんを操作してではなく、
視点を少し変えるだけで世界はガラリと違って見える。
赤点のない夏期休暇が来年もあるかは定かでない。ともなれば今の私に出来ることは覚悟を決める前に前進あるのみ。
「赤点がないのは幸先が良い証拠、赤点がないのは幸先が良い証拠、赤点がないのは幸先が良い証拠……っ!」
人の少なくなった教室で最早呪詛のようにそう呟きながら、両頬を叩いて気合いを入れる。バクバク音を立てている心臓の上でギュウッと拳を握りしめて深呼吸。大丈夫だ、十代の夏休みに同級生に声をかけることは何らおかしなことじゃない。
前世では無縁の体験だったけれど、今世では私だってなかなかリアルが充実している。同級生の友人を遊びに誘うことくらい何ということはない……はずだよね?
誰に言い訳をしているんだと苦笑しつつ、私はAクラスの推しメンを捕まえに行こうと教室の入口に視線をやって、思わずバツの悪さから「……いつからいたの」とやや低い声音で訊ねた。
すると推しメンは「赤点がなかったんだろうな、というあたりからだが」と悪びれずに答えてくれたけど、それって要はほぼ最初から一部始終見てたってことだよなぁ? その間の自分がどんな顔してたか分からないけど、たぶんかなりな百面相を披露していたことだろう。
「もー……そんなに最初の頃から見てたなら、もっと早く声をかけてくれたら良いのに。趣味が悪いなぁ」
「人聞きの悪いことを言うな。そっちがこちらに気付かないで、いつまでも百面相をしているからだろう。周囲を見てみろ。クラスメイトは全員帰ったぞ?」
そう言いながら教室内に入ってきた推しメンは、私の前の席に座ってこちらを覗き込むように身体を傾げた。
確かに周囲を見回してみれば、教室内にはもう誰も残っていない。今この教室内に残っているのは、私と向かい合っている推しメンだけだ。おお、何だかこうしていると――。
「本当にクラスメイトみたいだよねぇ」
「それだとこの体勢ならプリントの受け渡しか?」
「そうそう。もしくは授業中によそ見してた私に答え教えてくれる図」
「ハッ、何だそれは。俺が前にいると授業中によそ見をすること前提なのか? 席替えが出来なくなりそうだな」
ほんの少し顎を上げて笑う癖のある推しメンの苦笑を、真正面から眺められる幸せを噛みしめながら、脳内のスチルボックスに片付ける。しかしまさか前に座ってくれていないと、もっとよそ見をするとは言えまい。教室内で席が離れたらそっちばかり気にする自信がある。
授業を真剣に受ける推しメンの横顔だとか、お昼休み後の眠たそうな顔で授業を受ける姿だとか、想像するだけでも楽しい。ここまで拗らせると自分でもだいぶ気持ち悪い奴だと――……んん?
いつの間にか目の前に座る推しメンの手に、見覚えのある紙を見てはたと自分の手許に視線を落とす。
「ちょっとお待ちよ、スティルマン君。それってもしかしなくても私のテストだよね? 油断も隙もないなぁ、おい」
はっきり言って見られたくない度合いで言えば、自室の“推しメン祭壇”くらいだ。そのテストを、当の推しメンに気を取られているうちに抜き取られるとはお馬鹿すぎる。
しかし取り返そうとテストの端を持って引っ張るけれど、離してくれる気配が全くない。推しメンの視線は無慈悲にも、小さな見落としで減点されたテストの上を滑る。
その表情がやや苦々しげに曇るのもある意味魅力的だ。出来れば私のではなく、赤の他人のテスト用紙で引き出したかった。
「思っていたよりはマシだが、それでも意外と酷い点数だな。これは夏期休暇中に出かけるのは厳しいか……」
ポツリと零れたその言葉に「あれ、ラシード達ともう会ったの?」と訊ねれば、推しメンは「いや、まだだ」とテスト用紙から顔を上げずに呟く。神経質に寄せられた眉根の皺に、人差し指を押しつけると「止めろ」と手を払いながらようやくこちらを見た。
「来年はルシアと同じクラスになれるかと思ったが、今の時点でこの点数だと難しそうだな」
その発言に瞬間的にスッと私達を取り巻く周囲の気温が二度ほど下がった気がする。そして思う。
