2・僕がプロを目指したのは
「辞められないからな」
プロの奏者にならずに店を継ぐというと、父は満面の笑みでそう言った。
状況が状況なのにその笑顔に圧を感じなかったのは、両肩に置かれた手が温かかったからだろうか。それとも父が嬉しそうだったからか。
父は――
いつもニコニコしているけれど、それ以上の感情は読み取れない。多少の喜怒哀楽は感じ取れても、何を考えているかは分からない。
ある意味で究極のポーカーフェイスだったのかもしれない。ひとつの店の長として、その態度は究極に最適解だ――今となってはそう思える、不思議な人だった。
都賀楽器店。
何代も続く老舗の楽器屋で、僕はそこのひとり息子だ。
本来ならば、僕が店を継ぐのは当たり前だったといえるかもしれない。けれど、僕はそれをいったん拒絶した――楽器を扱うということには変わらないが、整備者でなく奏者になる道を選んだのだ。
そして、実力不足を知っておめおめと戻ってきた。
普通はこうなったら、親としては困った顔のひとつでもするものだろう。音大に行くまでにかかる費用、学ぶ費用は決して安いものではない。
ここまでつぎ込んできたのに、と多少なりとも思うはずだろう。けれども父は、全くそんな素振りを見せなかった。
経営者なのに。この当時の都賀楽器店は、もちろん僕でなく父が社長だった。その立場で見れば、費用対効果の話は考えなかったはずがないのだ。
店のトップがその体たらくでどうするんだ。そうも言いたくなったけど、当時の僕に文句を言う気力は戻っていなかった。
当たり前だけど一度目指したものを叶えられず落ち込んでいたし、いったん店を継ぐことを拒否した引け目もある。
なので僕は、何も言わず父の言葉にうなずいた。辞められないからな――今度こそ、と自分に言い聞かせて。
小さいが反応されたことに父は満足したのだろう。上機嫌で言ってくる。
「じゃあ、今度からおまえも得意先の挨拶回りについてこい。顔を知ってもらうことも、営業のひとつだ。一緒に行こう」
楽器屋の仕事は、別に店に来たお客さんの相手ばかりではない。
むしろそれ以外の顧客の方が多いのだ。例えば個人の音楽教室、もしくは彼のように学校の部活。
地元の肉屋がどうして潰れないのかと同じ理屈だ。個人よりも団体を相手にした方が稼げる額は大きい。店頭販売より給食の材料の手配の方が動く金額は大きいのである。
けれど、だからといって人付き合いをないがしろにしていいわけじゃない。その辺は信用問題になる――なので、数字を見るだけでなく直接、店の顔として僕は表舞台に出る羽目になったのだ。
向こうさんだって顔の見えない相手より、知ってる人間と取引したい。
その方が安心するから。会社としては当然の流れで、僕は社長の息子として父に同行することになったんだけど――これって、結構な晒し者じゃない?
だって僕が音大に行ってプロ志望だったってこと、得意先のみんなは知っているわけでしょう。
それで店を継ぐことになったから挨拶に来ましたって――大体の事情はそこでお察しだろう。同情の目を向けられるのか、軽蔑した目を向けられるのかは分からないけれど、どっちにしたってロクな目に合わないことは確かだ。
どうせ諦めたんだろうって。
そう思われることは避けられない――けれども、それはしょうがない。身の丈に合わないものを選んだ、僕のミスだ。
そんなわけで心底嫌だったけど、この先を考えると僕は父についていかないわけにはいかなかった。これから店でやっていくにあたって、これは避けては通れない問題だったから。
逃げられない――だったら今のうちにクリアしてしまった方がいい。
僕の理性はそう判断していた。けれども感情はそうではなかった。
逃げ出したくてしょうがなかった。もう無理だって何もかも投げ出して、部屋の中に引きこもっていたくてしょうがなかった。
腫れ上がった傷跡に触れられるような真似は、誰だってされたくないだろう?
けれどもうなずいてしまった以上は、止められない――辞められない。
今度こそは。身体中の震えを押さえつけ、歯を食いしばって、僕は父についていくことにした。
数日経って実際に一緒に得意先に行ったときも、父はやはり始終ヘラヘラしたままだった。
同情も憐れみも蔑みも、その表情からは感じ取れなかった。
ただ純粋に、僕が家業を継いでくれることを、喜んでいるように見えた。
けれどもその笑顔の中に、どうしても不義を探してしまう自分がいたことは否めない。一度挫折を経験してしまってるからこそ、僕は疑い深くなってしまった。
臆病になってしまった。
傷つくもののリスクを徹底的に排除して、何もなくなった空間でひとりで座っていたかった。
ただ現実は、僕の傷の癒える暇なんて与えてくれない。これは、前も彼に言ったっけか――成長を待ってくれるほどこの世界は甘くないんだよって。
だいぶ意地悪な言い方をしちゃったけど、これは真実だと思う。
動けないときにこそ、動かなくちゃならないときもある――そんな状況も、長い人生の中でひとつやふたつはあるさ。
問題は、何を理由にするかだ。無理やりにでも身体を突き動かす、大義名分が必要だ。
彼の場合は『怒り』だったね。理不尽から他者を守ろうっていう、ある種の正義感からくる感情かな。
怒りには大きな力がある。否定されがちな感情だけど、物事を始めるのにこれほどうってつけのものはない。やり続けるための燃料にはならないけれど、きっかけというか起爆剤には十分なる。
僕も一緒だった。
けれど昔の僕は、今よりももっと
僕の怒りは、他人を守ろうっていうんじゃなくて、自分を守ろうっていう心の動きから生じた。
「息子の
得意先にそう言って頭を下げる親父に、ひどく苛立ったのを覚えている。
どうして他人に対して、そんなにペコペコするんだ。
子どもの頃から、ずっとそう思ってきた。意味が分からなかった。なんでそんな簡単にへりくだるのか。周りに頭を下げられるのか。
父親にはもっと誇り高くいてほしかった。たったそれだけの、それこそ子どもじみた願いだよ。
かっこよくいてほしかったんだ。大人にはさ。
母はもうずいぶん前に亡くなっていて、父は男手ひとつで僕を育ててきた。だからこそ余計に商売人に徹しなければいけなかったのだと思う。
今ならそれが分かる。けれども『楽器屋でなかった頃の僕』は、父の行動を理解できなかった。
都賀楽器店の経営は、父のおかげで上手くいっていた。
当時の僕としてはまったくもって納得いかないものだったけれど、どこに対してもにこやかに接する父の態度は、お客さんからは上々だった。
そして誠に
その事実が、このときになって痛烈に僕の心に突き刺さってきた。恥ずべき人間に育てられ、下げたくもない頭を下げる。この行為が若者にとってどれだけ屈辱か、分かる人には分かるんじゃないかな。
こんな大人になりたくない。
そう思いつつも、このときの僕は歯を食いしばりながら、同じように頭を下げるしかなかった。
「……よろしく、お願いします」
生きるために。
爆発しそうな怒りと悔しさをこらえて、やっとそれだけを言った。
何に対してっていうんなら、親父と僕と、世界全部に対しての怒り。
全部を見返してやりたかった。それこそ
そうでもないと、辛すぎてどこにも行けなかったからさ。
楽器屋としての僕は、そこから始まったんだ。
そのとき同時に、僕がプロの奏者を目指した理由も思い出したよ。
家業を継がず、演奏者を目指した
それはスポットライトを浴びて、周りからちやほやされたかったわけじゃなくて――
親父みたいになりたくなかった。たったそれだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます