第19話 旦那様と奥様の話合い、その結末
それは壁いっぱいに設置された本棚だった。
本来は本が所狭しと敷き詰められていた場所だと記憶していたのだが、今は少し様子が違っている様に見える。
本棚の一角。
そこが何故かポッカリと空いているのだ。
「どうやらセシリアに、『どうして使う頻度の高い書類が資料室にあり、使う頻度の少ない書物がこの部屋にあるのか』というような事を聞かれたらしい」
ワルターは先程夕食時にあった通例の報告で聞いた内容を、思い出すようにそう言った。
そして、苦笑交じりで言葉を続ける。
「私が子供の頃からこの部屋はこんな感じだったから、私も『此処はこれが当たり前なのだ』と今まで信じて疑った事が無かった。だが言われてみれば 『身近の収納をまるで物置の様にし代わりに必要な書類をわざわざ別室に取りに行く』というのも変な話だ。だから今日から少しずつ、資料室の書類とそこの本棚の物を交換していく事にした」
そう言うと、ワルターは含み笑いを浮かべた。
少し揶揄う様な色を瞳に宿して、クレアリンゼを見る。
「お前の教育が子供に根付いている証拠だな。これを『効率的』な配置転換と言わずして何と言うか」
「ふふふっ、そうですね」
そう言った彼の表情は、まるでかくれんぼに参加していた面々を見つけた鬼のソレの様だった。
「見つけてやったぞ」と言わんばかりの少し得意げな彼の表情に自分の教育の成果と子供の成長に気が付いて、クレアリンゼも嬉しそうに笑い返す。
そして「それなら提案し易い」と言わんばかりに、クレアリンゼはこう切り出した。
「そんな今日一日で『おべんきょう』の成果を出したセシリアから提案があったのです。『定期的にお父様のお部屋にお邪魔したい』。それがあの子のお願いです」
そこまで言うと、クレアリンゼは1度ティーカップに口をつけた。
そうしてゆっくりと一口、紅茶を飲んでから机上のソーサーにカップを置く。
すると丁度空になったそれにメイドがおかわりを注ぐ。
その音が鳴りやんだ所でこう続けた。
「私はセシリアだけではなく、キリルとマリーシアも含めた3人に、一週間に一度程度の頻度で貴方と同じ部屋で机を並べて過ごす時間を取ってあげてはどうかと思うのだけど、貴方はどう思いますか?」
(あぁ、これはもうだめだな。反論の余地が無い。だってあんなに楽しそうだ)
結局思い立ったら譲らないのが彼女である。
「これはきっと拒否権は無いだろうな」と予感せずにはいられない。
「いい案だと思いませんか?」
ニコリと笑ってそう言ったクレアリンゼに、苦笑を隠さずにはいられない。
「楽しそうだな、お前は」
「あら、私だって『ただ楽しそうだから』という理由だけで提案するのではないのですよ」
クレアリンゼが「そんな風に思われるなんて心外だ」と、少し頬を膨らませて抗議してくる。
そして空気を切り替える為にコホンッと一つ咳払いをしてから、彼女は話し始めた。
「まず子供達にとって、今の貴方は『仕事にいつも忙しい父』という認識の方が『領主である父』の認識よりも強いのです。でも領主である貴方の仕事をする姿を見れば、少なからず後者の貴方を感じてもらう事が出来るでしょう。貴方が何を日々頑張っているのか。それを子供達に分かってもらう事は、貴方のことを知ってもらう事ができるのと同時に、領地経営の何たるかを知ってもらうきっかけにもなります」
クレアリンゼが真面目な瞳で見据えてくる。
それだけでも、彼女が本当に『これは真剣に吟味するに値する』と思っている事が分かる。
「貴族にとって切っては離せないのが領地経営だ。『自分がするにしろ、旦那がするにしろ、将来自分たちが何らかの形で関わっていく仕事なのだから、少しでも早くからその仕事に触れ合っておくほうが良い』というわけか」
思案顔でそこまで言うと、ワルターはしかし、と今度は少し困った様な表情を浮かべた。
「私には、具体的な業務の引き継ぎなら未だしも、概念的な部分での領主教育はあまり自信が無いぞ」
概念的な部分の教育は、お前の方が得意だろう。
お願いだから私に向かない役割を振ってくれるな。
言外にそう言って見せると、クレアリンゼが安心させる様に微笑む。
「きっかけさえあれば、こちらから促すまでも無くあの子達は自分達で必要な知識を学び、分からなければ調べるでしょう。もしも子供から尋ねられたらその時は、その疑問に答えてあげる。貴方がするのはそれだけです」
