第49話 想像力の大切さ



 アヤに静止の声を掛けたシンディーは、すぐに彼女の隣へとしゃがみ込んだ。

 そしてアヤが今置いた雑巾を少しだけずらして、そこを指差す。


「この雑巾でこのまま床を拭いてしまうと、このように床が水浸しになってしまいますよ」


 彼女の言葉を受けて、子供達はつい先程まで雑巾を置かれていた床を見た。

 するとそこには確かに、小さな水滴が沢山残っている。


「でもこのくらいなら、すぐに乾くのでは?」と言わんばかりに、アヤは首を傾げた。

 しかしシンディーはゆっくりと首を横に振る。


「実はこういうツルツルしたタイプの廊下だと特になんですが、水滴があると途端に滑り易くなるのです。それでも目の前にあるのが大きな水たまりであれば、良く見えるので皆すすんで避けてくれます。しかしこれだけ小さな水滴だと、おそらく普通に通りかかったくらいでは気が付かないでしょう」


 話し始めたシンディーに、順番に自分の雑巾を絞っていた面々が動きを止めて視線を向け始める。


 シンディーはそんな彼らから『学ぼうとする姿勢』を感じ取って、少し嬉しくなった。

 だからなるべくみんなに分かり易いようにと、例え話を持ち出す事にする。


「皆さん、想像してみてください」


少し奇妙な話の導入に、きっと中には「一体何の話が始まるのだろう?」と思った者も居ただろう。

しかし皆一様に、彼女の言葉に従って想像を巡らせ始める。


「例えばセシリアお嬢様がこの廊下を通りかかったとします」


皆がその姿を想像する中、セシリア1人だけが思わずキョトンとした。


何故私が話の引き合いに出されたのか。

そんな疑問の中、しかし後れを取ってはならないとセシリア本人も、慌ててその情景の想像に入る。


 すると皆が想像に集中した頃を見計らって、シンディーがこんな話をし始めた。


「セシリアお嬢様が通りかかったその廊下は、先程私が掃除した所です。その床は全面を余すことなく雑巾で拭かれています。ただし使われた雑巾は、先程の様に拭いた後に小さな水滴が無数に残っている状態です。今正に拭いたところですから、まだ乾いていません」


此処まで想像させると、彼女は語り口を少し変えた。

まず、声をワントーン落とす。


「――すると、どうなるか」


少し言葉の速さを緩め、ゆっくりと皆の想像力の中に浸透させる様に、言葉を続ける。


「そうでなくとも普段から何かと転びやすいセシリアお嬢様です。そんなお嬢様が普段よりも滑りやすくなっている廊下を通りかかったら」

「……100%転ぶな」

「……私は見事にツルッと転んで頭を強打し、冗談でも笑えない事態に至るまでの一連が想像出来ちゃったわ」


 ゼルゼンの呆れ交じりの言葉に、メリアが少し顔を青ざめながら言葉を続けた。


 メリアの言う通り、もしも勢いよく滑って頭を強打する様なことがあればそれは結構な大事である。

 そしてセシリアの運動神経の残念さを既に目の当たりにしている一行は、その可能性を否定できない。



 思わずメリアと似た様な情景を思い浮かべてしまったのか、普段ならここで大爆笑を決め込むグリムでさえ今は無言だ。



そんな彼らのとても失礼な想像に、いつものセシリアなら「100%って何?!」とか「そんなにいつも転ぶわけじゃないもんっ!」などという反論をしただろう。

しかし今回ばかりは反論しなかった。

否、出来なかった。


何を隠そうセシリア本人も、それと同じ様な想像しかできないのだ。

反論しようも無い。



 そんなこんなで最悪の事態を想像してしまった一行は、急にドヨンとなってしまった。

しかしその空気を作った張本人が、その空気をぶち破る。


「と、このように掃除一つを取っても、想像力と周りへの配慮が大切になります。皆さんもその事を心に止めて、作業をしましょう」


 シンディーは声のトーンを元に戻すと「そういう訳で今日は皆さんの雑巾は私が絞りますね」と言い、みんなの雑巾を受け取った。

 そして手早くしかししっかりと雑巾を絞り、それぞれ皆に渡していく。



 絞り終わった雑巾が全員の手に渡り、床を拭き始めた頃。

アヤがポロリと言葉を零した。


「それにしても、雑巾絞りって意外と難しいんですね」


「力いっぱい絞ったつもりだったんだけど」呟く様に言った彼女の声に、シンディーが「まさにその通りです」と言葉を続ける。


「うちで見習いになった子が一番最初に覚える事は、雑巾の絞り方なんですよ」


 どんな掃除をする上でも必要なスキルですからね。

 と、シンディーは笑う。

 

 彼女曰く、最初の内は先輩に付いて回るので、先輩から合格が出るまでの間は雑巾を絞る度に先輩にその成果を確認してもらうというやり取りが毎回発生するらしい。

 そんな事を話しながら子供達は先程シンディーに教えてもらった通り、雑巾で廊下を隙間なく拭いていく。



 と、その時。

 不意にこんな声が一行の方へとかけられた。


「あれ、セシリー。こんな所でどうし――あぁ、そうか。『おしごと』ツアー中なんだね」


 セシリア達の居る場所から見て、左前方。

先程まで閉まっていた扉が、1つ開いている。


 その扉の前に居るのは、ツアー参加者達よりも2、3年上に見える男の子だ。


「キリルお兄さまっ!!」


 予想外のキリルの登場に、セシリアは叫び声と共に勢い良く立ち上がった。

そして突然、兄に向って両手を広げてテッテッテッテッと、突進していく。

 そんな妹を、キリルは少し驚きながらもしっかりと受け止めてやった。


「時間的にも、此処で最後かな?」


お腹の辺に収まった彼女のつむじにそう話し掛けると、抱き着いた体勢はそのままに顔だけが彼を見上げて答える。


「そうなの!あと10分くらいで今日のツアーは完遂なの!」

「そう、お疲れさま」


 嬉しそうに報告してきたセシリアの頭をナデナデしてあげながら、キリルは少し考える素振りを見せた。

そして、自身の後ろを振り返る。


「ロマナ?」

「この後16時半までは、何もご予定はありません」


 主人の呼びかけに、彼の後ろに控えていたロマナはそう即答してみせた。

たった一言で主人の欲しかった答えを見極め、適切な言葉を返してみせた彼の言葉は、執事として完璧に近いと言えよう。


 しかしその癖、彼の顔には明らかな呆れが浮かんでいる。

 それはこれから彼が言いそうな事に対する一種のけん制として、敢えてそうしているのか。

それとも執事の皮が思わず剥がれてしまうくらいに呆れたからなのか。

いまいち計りかねる。

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