砂漠のオアシス

「じゃあ、さっそく曲やってみよっか」


 音出しをして、各自楽器のチューニングを終えてから、室町むろまち先輩は隣に座るあたしにそう言った。


 バリトンサックスを吹くこの人が、本来なら同じ木管低音のバスクラリネットを吹くあたしの、指導役になるはずだったらしいんだけど。

 あたしが中学からの経験者だってことと、さっきの音出しの様子を見て、いきなり曲をやっていいだろうという判断になったらしい。


 まあ、こちとら中学時代、伊達にもまれちゃいないからね。

 これでも、そこそこがんばってきたんだよ。

 今から考えれば意味のないトレーニングだってさせられたし、指導者からの罵声もたんと浴びせられてきた。


 これで上手くならなかったら嘘だろ――なんて。

 皮肉混じりにそんなことを考えていると、網戸あじと先輩が楽譜をめくりながら、大きな声で言う。


「うむ! やはり曲をやるのが一番楽しいからな! 楽しいことが一番だ! というわけでやってみるか!」


 ……この人は本当に、何を考えているか分からないなあ。


 出会った当初からエンジン全開の最上級生を見て、この当時のあたしはそんな風に思っていた。

 まあそれは、後々重大な間違いだと気づくんだけど――その辺は、もう少し後で話そうか。


 ともあれこのときの網戸先輩は、でっかいバイオリン、つまりコントラバスを抱えてやる気満々だった。

 楽譜を渡される。曲は『シリム』。見知った曲だ。やったことあるし。

 低音パートだけでなく、他の楽器のメロディーも脳内再生できる。

 なのであたしは、必然的に聞こえてくる伴奏と、頭の中の旋律を重ねながら演奏していった。


 そう、確かこの曲は――砂漠から始まるんだ。



♪♪♪



 ――熱い砂の上を、足に鉄球を付けて歩く。


 引きずるような足取りは、そのときのあたしの心情のままだ。

 周りは全て、むせ返るくらいの熱気。

 痛いくらいの日差しと、目指すものもないただの地平線。


 死の大地。


 その中を――あたしはフラフラと、どこかに向かって歩いていた。

 進んでないとそのまま倒れそうだったから。

 とりあえず身体が向いている方へ、前か後ろかも分からない方向へ進んでいく。


 陽炎が揺らめいて、見たくもない幻が見える。

 踏みしめる足の裏が、焼けそうに痛くなる。


 それでも立ち止まったら死ぬしかない。だったら進むしかない。

 文句を言ってもしょうがないんだ。そんなことをしたら貴重な体力と水分が持っていかれる。


 それだったら、ただ無言でいる方がマシだ。

 何も言わず、口を挟まず、大人しくしていた方が賢い――


「ねえ、高久」


 と、そんなことを考えていたときに。

 隣から、不意に室町先輩の声が聞こえた。


「あんた、まだ本気出してないでしょ」


 ――怒られる!


