選択はきみ次第だ
中島先輩は、例えるなら両方にたくさんの
片方には、幸せと優しさと。
そしてもう片方には、鬱屈と自己犠牲があるような――どちらかに傾けようとすればもう一方も重みを増してしまうような、そんな危ういバランスの人だった。
そのくせ、周りの人間にはそれを悟らせない。
だからこそ、あたしみたいなのしかその笑顔の裏には気づけなくて――それで余計に、この人を救わなければと躍起になっていたのだと思う。
他人を救うなんて、おこがましい考えなのにね。
でも、その時はやらなければならないと思った。
誰もやらないのなら、あたしが手を伸ばさないと、この人は自分自身を壊してしまう。
助けることで自分が助かりたかった、というのは否定しない。その辺りは
けれど、例えそんな卑怯者だと言われようとも、今までみたいに何もしないよりはマシだった。
だから、その天秤に触れようとしたのだけど――
「ん、何か用か? 高久」
話しかけようとした途端、その肝心の中島先輩に笑顔で気遣われてしまって、あたしは硬直した。
偉そうなことを言って出てきたはいいが、あたしはこれまで人の未来を『視て』いるだけで、干渉なんか全くしてこなかったのだ。
どんな言葉をかけて、何をすればいいのか――考えてきたはずの方法が全部頭からすっ飛んでしまって、動くこともできなかったんだよ。
コミュ障ここに極まれり。
頭で考えるのと実際に行動するのには、天と地ほどの開きがある。慣れないことなんてするもんじゃない。
大人しく暗闇に引っ込んでればよかったものを――そんな考えが頭をかすめたけれど、あたしは執念だけでそこに踏みとどまった。
「あ、あの……っ」
そのときに出した声は、震えていて我ながら情けないくらいだったと思う。
別の楽器の、しかも入部して数か月の一年生が、先輩に妙な話をしようっていうんだ。
自分が何をしようとしているか、このときになって事の重大さを改めて思い知ったよ。
だから、どもって声を詰まらせながら――
訳が分からないままに、あたしは頭に思い浮かんだセリフを、そのまま口走ったんだ。
「中島先輩、は……先輩は、何をしたいん、ですか?」
「――」
そして――あたしのその問いかけに。
先輩はそれまでの笑顔を消し去って、本当に虚を突かれた、空っぽの表情を見せた。
挙動は不審そのものだったけど、それでの予想はやっぱり正しかったんだ。
この人は周りに『何をしたいか』って訊いていたけれど――
その実、この人自身は誰にも、『あなたは何をしたいんですか』って訊かれたことはなかったんだ。
人に要求されることだけを感じ取って、無意識にそれを実行してしまうシステム。
それはやっぱりどこか、他人の未来が視えるあたしに似ていた。
自分自身では、どうにもならないところも。
何も分からないけど、突くならこの一点だ。
それだけを確信して、あたしは続ける。
「まや……か、に、先輩は『どんな音を出したい?』って訊いてましたけど……先輩は、どうなんでしょうか。先輩本人は、何をしたいんでしょうか。何だか、見てて、それだけ気になって……」
「……俺、は」
こちらの言葉に、先輩は呆然とそれだけつぶやいた。
そりゃそうだろう。いきなり何をしたいんですかと訊かれて、すぐに答えられる人間なんていない。
まして、中島先輩はこれまで全く、自分の意思を尋ねられたことなんてなかったんだ。
だったら、そこを引き出せばこの人には制御できない、この天秤にも――
そう、思ったところで。
「……あ」
ふと、我に返ったように先輩は声をあげて。
その音に、ぐらり、と。
映像が揺らいで、ノイズが走った。
天秤が、なってほしくない方向に、傾くのが見える。
その光景に息を呑むあたしに向かって、中島先輩は元の笑顔を――いや、困ったような笑みを浮かべて、あたしに言った。
「……違うな。そうじゃない。ごめんな高久。なんか俺、元気ないように見えたか?」
「違……っ、先輩、あたしは……!」
「おまえは、まだ人の心配なんかしなくて大丈夫だよ。一年生なんだし。それよりも、もっと自分のことを考えた方がいい」
「それは、先輩だって……!」
悲鳴のように叫ぶも、傾きは止まらなくて。
こうして会話していくうちにも、等量だった天秤が、大きく傾いてしまうのが。
この人の未来が。
あたしの行動によって決定付けられてしまうのが、分かった。
優しさと自己犠牲が表裏一体。
それがこの人なら――片方を刺激して、もう片方を動かすような真似をしない方が、よかったんだ。
網戸先輩の言う通り、もう関わらない方がよかった。
『何もしない』という選択肢。
それを取った方が、よかったんだ。
完全に読み間違った。
そしてこの先の対処法を、人助けの経験なんてないあたしが、知る由もない。
これ以上何を言ったところで、逆効果――それを悟って棒立ちするあたしのところに現れたのは。
「なあ、中島」
納得できるまでやってみるといい、と言った網戸先輩だった。
ああ口にしたからには、この人は今のやり取りをどこかで見ていたのだろう。
三年生の超然とした先輩は、掴みどころのない、けれども穏やかな微笑みを浮かべて後輩たちに言う。
「おまえのその優しさは、美点であると私は思う。時にそれが、どうしようもない足枷であったとしてもな。
おまえの音が、私は好きだよ。綺麗で繊細だ。それは、大切にするといい」
「網戸先輩、何を」
「『音楽なき人生は
それは、最後の忠告だったのだと思う。
楽器も絆も全て放り出して、この人がいなくなってしまうのを防ぐための、最後の言葉。
それを――
「……先輩は、自由ですねえ」
中島先輩は、受け取れずにその手から滑り落していた。
一生懸命に手を伸ばしても、絶対に触れられない。
それが
先輩は、決して自由なんかじゃない。
むしろ制約の方が多い――そう言おうとしたけれど、中島先輩のひどく疲れた様子からは、それも許されない雰囲気があって。
あたしたちは、結局お互いをどうしようもできないまま、そこで別れることになった。
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「なあ、高久」
去って行ってしまう中島先輩を見送ることしかできないあたしに、網戸先輩は声をかける。
「人の未来はな、自分で選ぶものなんだよ。他人にどうこうできる話じゃない。言うべきことは言ったさ。私たちは手を尽くしたよ。だから、きみが気に病むことはない」
あとの選択は、あいつ次第さ――そう言ってくれる先輩の優しさが、かえって辛くて。
あたしは何も言うことができなかった。
何も、できなかった。
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