★40★ 昼と夕とのあわいにて。
学園でいうところの長期休暇とは、いつの頃からか俺にとって昼夜の判別も付かない長期労働の期間になって久しい。今回もその例に漏れず、本来であれば屋敷の主しか入ることの許されない政務室に、まだ家長にもなっていない俺が座っているのがその現れだった。
机の上にはうっすらと埃の積もった陳情書や借用書の束が雪崩をおこしかけており、俺が夏期休暇で学園に戻ってからは誰も手を付けていなかったことが容易に伺える。
苛立ち紛れにそれらを燃やしてやりたい気分になりながらも、数日前に懲りずに届けられたやや厚みのある封筒に視線が吸い寄せられた途端、フッと肩から力が抜けた。その封筒の中身は馬鹿な現・当主が作った借金の返済を迫る物でもなければ、子供を認知しろといった内容の手紙が入っているわけでもない。
ただ、純粋に日々の生活のささやかな喜びや発見を綴っただけの、暢気な手紙が入っているだけだ。ご丁寧に連名の差出人から送られてくる手紙はいつも、ちょっとした短編小説か日記のような長さで。
そしてそんな読む方の時間と忍耐力を奪う手紙の一番最後には、必ず。
“この休暇が終わったら、次はスティルマン君も一緒に皆で行こうね。絶対損はさせないから楽しみにしててよ!”
と、そんな馬鹿のようにはしゃいだ文面で締めくくられている。しかし今の俺のスケジュールでは、この手紙内に書かれていた場所を全て回ろうとすれば毎日出かけても二年はかかるだろう。
ただでさえ、この手紙に対する返信も――……上手く纏められずに放置したままになっている。途中からは諦めてしまったからか、それとも考えなしに新たに届く書類を積み上げたからか、数枚だけ綴ってそのままだった便せんはとうにどこかへと失せた。
夢物語を語る友人に呆れつつ再び視線を書類で溢れる机に戻せば、ほんの僅かだが溜飲が下がるような気がするのだから不思議なものだ。ぼんやりと手許の書類の山と、時計と、手紙と、天体望遠水晶を順番に見やる。
最後に視界に入った暦は、偶然にも一月十一日とぞろ目だ。
屋敷に戻ってからの二週間と四日というもの、用を足すことと身を清める以外の衣食住を、ほぼ全てこの部屋で済ませて過ごしていた。
まるで屋敷の中のこの執務室以外には、俺の存在など必要ないかのように感じる。そして事実そうなのだろう。
机の上から視線をゆっくりと室内へ向ければ、ソファの上には肌触りと温かさは申し分のない毛布があり、きちんと洗濯されノリをきかされた着替え一式が、執務室の入口付近にあるサイドテーブルに載せられている。
執務をこなす机の上には使用人を呼び出す為のベルがあり、一度鳴らせば直ちに用聞きに執事が姿を表してくれる為、自分で何かを取りに部屋を出ることもない。そんな自らを行儀の良い篭の鳥だと思うこともあるが、それで困ったことなど何もなかった。
煩わしい人付き合いも、一目見れば殺意を感じるあの男と対面する機会もないこの政務室は、ある意味では最高の居場所だとも言える。
けれど今日は執務室の窓から見える空は寒々しい色をしているものの、まだ明るく。書類整理で疲れた瞳を癒すにはちょうど良いように感じた。
だからというわけではないが、不意に友人の一人が口にしたことのある台詞を思い出して、天体望遠水晶に右手を伸ばす。そしてもう一方の左手で机の上のベルを取り上げた俺は、少しの躊躇いの後、それを鳴らした。
いつものこの時間であれば、溜まっていた書類の出来上がり分を領内の郵便所に持って行くように頼み、仕事の消化をはかるのだが――今日は少し勝手が違う。
僅かな間をおいてノックされたドアに「入れ」と声をかければ、常のように恭しく入室してきた執事を前に、恐らくここで執務をこなすようになってから初めての指示を出した。
「今から一時間ほど星詠みに出かける。戻ればまた仕事に取りかかるが、その間に来客や面倒事が起こった際には、手間だと思うが屋敷の裏手にある無駄に大きなモミの木の下まで呼びに来てくれ。話は以上だ」
