第18話 旦那様と奥様の話合い

 


 午後9時頃。


 ドアをノックする音が執務室に響いた。

 室内に居たマルクとワルターは、この時間は滅多なことが無い限りは来訪者が無い事を知っている。


(何事だろうか)


 ワルターがマルクに言外に誰か来訪予定があったかを尋ねる様に視線を向けてみる。

 しかしどうやらマルクも心当たりが無い様だ。


「……入れ」


 扉の向こうへ向かって声を掛けると、それに答える様にゆっくりと扉が開く。




 扉の向こうに居たのは、妻・クレアリンゼだった。


「何かあったか」

「休憩がてら、お茶でもいかがかなと思いまして」


 心配そうな声色で尋ねれば、クレアリンゼが朗らかな表情でそう答えた。

 彼女が少し振り返る様な素振りを見せると、その後ろから茶器を用意したメイドの姿が覗く。


(話したい事があって来たが緊急性は無い、といった所か)


 彼女の言動からそう判断して、心中で密かに胸を撫で下ろす。



 今の時期、もしも彼女関係で『緊急事態』が起きたのだとしたら、それは他領での災害や内紛、または他の家族の命に関わる様な事態くらいの物である。

 そのいずれも、ワルターが望む所では無い。



 彼女の『勧め』に、ワルターは一旦仕事の手を止めることにした。


 普段仕事については決して邪魔をしない様にと心掛けている彼女である。

 こうしてこの時間に仕事場にわざわざ足を運んだという事は、緊急事態では無いにしても今日中には一度直接ワルターに話をした方が良いと彼女が判断したのだろう事は、ワルターには容易に察せられた。


(それに、クレアリンゼが珍しく私の仕事中にお茶に誘うのだ)


 愛する妻に誘われて、嬉しくない筈が無い。

 彼女の為に時間を捻出する男気くらいは持っている。




 彼女を誘導したのは、昼にセシリアが来た時に座った席だった。

 そこは丁度二人掛けのティーテーブルになっている。


 彼女の着席した正面にワルターが着席すると、紅茶の入ったティーカップがすぐに目の前に置かれた。

 湯気の立ち上るティーカップを口元に運び、喉へと下す。


 柔らかな紅茶の香りが鼻孔を擽り、程好い渋みが体に染みる。

 それはワルターの心をリラックスさせる効果を十分に発揮した。



(執務の合間に書類に目を落としたまま飲むコーヒーや紅茶とは、やはり味わいが違うな。きっと紅茶とはこうしてゆっくりと味わって飲む事にこそ、その真髄があるのだろう)


 心中でそう呟けば、口元が自然に綻ぶ。

 と、ここで不意にクレアリンゼと目が合った。


『笑われている』と感じて、片眉を上げながら問いかける。


「……何故笑う?」

「いえ、旦那様はいつもお仕事にお忙しい生活を送られているけれど、その癖本当はいつだって、紅茶を味わうゆっくりとした時間を過ごす事を好んでいらっしゃるのですよね」


 確かにその通りではある。


 反論できずに押し黙ると、からかいの雰囲気を含んだクスクス声が彼女から帰って来た。

 照れのせいで思わず眉間に皺が寄る。


 きっと取り繕った所で一層笑われるだけだと分かっているからこそ甘んじて笑われながら、不意に彼女と出会った時の記憶がよみがえる。


(――懐かしいな)


 あの日の事を今思い出したのは、きっと彼女が言った先程の言葉のせいだろう。



 ***



 彼女に初めて出会ったのは、既にワルターがこの伯爵家を継いだ後だった。



 先代以前の一族達が領地経営に全くと言って良い程興味が無かったせいで、一時期伯爵家が没落しそうになったことがある。

 原因は領地の各区を任せていた役人達の不正であり、ワルターは当主になって一番最初の仕事としてその対応を行った。


 辣腕をふるい、多くの配置換えと処罰を行う。

 そうしてどうにか領地が落ち着いた頃、付き合いでとある社交に参加した。



 彼の振るった辣腕は良い意味よりも悪い意味で社交界の興味を引いた様だった。


 本当に仲の良い者達を除いた周りからの人格的評価は『厳格で冷酷な人間』といった所だろうか。

 沢山の不躾な視線に晒されたお陰で、そうでなくともあまり好きではない社交が一層鬱陶しい物に思えた事は良く覚えている。



 そんな場だ。

 最低限の社交場での義務を果たした後、ワルターは直ぐに面倒な噂や視線から逃れる為になるべく目立たない場所を探した。

 そして、見つける。



 会場の端に、三人掛けのソファーを見つけた。

 おそらく休憩用の椅子なのだろうが、幸い今は誰もそこには座っていない。


(会場の端だし、周りの目は向きにくいか)


