短編集・純喫茶
純
花葬・1
ニュースキャスターがテレビ画面の中で、無表情に与えられた文章を読みあげている。
そこに感情は許されておらず、まるで機械人形のようだと私はいつも感じていた。むしろ、そうであってくれ、此方と彼方が同じ理であってはならないとさえ思う。
「今日風が強いらしいから気を付けてね」
テーブルの上に朝食を並べながら、妻の椎名鐘が言った。焦るような口調からは忙しさが溢れており、毎日毎日飽きもせず私を支え続けてくれることに、感謝せずにはいられなかった。もし逆の立場ならば、平坦なのにすり減ってしまう日常に疲れ、倫理や常識、義務と呼ばれるものを早い段階に手放していただろう。
「ん。わかった」
しかし、周囲から見れば羨ましがられるような環境でさえ私には閉鎖的で、ときどき無性に叫びたくなる。
埃一つ見逃さない鐘のことを嫌いになっただとか、呆れただとか、ちょっと遊んでみたくなっただとか。そんな平凡でありきたりな理由を抱いているわけではなくて、形のない不安だけがいつも、空気か都会のように監視してくるのだ。虚脱した体にはもうそろそろ辟易してきたし、痛々しいセンチメンタルな心も捨ててしまいたい。
騒々しく感じる画面を視界に入れないようにして、朝食を早々に済ませる。
憧れなのだろうか。妬いているのだろうか。テレビの向こうの人達に。自分とは、こんなにも矮小な存在だったのか。
「行ってきます」
玄関まで送ってくれる鐘に振り返ることなくテンプレの台詞を送り、そのまま出掛けた。
退屈な毎日。
一日も欠かすことなく、玄関から出るといつも脳裏に浮かぶ言葉。人生とは、全ての人間にとって劇的であるべきだ。平穏を望む者も、本来そうではなく、心の奥底では輝けるものなら輝きたいと、誰もが願っている筈だ。幼い頃は普通の感覚で育った私も、気が付くと大人になっていて、偉い人間や有名人を照らす側になっていた。身の丈を知り、無理にでも人はスポットライトを諦めなければならなくなる。その栄光の席は、選ばれた者しか坐ることを許されないから。
電車に揺られること一時間。
職場に着くと、隣の席の同僚が話しかけてきた。
「椎名、お前宛てに……」
そこまで言い差して、私の貌を覗き込んで、そのまま彼は黙った。
朝は低血圧故にいつも機嫌が悪い。眠気や不満を押し殺そうとして貌が強張ってしまう。だからか、周囲には怖がられることが多かった。
「ああ、ありがとう。机に置いといてくれ」
私宛ての封筒を置いて、彼は自分の椅子を引いて坐った。もう随分と長い付き合いになるから、彼は私のそうした面に理解を示してくれていた。言葉のキャッチボールが苦手な私のために、いつも気持ちを察して行動してくれる。こうした人格者が、偉い人間となっていくのだろう。事実、彼には昇進の噂を立っているくらいだ。
成功の影に求められているのは、ひたむきな人間力なのだろう。努力や、誠実さと言ってもいい。人は本能で自分より優れた存在を見たくないので、成功の秘訣が生まれつきの才能だと見せられるよりも、自分が頑張れば届くものだと信じたいのだ。むしろ、そういうものにしか価値を感じない、成功するには人間力を得ればいいと言い切ってもいいかもしれない。特に、現代のそうした流れはより顕著になっている。
では、私に才能があるのか、才能を見返すほどの人間力があるのか、と問われると何も答えられなくなってしまうのだけれども。
大きな溜息を一つだけ吐いて、封筒を手に取り、封を開けて眼を通した。文字を追う間に、同じ部署の同僚たちが次々に出勤してきて、段々と室内が騒々しくなり始めた。
天気が悪いからか、人が急激に増えたからか。かなり空気がこもってむっとした暑さが肌にいやらしく巻き付く。
書類を机に乱雑に投げて、額に滲んだ汗を拭った。
なんのことはない。
ただの仕事絡みの書類。
「……はぁ」
私は一体何を期待していたのだろう。この退屈な日常を終わらせられるような何か、面白いものでも記載されていることでも願ってしまったのか。
ドラマの中に見るような、非日常への招待状でも。
いっそのこと、解雇宣告でも伝えられた方がマシだ、と私は時間が傷を作る思いでいた。
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