しかし今まで取ったこともないような執務中の休憩と急な行動は、執務に忠実な彼を驚かせたらしく「まだ、外は明るいですが……」と困惑気味な言葉を引き出してしまった。ついに俺の気が触れたのだと思ったのだろう。
通常星詠みはその名の通り“星”を主軸において話を進めるものだ。以前の俺ならば、間違いなく今の彼と同じ反応を示したに違いない。“星は夜の眷族であり、昼に瞬くことはない”と。けれどもう、そうではないことを知っている。
「――……学園にいる友人が、以前夕方に星詠みをして的中させたことがあってな。あれ以来、まだ明るい空にも星があるのではないかと思っている」
掌に握り込んだ冷たく滑らかな天体望遠水晶の表面を、親指の腹でゆるりと撫でる。そしてふと、親の手などほとんど借りていないのに、自分を形成する物の中に含まれた親指という名称も皮肉なものだと嗤ってしまった。
「流石にここ最近の書類整理の多さには飽いた。それに当家に伝わるこの忌まわしい星詠みの能力も……たまには使ってやらねばな」
自分でも珍しく饒舌であると感じながら、クルリと水晶を弄ぶ。そんな俺の姿を見た彼は「畏まりました、クラウス様」と微かに微笑んだ。幼い頃から見てきたはずのその笑みが、知らぬ間に随分と草臥れたように思える。
「――“わたし”が至らないばかりにあの男に好き勝手をさせている。そのせいで屋敷の者や領民達に苦労をかけてすまない」
久しくかけてこなかった労いの言葉に自分で自分に嫌気がさした。こんな簡単なことをする余裕さえも、ただの甘えだと感じて切り捨てて来たのか。そう気付いた途端にさっきまでの靄の晴れたような状態から、胸の中に溜め込んだ澱がどす黒い塊のように固化する気がした。
気分が沈む。息苦しい。そう身体が不調を訴えかけて来ようとする視界の端に、あの分厚い連名の封筒が映り込む。
『あと数十年……いや、スティルマン君は神経質だから、下手したら十年以内に今の私の額より確実に広くなるぞぉ? 何なら今からその時の予行演習として一回デコピンさせろ』
『眉間の皺が酷くなると老けて見えるわよ』
――その瞬間、いつかのそんな友人二人の声が脳裏に蘇り、思わず額と眉間に手をやって苦笑してしまう。どちらもその内容は総じて愉快なものではないはずだったが、連日ここに閉じこもっていれば成程、あの時の言葉たちにも頷ける。
「……そろそろ出かける。玄関までの見送りはいらないから“わたし”がいない間くらいは休んでいてくれ」
あの古びた温室の中で手に入れたのは、柔らかい言葉と、気負いすぎない匙加減だろうか。程良く肩の力が抜けた俺の変化に気付いたのか「お心遣い痛み入ります。外套を用意しますので今しばらくお待ち下さい」と穏やかな微笑みを残して一度退室した。
その後再び外套を持って現れた執事からは「今日も冷えますから、あまり暗くならぬうちにお戻り下さい」とだけ忠告を受け、共に退出した執務室の前で別れた。
一足屋敷から出た外はこの季節ならではの寒さで、執務室にある暖炉の暖かな火の色が恋しくなりかけたが、代わりにべと付くように身体に纏わりついていた眠気からは解放された。
「これからは屋敷でも少しくらい休憩を挟んでみるか……」
古びた温室の中でマグカップに並々と熱いコーヒーを淹れて、ルシアとラシードに勧められるまま甘い焼き菓子を少しだけ口にする、あの時間は酷く無駄なように感じていたが、あれがないと身体が悲鳴を上げる。
歩きながら空に翳した天体望遠水晶は、青白くて早い冬の夕空を切り取って白く輝きを増した。流石にあの
――クルリと翻る冬寒の空の下。
深い夜の始まりを掬い取った藍色の水晶の中を、傷だらけの星が一筋流れたような、そんな気がした。
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