第17話 開放

 ただいま。

 もう帰ってたのね。

 そう。散歩。

 月がきれいだったよ。白いやつ。

「嵐、」

 顔を上げて嵐は母親の瞳を見た。

 なにかを言いたそうにして、やがていつものようににこりと笑うと彼女は重たそうな黒いカバンをおろしに奥へ歩いていった。

 それを見送り、嵐はきびすを返した。暗闇が、うっと迫ってくるような気がした。考えたりせずにすぐ白い扉を開けて、見慣れすぎた空間のなかに踏み込んで、嵐はつぶやいた。

「フキダマリ……」

 そこにはまだ絶望が居座っている。

 それはゆるゆると嵐の足をひき、座り込もうと誘う。

 嵐は部屋の奥へ踏み入り、窓辺に歩み寄った。

 日が暮れて、いつものようにぴたりと閉ざした長いカーテンに、手を掛ける。

 心の中の誰かが絶叫する。嵐はそれを開けた。そして引き裂かれた窓ガラスを見た。

 赤い線。

 絶叫の合間にそれがなにかを訴えた。嵐はその訴えが心の底に落ち着くのを見届けてから口を開く。

「――いたかったね」

 こわばった喉に押し殺されてかすれてしまった自分の声を、嵐は聞く。その声に込められた感情を聴く。

 それはやはりゆっくりと心の底へ落ちてくる。

「ウン……。痛かった」

 腹の底からの低い声で嵐は答えた。それが自分のちょうどよい声だと、嵐はいつも思っている。その声で、心から応えた。

 前触れもなく涙が流れていった。

 足元の絨毯にそれが落ちる音を聞く。

 全身で、自分自身と世界に耳を澄ます。

 こうして繰り返す。

 こうして治癒していく。

 そのいとなみ。

 嵐は初めて過程を感じた。

 これが過程だと感じた。

(殺されたりしないよ)

 ガラスに赤い線に頬を寄せ、背中で叫ぶ恐怖と共に、そのとき嵐はそこに在った。そこに久方に嵐自身として在った。

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