4・才能なんてものがあるとしたら
夜になって部屋にひとりきりでいると、思い出したくもないことを思い出す。
特にこの日は、昼間に店であったやり取りもあって、僕は呆然と座り込んでいた。
わずかずつであれ回復しかけていた自尊心が、バッキリと折れた。僕が大切だと思っていたものは、世間にとっては大したものではなかった。
その事実が心に重くのしかかってくる。おまえはその程度の存在なんだ――と言われたようで、でも反論の言葉も浮かばなくて。
のしかかる重さに抵抗もできないまま、思考が空転を続けていた。
噴き出してくるのは、音大に入って演奏者を目指していた頃に言われた言葉の数々。
そして、同期の顔――僕にはできない課題を軽々とこなしていた、同じ楽器の天才バカの顔。
やつは僕にとって、やつは追いかけたいのに背に触れることも敵わない、遠い存在だった。
同い年で同じ楽器。一緒に演奏する機会も多かっただけに、本当の天才というのはこういうものなのだと、吹くたびに思い知らされることになる。
楽典、奏法、音色――全てにおいてやつに勝てなかった。
脳裏によぎるのは授業で散々吹かされて、その上さらに先輩から、まだ練習するから付き合えと言われたときのこと。
同期の誰もが課題で疲れ切っていている中、あいつだけは先輩たちに混ざって吹き続けていた。もう勘弁してくれ、そう言いたい全員の思いをぶっちぎって、あいつだけは授業時と
綺麗で、明るく、すごいやつだった。
プロになるのはこういうやつなのだと思った。才能の塊、舞台の星。比喩でなくそう称せるだけの才能が、あいつにはあった。
それに比べて、自分はどうだろう。
演奏者になることを諦め、ドロップアウトして家業である楽器屋を継ぐことにした。
これが負け犬と言わずなんだろう?
「
久しぶりにバッキリと心が折れていたせいで、僕は正面からその言葉を認めてしまった。
――ああ、そうだ。
僕には、なにもない。
プロの演奏者になろうとしたのだって、親父に反発してのことだし。
リペアマンになろうなんて希望だって、思いっ切りくじかれた。
世間から認められる、輝かしい才能があるわけでもなかった。
僕にあるのは、徹底的な『否定』だけだった。
「……う、あ」
そのことを認めた瞬間、心のどこかに入ってはいけないヒビが入るのが、自分でも分かった。
割れた心のさらに奥。
本来触れてはいけないところに亀裂が走っていく音が、聞こえた。
「う、あああ、あぁ、ぁぁぁぁぁぁあ……⁉」
頭を押さえても鳴りやまなくて、涙を流そうが止まらなくて、僕はただ叫ぶことしかできなかった。
空っぽの器はヒビの入ったところからボロボロと崩れて、何もないはずなのに大切なものが流れ出していくような気がした。
代わりに入ってくるのは、真っ黒な
満たされないものを満たそうと、必死になって押し入ってくる。
呼吸をするたびに、闇色が僕の身体に侵入してくる。循環するように脈打って、視覚も聴覚も全部塗りつぶしていく。
才能なんてない。希望なんてない。夢なんてない。
そんなの知ってた。知っていたけど目を背けてきた。
そしてそんな否定すら、僕を作る材料なのだ。分かる人には分かってしまう。あっさりと見破られてしまう――僕が空っぽなことなんて。
「――
そんなとき、外から親父の声が聞こえた。
先ほどの僕の叫びを聞きつけてやってきたのだろう。加減もできないまま放った声は、完全に悲鳴だった。
どう考えたって尋常な様子じゃない。現に、「入るよ」と一声かけてきた父に、僕は何も返すことができなかった。
正確に言えば、
頭の中は嫌な記憶でいっぱいで、それを追い出す
涙を止める方法なんてないと思っていた。感情が全部枯れ果てて死ぬまで、これは収まらないと思っていた。
嵐のように耳の中で雑音が荒れ狂う中、父は言う。
「どうした。何があった?」
「父、さん……、父さん……!」
へたり込んだ僕の目の前にひざまずき、父は穏やかな調子で訊く。
それに対する僕の返答は、ひどいものだった。思考はまるで働かず、呼吸もままならない。
溺れるようにして切れ切れに言葉を口にする。それが精いっぱいだった。
「ぼ、く、もうだめで……なん、にも、ない、僕、には、なにもない……!」
頭を抱えて泣き叫ぶ息子に、大体の事情は察したのだろう。
父は何も言わず、黙って僕の言葉を聞いていた。同情も憐れみも蔑みも、そこにはなかった。
いつもと変わらない、不思議な人だった。
「才、能なんて、僕にはない……! 何をやったって、上手くいかない、何もできない……!」
「才能かあ。そっかあ」
その単語に、父は一度、遠くを見るような目をした。
何を見ていたのか、何を思い出していたのか、今でも分からない。
けれども次の父の一言は、ノイズばかりの鼓膜にはっきりと届いた。
「いいかいマサ。もしこの世に才能なんてものがあるとしたら。
この家に生まれたことが、おまえの才能だよ」
「……え?」
その声を聞いた瞬間。
それまで荒れ狂っていた雑音と暗闇が、スッと止んだ。
大事なものが流れ出ていってしまう感覚も、代わりに黒い靄が入ってくる感覚も、一瞬で消え去った。
部屋の隅でうずくまる僕は、周りを見る。
あるのは明かりのついてない自室と、窓から見える外の景色と、父親だけ。
物心ついたころから変わらない、その光景だけ――
呆然とする僕に、父は続ける。
「持ってるものがあるなら、生かさない手はない。地位だろうがコネだろうが家柄だろうがお金だろうが、自分が生きるために全力で使いなさい。それは何も、卑怯なことじゃあない」
ちなみに父さんはそうしてる、と若干ドヤ顔で自慢にならない自慢をする親父は。
楽器屋で、商売人で。
とんでもなく強かな――ただの、人間だった。
頭を下げることも武器のひとつとして。
自分にはできないことを従業員に振って。
息子のために言葉を紡ぐ、どこにでもいる父親だった。
なにもない、と嘆いた僕にたったひとつの価値を投げ込んだ。
それだけで狂った傷は、魔法のように霧散する。
「部屋の隅で申し訳なさそうにしていなくていい。胸を張って、好きなように生きなさい。望んだ姿になりなさい。そのために、取れる手段は全部取りなさい。ズルいなんてことはない。演奏者だろうがリペアマンだろうが楽器屋だろうが、みんな一緒だ」
何者でもなかった僕を、この店の後継者に仕立てたのは紛れもなくその一言。
僕が泣くのを止めて見上げていると、父はいつものようにヘラリと笑った。
どんなに挫折をしようが、拒絶しようが、生まれた場所からは逃れられない。
だって――僕がこの家に生まれた以上。
「だから最初に言ったろう。『辞められないからな』って」
生きることは、辞められないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます