第6話 摩滅
誰もいないのがなぜこんなにも辛いんだろう。
摩滅していく感情。
死んでいく由比。
――ああ。
嵐の中で何かがつながった。
こうして、私の中で誰かが死んでいく。
それがこわい。
それがつらい、のだ。
関わりを完璧に失った嵐の中で、今も生きている誰かが勝手に死んでいく。彼らは生きて今にいるのに、そこに嵐はいない。由比の前にいた自分がやがて死に絶えていくのを、じわじわと、感じるだけ。滅びの日々。失恋とはこんなものだろうか。ぼんやりと嵐は思った。滅びていく感情とともに己ごと死んでいくわけにはいかない。だが「わけにいかな」くても、心は転がり落ちていく。
立ち直る事ができるのは最後には本人の生命力だけと、白い部屋で誰かが言ったのを嵐は記憶の深い底で覚えている。少し皮肉に嵐は思う。自分の力が摩滅しきっている時には死ぬしかないってこと?
きっとそれは事実で。現実で。
今ここにいるのは、あの時の無を生き延びるだけの力があったからで。
なかったら。
なければ。
死ぬのだ。
(今の私にはそれほどの力が)
あるだろうか。
嵐は茫然と、なにかの力の前に無力な自分を持てあまして立ち尽くした。
(生きるか死ぬかわからない)
それはいつも変わりないことだと、思っても、それを忘れていられるだけの生命力はなかった。
残酷な可能性。
針はどちらに振れるか分からない。
そして私は死を選べない。
この滅びの感覚が去るまでうずくまり待つしかない。気がつけば時は、過ぎている。それまで。
「それは自閉って言うんじゃあないの?」
玄関の暗闇の中にうずくまり、高い覗き窓の一点の輝きから目をそらして嵐はつぶやく。喉の奥から声が言う。
「働きかけられないときに無理に動いてまたあんな目にあいたいわけ?」
嵐はしゃべらないでいた。
「あんたは、あんたの悲しみは、根拠のみつかんないものだけどそこにあるのよ。知ってるわ。誰に疑われてもあんたが死んでやる必要なんてないのよ。無理に動かされる必要もね」
嵐は知っていた。それが自分の声だということも。
「あんたは動けないときに休むってことを知らない。休むのは自閉って言わないわ。その言葉は自己嫌悪や揶揄に使うものじゃない」
それでも、嵐は黙って聞いていた。
心の後ろの一ミリに、一人でしゃべりつづける自分に対する薄ら寒いような鋭い痛みを感じながら。
過去の己を殺そうとすれば同じところにいる誰かを殺す。
不当な殺人。
人殺し。
になるのはいやだった。
切りつけられ傷ついた心は誰かを殺そうと思う敵意にあふれ。
同時に誰も殺したくないと切に願い。
殺された傷はひどく痛むから。
誰かを殺すものにはなりたくないと願う。
すべての人殺しを、殺してやりたいと思う己はまた殺人者になるものかもしれない。
そして思考のすべてが殺す殺される殺さないで埋め尽くされていることに嵐は絶望する。これでは誰と話せると言う。私の絶望とつきあっているほど、人々は暇じゃない。
ジレンマ。
そこから生まれる敵意が誰かを歪め、世界を歪めることのないようにと、願い。その上に自分を守らねばならないことは、生命力をすり減らす。
それでも耐えなければ。
それでも絶えなければ、いつか、取り戻した己と共に生きられる。
たとえいま真実でなくとも、その願いだけが、嵐を生かしていた。
あざやかな。
咲く花や緑。夕景の青に映える。
憔悴した心に、うつりはえる。
いろ。
夕方の穏やかな風にゆるりと押されながら、嵐は歩いた。
どこかから誰かの歌が聞こえてくる。嵐の好きな歌。
好き。
誰とすれちがっても、顔を上げずに、ツツジの花々の顔を見ながら嵐は歩いた。
きれいな色。
異様なほど鮮やかな景色。
最期。
ふとそんな言葉が頭に浮かぶ。
もうすぐこの世か、嵐が終わってしまうのだろうか。
滅びの感覚は薄い姿で嵐の世界に付きまとっていた。
ああ私は弱っている。
悲しい気持ちをうっすらと感じながら嵐は思った。
今この時も、どこかや隣で力強く笑う人が世界がある。
けれど嵐はそこにはいられない。いるために無理をすることも望んでいない。
一人なのは必然。
それでも嵐は、かなしみを感じていた。
それは、さびしさかもしれないと、嵐は思った。
空白。
何かを探しに、嵐はひたすら歩いていた。
けれどどこへいっても、なにもなかった。
あるのはひきつれるような痛みだけ。
嵐も、ない。
どこかの店から、またあの歌が流れている。
風と歌と、苦痛と。
奇妙な三角を描く。そこが、嵐の場。
なにもない、なにもない、吹き抜けていく世界。
私は――。
嵐はまぶしいような青い夕刻の空を見上げた。
――ここにいいるの?
圧倒的な生命力の春が、嵐をかき消してしまった。
空白。
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