花葬・2

 仕事が終わり家に帰ると、出迎えた鐘の口がわなわなと力なく震えていた。

 何かを伝えないといけないのに、言葉が上手く出てこない、伝えたくない、そんな様子だった。


「あの、蓮。落ち着いて聞いてね?」


 鐘は目を伏せて、僅かに涙を眼に溜めているようだった。目元を隠す髪の上からでも、彼女が現在どういう状態かくらいは鈍感な私でも分かる。人並みには、誰かを想う気持ちはあることに自分でも安心した。しかし、鐘の言わんとしていることまでは、残念ながら察することが出来ない。


「鐘、君が落ち着いて。私には何でも遠慮なく言っていいから」


 鐘の肩に手を置き、落ち着かせようと諭すように発した私の言葉さえ振動している。何を言われるのか、恐ろしくて内心気が気ではなかった。冷や汗をかき、家の中にいるのに、逃げ場がないような人生全体の閉塞感。いつも非日常を求めていた私の欲望など、安心の上にしか求めていなかったことを知り、己のくだらなさに絶望した。


「あのね、蓮の。お義父さんがトラックに轢かれて病院に運ばれたらしいの。ついさっきのことらしいわ。お義母さんから連絡があって、電話を切ったらあなたが帰ってきたの」


 これまで聞いたこともないような早口で伝えられた内容は、確かに衝撃的な事ではあった。けれども、実は私の平静、平常を揺らすほどの事柄では無かったので、未知から既知になったことで、心臓の鼓動が鼓膜を叩くのが密かに落ち着いた。とはいえ、鐘にそんな人でなしの安心を悟られるわけにはいかないので、私は大袈裟に驚くふりをすることにした。


「そ、それは……。えっと、もう?」

 心臓のあたりに手をあて、明言を伏せて先を促すように問い掛ける。

「いえ、まだそこまでは。けれど、いつそうなってもおかしくないらしいの」鐘は首を横に振って言った。

「そうか……。とりあえず、車を出すから急いで準備してくれるか?」

「ええ……」


 頭を素早く縦に大きく振ってリビングへ足早に消えていく鐘を確認してから、玄関の靴箱の上の車のキーを手に取り、ガレージに向かう。車のロックを解除して扉を開けてから、鞄を後部座席に投げ込み、それから換気のためにしばらく扉は開け放しにした。運転席に座ると、久しぶりの車内の空気にどことないセピア色のノスタルジーを感じた。もう随分と乗っていないな、と過去の記憶を探ってみるけれども、それは禁煙前のことで。染みついた煙草の匂いが、この感覚の正体だった。


 仕事で疲れた眼を休めていると、鐘が二人分のトランクを持って玄関から飛び出してきた。


「わざわざ私の分まで。すまないな」

「いいえ。仕事で疲れてるでしょうに、こんなことになって余裕がないみたいだから」


 私の胸元の緩んだネクタイを示し、鐘は少しだけ苦笑いした。

 基本的に、職場でもプライベートでも、私はきちんとした身なりでいないと落ち着かない性格だ。特に身に付ける物には同様の規律を要求する。私服は普段からタイトなものを好み、逆にゆるゆるとした服はポリシーに反する。スーツにはストライプなどの余計な柄は要らず、シャツもサイズぴったりに袖まくりなどせず、ネクタイは絶対に首元まで締めて緩みがないかの確認は癖のように何度もしていた。


 だからこそ、己のたった一つの気の緩みに驚愕せずにはいられなかった。


 まさか、自分がネクタイを緩めるような愚行をしてしまうとは。緩んだ格好を好んでする者は、だらけていて根性がないからそうした服を着るのだ。何者にも縛られたくないなどと、規律から離れ。そのくせ他人に迷惑を掛けながら生活の甘い部分だけは享受しているから、私はそうした存在が嫌いで、同じ人間だとは思っていない。


 すぐとネクタイを締め直し、車のキーを差し込んでエンジンをかけた。低い重点音が鳴り響き、その振幅と、車の溌剌とした目覚める音に短く興奮する。この感情の湧きは、男なら大抵が経験するテンションだと疑わない。それから車を発進させガレージを出ると、住宅地の遥か彼方で沈みかける橙色の苦しい光が視界を埋め尽くした。

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短編集・純喫茶 @jun-kissa

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