推しメンの紙一重か暑気あたりを心配してしまうアレな発言に、一瞬目を丸くしてしまったぞ。何を言ってるんだこの人は。
「ははぁ、スティルマン君ってばさてはテスト明けで頭が疲れてるね? 今年Cクラスの私が来年行けるとしたら、どう頑張ってもBクラス止まりだよ。何でAクラスに行けると思ったんだ」
BクラスとCクラスの溝はそこまで広くなく、ドングリの背比べというか、その年度にクラス替えをする教職員の好みで振り分けられているという噂まである。
要するに学力と運が半分ずつくらいの問題なのだが、これがBクラスからAクラスになると、そこには歴然とした学力の差が出来るため、この広くて深い運河を越えることはかなり難しい。
だから今の推しメンの発言は、それらを踏まえた上でのものであるとは到底思えなかった。イカレた……もとい、イカした発言だ。
「スティルマン君はしっかりものだから注意するまでもないとは思うけど、夏場なんだしさ、水分と塩分はちゃんと摂りなよ? テストも終わったことだし、明日の帰還に備えて今晩は早めに寝ないと」
寝言かと思う発言をしたことに呆れる反面、傷つきやすいガラスのハートを抱えている青年にあまり否定的な言葉は使えないから、それとなく“寝ぼけるな?”と諭してあげる。
だがそれが癇に障ったのか、推しメンは「これでも頭はルシアより働いている」と余計な一言を発して、人の心配してあげようという優しさの芽を摘むところが小憎らしい。
そしてこっちの気分を逆撫でしておきながら、黙り込んで何事か考え出す推しメン。そういうところだぞ? そういうところが後々人との軋轢を生むんだからな?
放置されたままの私が、机を挟んで推しとはいえども流石にピリッとした気分になり始めた頃、急に推しメンが「決めたぞ」と再び口を開いた。頭の良い人ほど会話の主語を抜くのは何でだろうね。
「黙り込んだと思ったら急に“決めたぞ”って、何だか穏やかでないね?」
けれどまあ、推しメンのことだからそこまでおかしな発想にはならないだろう。そう思ったから苦笑しながらその先を促したんだけど……。
「今年の夏期休暇は俺も二週間ほどこちらに滞在する。その間にルシアの学力を底上げして、来年のクラス替えに挑もう」
おいおい、嘘でしょう? 止めるべき案件だったわ、これ。もしや紙一重発言の直後だから頭が切り換えられてないのか?
「え、いや、だから私は別にAクラスになりたいわけではですね――」
慌てて軌道修正をはかろうと口を挟んだら目の前にスッと掌が翳されて、会話の流れを分断された。この会話を続けることに関して拒否権はないということか。
「ああ、俺がなりたいんだ。来年にはラシード達も卒業してしまう。この上ルシアとまでクラスが離れたままだと、授業の編成で一緒にいられる時間が激減するだろう? そうなると面白くない。それに心配するな。いざルシアの学力向上が間に合わないとなれば、俺がBクラスに落ちれば良い」
「いやいや、良くないでしょ。せっかくAクラスに上がったのに、わざと降格するとか正気の沙汰じゃないし! いきなり馬鹿になったの? それに領地に帰らなかったら――」
うっかり続けそうになった“ご家族も心配する”という言葉を、すんでのところで飲み込んだ。家族だから仲が良いなんていうのは幻想だ。以前の自分なら烈火の如く反発しそうな言葉を、他者に向けそうになったお気楽さに一瞬言い淀む。
困惑しながらも口を噤んだ私に推しメンは楽しげに笑うだけで、イカレた発言内容を翻すことはなく、その足でさっさと職員室に向かって二週間寮に滞在する手続きを取ってしまった。
全部の手続きを終えて「今日から三日は夏期休暇として過ごそう」と笑ってくれる姿に“明日の一日だけでも二人で出かけたい”と伝えられなかった自分のヘタレ具合を思う。
……まあ良いや。こうなってしまっては、これもある種のイベントとして楽しむことにしよう。予定外のシナリオに腹をくくった私は、ラシード達の待つカフェ・テリアへと向かう推しメンの背中を追いかけた。
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