善悪の彼岸

「なあ関堀せきぼり、どんな音を出したい?」


 その人はあたしの同い年に、そんなことを訊いていた。

 共学で強豪校でもない、普通の吹奏楽部ではちょっと珍しい――フルートの男子部員。

 人当たりがよくて、線が細くて、困ったように笑う先輩。


 その人は――中島篤人なかじまあつとという人は。


 あたしには、二つの未来を持っているように見えた。



###



「中島のことについては諦めた方がいい、ヒロミン」


 そのことについて網戸美咲あじとみさき先輩は、はっきりした口調で断言してきた。


「何かあったら私のところに来るといい、と言った矢先に申し訳ないが、アレはもう無理だ。

 きみの未来視を疑うわけではない。ただ、彼はもう手の施しようがない。諦めたまえ」

「そ、そんなの、まだ決まったわけじゃないでしょう……!?」


 相談してすぐにこれだったから、あたしは網戸先輩にさすがに食って掛かった。

 あたしが『視た』未来。

 中島先輩がこの部をまとめる存在になるか、それとも退部するのか。

 あまりに両極端なものが同時に見えたので、そんなことは初めてだったから動揺していたのもある。

 そして、それ以上に。


「決まっている。私もそれなりに手を尽くしたんだ。だが、やはり結果は変わらなかった。これ以上は骨折り損だ。やめておきなさい」

「い……嫌です」


『ひょっとしたら救えるかもしれない存在』をこのまま見過ごすなんて、この時のあたしにはできなかったからさ。

 あたしの未来視は、大抵の場合は人の不幸ばかりを予言するものだ。けれど今回は違う。

 あたしの行動次第で、なんとかなりそうな人がいる。守れそうな笑顔がある。

 そう考えたら、諦めることなんてできやしなかった。

 そんなあたしに、網戸先輩はため息をついて言う。


「……そこまで言うなら止めはしないがね。けど高久、これに関してきみは、もう少し冷静になった方がいいよ。いくらきみがその力で虐げられてきて、ようやく汚名を返上できそうで、嬉しいとはいっても。

 最終的に自分は自分でしか救えないし、自分の道は自分でしか選択できないんだ」


 まるで悟りきったかのように、三年生の先輩は息を呑むあたしへと、そう言い切った。


 そう、さな。

 確かにあたしは、浮かれてたのかもしれない。

 自分の働きかけで、変わりそうな未来があることに。

 これまで散々苦しめられてきたこの力が、ここに来て初めて役に立ちそうだってことに。


 でもそれは、人を幸せにして、満足しようっていう自己満足だ。


 偽善で、自己顕示で、どうしようもなく醜悪な行為だ。

 けど。


「それでも……何もしないよりは、マシです」


 今までみたいに、どうすることもできずに結末を迎えるよりは、断然いいことだと思った。

 友達が、あたしが昔経験したことを怒ってくれたおかげかもしれない。

 誰かがかける言葉で、誰かが救われることだってあるんだ。

 そう思ってしまったらもう、あんな人を見て素通りするなんてできなかった。

 歯を食いしばるあたしに、網戸先輩は処置なしといった風に、首を振る。


「……ふーむ。意思は曲げられん、か。まあいい。納得できるまでやってみるといい。だが」


 そこで先輩は、あたしにひとつの忠告をしてきた。


「『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ』」


 底の知れぬ闇に挑む者に、送る言葉――

 かの有名な一節を。


「『おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しく、おまえを見返すのだ』」

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