 そのセリフを聞いて、あたしは反射的にそんな風に思った。

 だって、これまで散々そうされてきたんだ。考えない方が無理ってもんだろう。


 けど、そんなことはなかった。

 音と音の隙間の、ほんの少しの休みを縫って。

 バリトンサックスの先輩は、あたしに向かって呼びかける。


「大丈夫だよ、思いっきり出しな」


 思いっきりって――なんだっけ。

 そう戸惑った眼差しを向けると、室町先輩は少し首を傾げて言う。


「よく分かんないけど、もっと大きく出していいよ。その方があたしも出しやすいから。

 なんつーか、さっきから見てると窮屈そうでさ。もうちょっと、はっちゃけてやっちゃっていいよ。それこそ、網戸先輩みたいに」


 その言葉に、あたしはコントラバスの先輩を見た。

 網戸先輩はあの大きな楽器をやっているだけに背も高くて、体型もスラッとしている。

 サラサラの黒髪が制服から流れ落ちて――黙っていれば美人な容姿と相まって、その姿は真っ暗な中でも輝いて見えた。


 上手かった。

 そしてそれ以上に、楽しそうだった。


 自分の身長より大きな楽器に弓を当てて、踊るように右へ左へ――

 そうして生み出される音は、どこまでも優しく響いていく。


 楽しいことが一番だ。

 ついさっきそう言っていた、先輩の声が聞こえた気がした。


 すると同じくそんな網戸先輩を見ていたのか、室町先輩が言う。


「あの人、すごいよねえ。まあだからこそ、普段あんななのにフォロー入れちゃうんだけどさ」


 たはは――と笑った彼女はそして。

 そこでふと思い出したように、あたしに対して付け加える。


「――あ、そうだ。あんたは今日からヒロミンだった」


 ――ああ。


 不意に浴びせられた、その言葉に。

 あたしは身体のどこかのスイッチが、音を立てて切り替わるのを感じていた。


 そうか。

 あたしはここで、もっと思い切りやっていいのか。


 ――なら!


 と、そこで曲調がガラリと変わる。

 これまでの重い足取りが、駆け抜けるようなアップテンポに変わる。


 その様は突然、目の前にオアシスが現れたように。

 一人きりだと思っていたのに、扉を開けたら祭りが開かれていたように。


 気が付けば周りは全力で踊ってる愉快なアホばっかりで、そんな先輩たちを見て思う。


 だったらこっちも、久しぶりに本気で――やらせてもらおうじゃないか!


 意味の分からない不思議な高揚の中、あたしはその祭りへ飛び込む。

 楽器の芯が大きく震えて、踊りの輪が一段と大きくなるのが分かった。

 おどけるようにどこかで笛の音が聞こえて、空からは色とりどりの紙吹雪が降ってくる。


 誰かと共にかかとでステップ。

 手を叩いてくるっと回り、華麗に決まれば大歓声。


 ちょっと目をやれば他にもくるくる回ってるやつらがいて、やっぱりここはどこかの祭りの広場みたいだった。


 これまで上がらなかった足が、嘘みたいに軽くなる。


 それに応じてテンポも速くなる。

 それまでのバカ騒ぎとは打って変わって、今度はお楽しみを最後に取っておいた、押さえた音量で始まった。

 でも笑いはこらえきれてない。ヒラヒラと舞うスカートをはためかせながら、街中を走り回る。


 端まで行ったら一回転。

 もう一度端で、一回転。


 もはや何が目的なのかも分からなくなって、でもあたしたちは笑い転がりながら走り続ける。

 裏と表が交互に入れ替わって、けれど一貫したリズムは何も変わらない。

 階段を一段飛ばしで飛び降りる。駆け上がる。

 そうして散々遊び回って、奔放娘たちは街中の人間を誘い込むんだけど――それが何さね。


 あたしたちはステップ踏めりゃあ、それでいい。

 他には何も望まない。せいぜい祭りを絶やさないよう、周りの誰かを巻き込むだけさ。


 そうしてでっかくした熱気の中で、あたしたちは踊り続ける。

 焼かれそうな熱さは感じない。代わりにどこか優しいぬくもりが、そこにはある。

 いや訂正――ちょっとばかり激しいか。

 ま、そのくらいでいいのかもしれない。あたしみたいな出不精には、このくらいがいい刺激だ。


 普段は薄暗い部屋とか、星が見える夜とかが好きなんだけどねえ。

 しかしたまには、こんなのも悪くないかな――そんなことを思いながら、光と影の濃い街を走り抜ける。


 通り過ぎざまに受ける歓声に手を振って、戻ってきたのは大きな広場。

 そこにありったけ集めたやつらをぶち込んで――さあ、最後のステップだ。

 派手に手を叩いて、中身見えてもいいから足上げな。


 気持ちのいい熱量の中で、あたしたちは歌って踊る。

 ここにいたら、黙ってなんかいられない。

 喉が枯れるとかそんな小ざかしいこと言ってないで、思いっきりやらかしていい場所だ。


 誰かの本気に誰かが応えて、そうやって曲は続いていくんだから。

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