貴方が元々誰かに何かを教えるのは苦手なのは知っていますよ。
そう苦笑交じりに言葉を続けると、クレアリンゼはテーブルを挟んでワルターと顔の距離を詰め、人差し指を立てて見せる。
「貴方にお願いするのは、ただ同じ部屋で時間を共有する事だけです。貴方やマルクに特別な事をしてもらうつもりはありません。寧ろ、いつも通りお仕事をなさってください。子供達には家庭教師に出された宿題など、教えてもらわなくても出来る机上のお勉強を持ち寄らせる事にします」
その声に、ワルターは腕を組んで少し考える様子を見せた後で口を開く。
「……でもそれで、あの子達はきちんと自分の勉強が出来るだろうか。子供達が集まると気が散ったり、勉強よりも遊びたくなったり、そうはならなかったとしても、退屈になったりするのではないか?」
たった一つ上がった懸念事項は、子供達の集中力とやる気の問題だった。
彼らは一番大きくても10歳、小さいのはまだ4歳である。
周りに人が居るといういつもよりも気の散りやすい環境で、果たして3人はきちんと大人の思惑通りに動けるのか。
(あまり子供達に過剰な期待をしてしまっては、期待を寄せられる方はプレッシャーになるだろう。適度なら良いが過剰な期待は子供達にも悪影響だ)
有益な提案をしてくれた事が、そして出来る様になるまで成長してくれた事が嬉しくて彼女の思考が少し暴走的になってしまっている事は分かっている。
だからこそ期待のバランスを取る為には、彼のこの発言が必要だった。
そしてそんなワルターの心を察せないクレアリンゼでは無い。
(……どうやら少しテンションが上がり過ぎてしまったらしいわ)
すぐにそう反省し、今度は過剰な期待に基づく思考では無くもっと地に足の着いた期待に基づく思考をしなければと、考え始める。
「そうですね……例えば『周りに遊ぶものが無い様に』や『雑談を振らないように』など、周りがきちんと勉強する雰囲気を作ってあげてさえいれば、大した問題は無いと思いますよ。それに退屈については、少なくともセシリアは問題なさそうです」
そこまで言うと、クレアリンゼはフフフッと思い出し笑いをして見せる。
「今日も何も暇潰しするものも用意せず、誰も構っていなかったにも関わらず、あんなにも楽しそうにしていましたし。キリルとマリーシアの2人も元々集中力はありますし、末妹が遊びに走らない限りは上の子の矜持がありますから、自分達だけ気を散らせて遊ぶということは無いでしょう」
キリルとマリーシアのセシリアに対するお兄様、お姉様面は顕著である。
いつもその様子を微笑まし気に見つめているクレアリンゼが言うのだから、2人が自分から脱線の口火を切るという事はほぼ間違いなく無いだろう。
「それにうまく行きそうになければ、その時また対策を考えれば良いだけの話です」
クレアリンゼの最後の一押しに、ワルターは唸った。
確かにそうである。
「つまり、最初に執務室に3人の机と椅子を用意すれば、定期的に子供達を部屋に入れるだけで、ノーコストで教育が出来る、という事か?」
「ついでに今の貴方に最も足りていない『子供の癒し』も簡単に得ることが出来るというわけです」
「どうです?子供達の為にはなるし、貴方も嬉しい。良い事尽くめでしょう?」とドヤ顔をする妻に、ワルターは確かにと苦笑する。
「それに今日一日、たった数時間一緒に居ただけで、少なくとも執務室には新しい風が吹いたのでしょう?もしかしたら大人にも子供から学べることがあるかもしれません」
それはワルター自身も感じていた事だった。
此処まで来るともう、異論の余地は残っていない。
そもそも反対の立場では無かったのだ。
計画の内容と成功の目途が立っているのなら、ワルターからは特に口を出す事は無い。
「――分かった、やってみよう」
ティーカップの紅茶を一気飲みした後、そう告げられた。
クレアリンゼの言に、ワルターが許可を出した形だ。
その言葉に、クレアリンゼは嬉しさから表情を明るくする。
こうしてクレアリンゼは『セシリアのお願いを叶える』という成果に加えて『旦那様が子供達と共有できる時間を確保する』という、かねてからの自身の課題を解消する為の成果を同時に得るに至った。
勝利を手にしたクレアリンゼはこの後、ホクホク顔で執務室を後にしたのを他の使用人に目撃される事になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます