深淵の観測者

「バスクラリネットは、チューバとはまた違った意味で、演奏の核になる存在だ」


 外部講師として吹奏楽部にやってきて、わりとすぐ。

 城山先生は、あたしに向かってそう言った。


「チューバが吹奏楽における柱であるならば、バスクラリネットはその芯を作る、軸となるべき楽器だ。曲の一番深いところで、演奏の中心になっている。なくてはならないものなんだよ」

「……それは」


 普段はなんとなくボーっとしているのに、たまにこうして、核心をついたことを言う。

 網戸あじと先輩と同じくらい――いや、ある意味それ以上に、この人はあたしにとって底の知れない存在だった。


 今だって、その言葉はどこかで事の中心になることから逃げていた、あたしに突き刺さるもので――あの不肖の弟子が言っていた、「初合奏のときに、全部見抜かれていたような気がする」というセリフそのものでもある。


 さすが、その腕一本で生きてきたプロの奏者は違う。

 下手な誤魔化しなんて通用しない。聞こえる音で全部見抜かれる。

 そして、その上でこの人は、やんわりと警告をしてきているわけで――けれど、その意図を察しつつ、あたしはすぐに応えることができなかった。


 だってさ、先生。できないよ。

 こんな何もできない、誰も救えないあたしが。

 みんなの中心に立つことなんて、できないよ――


 そう思っていると、先生はのんびりと笑って、続ける。


「きみなら、できると思うけどね。ここの部活の深奥から、みんなを見てるきみなら。

 まあそりゃ、いきなりやれとは言わないよ。けれどやっていけば、いつかはできるようになる。大丈夫」


 それは、あたしと同じくかつて深淵を見た者の。

 そして、そこに呑まれてもそれすら越えて、帰ってきた者の――温かいくて柔らかい笑みだった。

 その表情を浮かべることは、今のあたしにはできない。

 なぜならあたしはまだ、その深淵の中にいるから。

 真っ暗な闇から抜け出す術も、その気力も持たず、ただただ周囲を観測し続けているだけだから。


「――」


 だけど、なぜだろう。

 この人にそう言われると、少しだけ、うつむき気味の顔が上がる。


 本当にたったそれだけで、ここから抜け出すことはできないけれど。

 それでも、そうすることでそれまで見えなかった、何かが見えるような気がしたんだ。


 そして、先生はそんなあたしを見つめ返して。


「それでいいよ」


 そう言って、もう一度笑って――そして、あたしの反応を待った。


 この暗闇の奥で、あたしが何かを言えるようになるまで。

 ずっとずっと、待っていてくれた。

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