 そんな風に独り言ちて、そちらに吸い寄せられる。



 ソファーへと腰を下ろすと、深いため息が出た。


(思いの外疲れていたらしい)


 自身の様子に苦笑しながら、今日も会場に追従していたマルクに紅茶を淹れてもらう。



 渡されたティーカップに口を付けて、思わず安堵にも似たため息が漏れた。


 その紅茶はいつも通りの彼好みで。


「……美味しい」


 思わずそう言葉が漏れてしまったのは、先程までとの精神的な緩急の差が激しかったせいだろう。

 ついついここが社交界であることも忘れて思わず素の反応をしてしまう位には、疲れていたみたいだった。



 言葉が漏れてしまった事に無自覚だったワルターに自覚を与えたのが、クレアリンゼだった。


 クスクスという微かな笑い声に気付いたのが最初で、そちらを見遣ると楽しそうな彼女が居た。


「色々と怖いお噂を聞いていましたから、まさかそんな表情をなさる方だとは思っていませんでした」


 ワルターが緩んだ瞬間を、丁度見ていたたった1人。


「常に何かにお忙しそうにしている方だと思っていましたが、本当はゆっくりと紅茶を飲む様な時間の過ごし方を好んでいらっしゃる方なのですね」


 多くの貴族たちが居る大ホールの一角。

 人々の話し声や足音、オーケストラの演奏などでざわついている空間の中で、まるで雑踏が自ら道を開けるような凛とした声がワルターの耳朶を叩く。



 クレアリンゼ・ノスタルジア。


 ワルターよりも4歳程年下のノスタルジア子爵家の令嬢である。

 卓越した美貌と社交能力の持ち主で、彼女の噂話は交友関係のあまり広くないワルターでさえ複数聞いた事の有る位、良い意味で目を引く存在だ。


 しかしワルターにとって、彼女はあくまでも『名前は知っているが、せいぜい数回挨拶をしたことのある程度の、ほとんど他人に近い知り合い』でしかなかった。




 しかし彼女のこの接触が、これからの2人の関係性を変化させる出発点となる。


 様々な憶測という名の噂が流れる中、一瞬の表情だけで本当のワルターを見透かした一言。

 たった一言で此処までのインパクトを与える事が出来たのは、真実を見抜く瞳と声のトーン選びと言葉選びの巧みさが故か。


 これが、美しい微笑の陰に見える思慮深さにワルターが興味を抱いた瞬間だった。



 ***



 当時の事を思い出して微笑したワルターは、視線の先でクレアリンゼが同じように笑っている事に気が付いた。


(きっと同じ事を思い出したのだろう)


 長年連れ添っているからこそ分かる心の機微に微笑を深め、ティーカップを傾ける。




 それから2、3言会話をしてから、クレアリンゼが本題へと舵を切った。


「――今日、セシリアがこのお部屋に来たのでしょう? あの子の様子はどうでしたか?」


 尋ねられて、ワルターは思わずばつが悪そうな表情を浮かべた。

 そして言い難そうに、口を開く。


「……『仕事をしていていい』というので続きを始めたところ、つい没頭してしまって、あまり、その……かまってやれなかったのだ」


 クレアリンゼは「幼い子供を放置したのですか?」とある意味『らしい』と言わんばかりに彼の言葉に苦笑を浮かべる。

 しかしすぐにその言がセシリアの言動と食い違うと気が付いて、疑問に首を傾げた。


「そうだったのですか? ……でもおかしいですね、セシリアはとても『楽しかった』とはしゃいでいましたよ?」


 じゃぁあの子は何を、あんなに喜んでいたのか。

 そんなクレアリンゼの疑問は尤もで、ワルターにだって思い当たる所は無い。


 しかし少し考えると、「あぁ」と納得する様な声を上げた。


「確かマルクも、『セシリアお嬢様は終始楽しく過ごされた様ですよ』等と言っていたな」


 そこまで言って、顎に手を当てて彼の言葉の続きを思い出す。


「確か、幾つか質問をしてきたと言っていたか。そしてその結果が、アレだ」


『アレ』と言いながら指したのは、部屋のとある一角である。

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