第3話 切断

 ――雨の音に似ていた。

 頭蓋をたたく水滴が、裸の胸の奥の記憶を揺らす。たぐりよせてもうまくとらえることができないうちに、それは水にのって体を流れ落ちていく。ゆれる鼓動と水のはぜる音とに嵐は耳を澄ませて、ひざを引き寄せた。(なるべく小さくなって。小さくなって――)(かえりたいの?)(ううん、鼓動をききたいの)

 折りたたんだ脚と肩のあいだに腕を入れて首筋に押し付ける。皮膚を血流が押し返す。こんな風にしなければ自身の生命を感じられないことが、幼子のようだと、小さく笑った。

 引き離した手首にまとわりついた長い髪が、その時不意に忌々しくなったのだった。とたんにあふれ出た感情が世界を染め替えてしまった。嵐は悲鳴を上げて飛びのいた。いすから転げ落ちてひじや肩をぶつけながら風呂場の隅に後じさる。床に転がったシャワーが水を吐き出し雨のように降らせた。水滴は宙を舞って嵐に降りそそぎ、つぎつぎにはじけた。オレンジ色の照明がにじんで広がり、嵐はまたたいた。目に飛び込んだ水がこぼれおちる。襲い来る冷たい水に両腕をかざして嵐は床を探した。転がしたいすと石けんの向こうに手を伸ばして、嵐は視界をふさごうとまとわりつく髪をつかむと「それ」を手に取って思い切り力を込めて引いた。

 びり、と振動が頭蓋に伝わる。嵐は無心にそれを続けた。びり、びり、びり、びり。刃物の鋭さ、髪の上げる悲鳴が嵐の中にどんどん降り積もった。


 青い部屋の中で嵐は笑いつづけた。笑いはやがて震えに変わり、震えは唸りを呼び起こしてそれは悲鳴にすりかわる。

「キャアア」

 叫びが嵐を震わせる。どこにいるのか分からなくなって幽霊のように青白い自分の手首を握り締めながら嵐は唸った。背骨が震える。

途切れ途切れに連なる唸りはやがて、鳴咽に変わった。深い深い奈落の底から悲しみを引き出して、嵐は身を縮めた。こめかみを水が伝い落ちた。

 衝動に駆られてカミソリで引き裂いた、長かったきれいだとほめられた髪。びりびりと、紙を破くような、音がした。悲鳴に似た。

 衝動。暴力。傷付けられた反動は、どこへ向かうかわからない。

『あなたを殺すかもしれないの』

 強い感情に歪んでいく現実。そこに住めない人々が遠ざかっていく。

 ひとり。

 そして己もついえていく。

 その恐怖。

 赤い線を引く。

 かさねかさねて引き直す。

 己の生を確認するために。

 真っ直ぐ真横に引かれたキズ。

 それがあまりにも痛むから、この世にいられなかった。

 人と通じる言葉も、人を傷付けない言葉も、吐けない。

 キズに支配された生。

 それほどに大きくしてしまった傷。

 ――だれか悪かった?

(たぶんだれも、悪くはなかったと思うのよ)

 憎いのは一人だけ。はじめのキズの衝撃。

 あとはすべて、心の中で起きたこと。

 ただ、ただすれちがった。思い。

 こころの断絶。それだけの。

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