第2話 カミソリ

 白と黒のタイルがくり返し円を描く。

 外の円と中の円のタイルがきれいにそろうのはどこ?

 赤い三角ポール。緑の残像。

 残像。

 幻。

 ここでない、生きていない、人には見えないもの。

 嵐だけが見る幻想。

 世界に嵐があふれ出している。

 緑の残像は嵐の視点につきまとった。そのうち足元の白線がそれに重なってにじみ出す。嵐はそれらから目をそらして空を仰いだ。白い冬の空を、赤や緑の光が跳びまわる。胸が重いような気がして嵐は冷たい空気を吸い込んだ。アナウンスが流れる。――次の電車は回送です。

 すぐ側に生き物の気配を感じて嵐は視線を落とした。まだ小学校にもあがらないほどの子供が、頼り無げな歩調で足元のタイルを数えながら歩いてくる。子供は視界にようやく嵐をとらえてふらふらと方向を変えた。きれい。重苦しくて空っぽの胸のうちにそんな言葉が浮かぶ。嵐は子供の後ろ姿を目で追った。

 その少し前に母親らしい女が歩いているのを見た嵐は罪悪感に包まれた。その感情を形容しようと言葉が動く。

 さつい。

 殺意。

 息を呑んで親子から目をそらし、嵐は自分の手を握り締めた。

(このてでころしてやる)

 突然、周囲の音が鋭さを増して嵐の耳に飛び込んでくる。

 回送電車が風を巻き起こし過ぎていくのを嵐は見なかった。

 紙を破くような音が耳元で鳴りつづける。

(死人みたいね)

 手の中に握った、自分のものだった長い髪を見て、嵐は言った。

 ――それ、いつのこと?

 耐え切れずに嵐は目を瞑った。眉間に痛みが集まっていく。心臓は嵐とは別の生き物となってひとりで叫び出す。痛い痛い痛い痛い。嵐はこぶしを胸に押し当てた。はげしい鼓動。思考は絡まってやがて真っ白になった。何もない嵐の中を心臓の音だけが通り過ぎていく。

(イタイイタイイタイイタイイタイ)

 激しい風が嵐の頬に吹きつけた。まぶたを上げ、嵐は開こうとするドアの隙間をにらみつけた。がたん、と揺れ戻し、ドアは口を開けた。降りる人を一人一人嵐は目だけで追った。――だれか。

 ドアは速やかに閉じ、車体は去っていく。嵐を目に留めるものは誰もいなかった。嵐はうつむいて背中を丸めた。

 音が遠ざかり静まっていくホームで、嵐の心臓だけが叫びつづけていた。


 びりびりびり。

 破ける音。断ち切る音。捨てる音。壊す音。

 ――頭がちくちく痛んだのは、無理矢理髪の毛を引っ張るからよ。

 、違うよ。痛いのは脳天だよ。

 ――わたし嵐の髪好きだったのにな。

 由比の「好き」が勝てなかった。ごめんね。

 ――でもわたし今の嵐もかっこ良くって好き。

「わたし――由比の『好き』に等しい人間かなあ……」

 あの子何にも知らないわよ。

 あんたのこと知らないのよ。

「それはわたしが決めたことだもの。あの子には何も言わなくってもいい。何もかも話すことがすべてじゃない」

 何もかも話したって分かってもらえないものね。

 体を預けていた柱から離して、嵐は来た道を戻ろうとした。広がり出した無のなかをこれ以上行けそうになかった。

 電車が滑り込んできた。嵐は足を止めて少し待った。

 音を立ててドアが開き溢れ出す人達の中に、嵐は探していたものを見つけた。

 由比はすぐに嵐を見とめて手を振った。

「おはよう」

「おはよう、由比」

 嵐は微笑んだ。


 一日は淡々と行き過ぎる。

 そのわけを嵐は自覚していた。生命の輝きに満ち溢れているように見える人達は皆、人生に参加している。自分の内側の興味、心の動きを持ちよって、楽しんでいる。

 嵐の心は無だ。何も感じられない。持ちよるものを探そうという動きもない。プラスでもマイナスでもなく、ゼロだと嵐は思った。ぴったりと、完全に静止してしまっている嵐の中で、心臓の鼓動だけが加速していく。それはそのうち苦痛をうったえ、嵐の静寂を壊す。

 どうしたらこれを抜けられるのか、と嵐は静止した思考のなかで問い続けた。なにか好き?何がしたい?どうしたいの?

(生きていたい?)

 自分のなかを手探りで探しまわっても何も見つからなかった。嵐には、自分が分からなかった。

「わからない、じゃあわからないよ。ちゃんと説明してよ。どうして行けないの?」

 苛立った調子で由比の声が言った。嵐は答えず電話機のフックを見つめていた。言葉をしゃべろうと思ったが、喉からは空気の漏れる音がするだけだった。思考は白く茫洋としていて思いが形にならずただ流れていく。その一つも、嵐はつかまえて声にすることができなかった。そのうち、問い掛けが頭に充満して嵐は何も考えられなくなった。

「――なんて言ったらいいのかわからない。私、おかしいの……おかしいのよ」

「お願いだからわかるように言って! それじゃあ嵐のことわからないよ。助けてあげられないよ」

 由比の泣き出しそうな声が嵐の心の芯に響いた。嵐はごめんねと呟いた。

「私どうしたらいいの? 何が必要なの? 嵐に何をしてあげられるの?」

 由比は泣いているようだった。嵐はいつか引き裂いた髪から流れ落ちた水滴を思った。そしてそっと受話器を置いた。


 夕日は嵐の部屋を真っ赤に染める。窓ガラスの赤い線は、干からびてはがれはじめていた。その上に嵐は赤い線をひき直した。何度も、何度も、何度も、それをくり返しているうち、夕日は力を失い、部屋は青い色に包まれていった。

 嵐は手を振り上げてガラスに打ち付けた。青い世界が憎い。すべて壊れてしまえ。骨が激痛を訴えても嵐の心は感じなかった。痛みを訴えつづける手を握り締めて嵐はその場にうずくまった。加速した鼓動が喉の奥で鳴っている。漏れる空気が声になる。

「壊しちゃえばいいのよ。あんたなんか消えてなくなったって誰も気にしちゃいないわよ。悲しんだって、いつか忘れて納得するのよ、あんたがいない現実に」

 つぶれた喉の奥から声は呪うように低く言った。心の奥で何かが反論する。ちがう、死んでしまっては何にもならない。

「別に死んだっていいのよ。死んじゃいけないって誰に言われた? 生きていたい? あんた少しでも未来を見てる? ちがうじゃないあんたが見てるのは自分と過去ばかりよそんなのは死んでるのと同じじゃない」

 声に駆られて鼓動の後ろから激しい怒りが浮かび上がってくる。ちがう、ちがう、生きているわ、死んでなんかいない、いきているわ。

「いくら言い聞かせても同じよ。生きているなんてここで言っていたって誰にも聞こえないじゃない。あんた馬鹿よ。だから飼い猫だって言うのよ」

 嵐は怒りに駆られて自分の左手にこぶしを打ちつけた。

 そして静かになった部屋の中で一人うずくまっていることが急におかしくなって笑いだした。

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