*8* 雨の中の救出劇。
あまり動いていないのにしっかりと昼食を摂ってしまったことで、やや気が緩む。そんなだらっとした私に代わり、時々ウルリックさんが集めてくれた枝を火にくべ、火の気が大きくなりすぎないように微調整をしてくれる。
調理をしない分には埋み火程度でも、一度暖まった岩場の中は快適な温度を保っていた。夕方が近付いても雨は止む気配もないので、二人でダラダラと寛ぎ、たまに口を開いては気紛れにこれまで自分達が体験した面白い話などを披露しあう。
けれどウルリックさんの魔獣と戦う冒険譚が面白くて、ついついもっととせがめば、そのたび彼に「本の読み聞かせじゃねぇんだぞ」と苦笑された。だけど低くて落ち着きのある彼の声で語られるお話は、前世で病室の私を楽しませてくれたファンタジー世界そのもので。
お姫様や王子様が出てこなくても、宝物を守るドラゴンやゴーレムはいなくても、ウルリックさんの世界を追想できることが楽しいのだ。けれど、続きをせがまないでも肉食一角鹿との死闘を語り始めてくれた時だった。
――どこかから雨音に混じって、甲高い音が聞こえた気がする。
そして私に聞こえたからには当然ウルリックさんの耳にも届いていて、私達の間に緊張が走った。笑みを消して話を止めたウルリックさんが岩場の入口に近付き、雨音に遮断された外界に耳を澄ませる。
眉間に皺を寄せて険しい表情になった彼の次の言葉が予測できたので、返事をするために姿勢を正した。
「魔獣が近くにいる。俺は様子を見てくるからオマエはここに――、」
「もしも魔獣が一匹でないなら、一人でいた方が危険かもしれないですね。絶対に危ない距離までは近付きませんし、ウルリックさんの合図があれば全力で逃亡してみせます」
案の定な内容にある意味これ以上ないような好カードを切って、暗緑色の瞳を見つめ返す。情けないけれどこれが事実だ。魔法を使える世界に転生すると分かっていながら、ある意味これ以上ないほどやらかしてしまった能力ではある。
ついて行ったところで何の役にも立たないけれど、ここに残っても後顧の憂いにしかならない。進むにも引くにも微妙な存在なら、ついて行った方が安心に違いないと思うのだ。
「それで脅しのつもりかよ。上等だ足手まとい。荷物持ってついてこい」
こちらが食い下がることを薄々感じていたのか、呆れたようにそう言う声は意外にも優しくて。火の始末もそこそこに、私達は束の間の安らぎをくれた岩場から飛び出した。
***
音のするらしき方向へ迷いなくウルリックさんの背中を必死に追いながら走る。足許は雨でぬかるみ、重い泥となって無駄に体力を消耗させ、ブーツを脱がそうとまとわりついてきた。
彼の腰元に吊された矢筒には、私がフォークやスプーンを巻いている布を被せて申し訳程度に雨から守っている。
目的地が段々と近付くにつれ甲高い音が金属と何かが上げる鳴き声と、複数人の人の声だと分かってきて、草と泥の臭いに混じって酸っぱい臭いが鼻をつく。腐敗臭とは違うけど、何だか美味しくない発酵臭。
鼻の頭に皺を寄せながら辿り着いた先は旧街道だった。それにしては何だか足許の泥が粘り気を帯びて、ブーツを引き抜こうと脚を持ち上げると糸を引くけど……。
ウルリックさんは「一旦止まれ」と言って、手前にある茂みに身を潜ませた。その指示に従って身を潜めたものの、足許の気味の悪い感触に眉をひそめていると、目の前に立つ彼が「よりにもよってミスジかよ……俺の武器だと相手が悪いな」と呻いた。
そんな彼の背中からひょこっと顔を覗かせた先にいた生き物に、思わず上げかけた悲鳴を飲み込んだのは褒められてもいい気がする。
何故ならそこにいた生き物というのが――。
「あの、ウルリックさん? 魔獣って、あれ、どう見ても巨大なナメクジじゃないですか。獣ってついたら毛が生えてないと駄目なんですよ? さっき岩場で聞いてた話と違う」
「言いたいことは分かるがな、今はその疑問は置いとけ。一応教えてやれるとしたら、あれは魔獣タイプ“ワーム”だ。それに俺は突然変異種が動物だけだと言った覚えはないぞ?」
確かにそうだ。突然変異種には粘菌もいると聞いたもの。でも分かったところでそれとこれはまた別物だ。パッと見ただけでもウルリックさんを縦に重ねて二人分。適当な目測で約四メートルといったところだろうか?
ブヨブヨと肉厚で醜悪な身体の表面は、雨の中でもそれと分かるほど気持ちの悪い滑り気を帯びていて、どうやら脚にまとわりつく泥の正体は、あれの這ったあとだということが判明した。それと、たぶん名前の由来があの巨体にある三本筋だということも。
ミスジはこちらに気付く様子もなく、一台の馬車と、それを護衛しているらしい人達を襲っている最中だった。我知らずウルリックさんの服を掴んでいたらしく、彼は振り向かないまま私の頭をくしゃりと撫でた。
「ま、あんま気分のいい光景じゃないわな。向こうにはちゃんと護衛もいるみたいだし、こっちにはオマエがいて、俺の武器じゃ相性が悪い。向こうさんには悪いが引き返すぞ」
短い溜息を一つ。彼がそう生き残りをかけた判断をしたところで、不意に向こうの馬車から子供の泣き声がした。そのせいで一瞬ウルリックさんの服を掴んでいた手に力がこもる。
すると目の前の背中が長い溜息を一つ、服を握る私の手を払った彼が「あれの気を逸らす。オマエは目を瞑ってここで待ってろ」と低く言った。
矢筒からおまじないを施していない矢を一本引き抜き、手にした弓につがえる動作はこれまでに数回しか目にする機会がないけれど、とても綺麗だ。姿勢を低く保って茂みを出ようとした彼は、ふとこちらを振り返り「何があっても飛び出してくるなよ」と釘を刺す。
そしてこちらが頷くよりも前に茂みから飛び出し、私の隠れている場所から距離をとったところで、つがえていた矢を弓が引ける限界まで引き絞り――ミスジの背中に向かって放った。
けれど雨を切り裂いて放たれた矢は、ブヨブヨの粘膜に弾かれて本来の威力を発揮できないようだった。それでもそんなことは織り込み済みだったのか、彼はすぐにまた矢をつがえ、一発目と寸分違わない場所へと命中させる。
厚い粘膜の鎧を貫かれたミスジは、馬車の一団からウルリックさんへと標的を変え、その巨体をズルリと動かした。ミスジの動きに合わせてまた背後へと回り込んだ彼は間髪入れずに弓をつがえ、さらに同じ場所を狙って矢を放つ。
同時にミスジに襲われていた馬車へ向かって「行け!」と声を張り上げ、それを聞いた馬車の御者は言われた通りに鞭を振るい、ぬかるんだ旧街道を一目散に走り出す。
馬車の護衛をしていた人達は、突然現れたウルリックさんに驚いた様子だったけれど、すぐに自分達の武器を構えなおしてミスジへの反撃に転じた。
怒りの甲高い咆哮と共に、紫色の毒々しい体液を傷口から噴き出しながら方向転換をしたミスジが気味の悪い身体を大きく仰け反らせ、何かを吐き出す。
すんでのところで大きく後ろに飛んだウルリックさんの姿にホッとしたものの、そんな彼がつい先ほどまでいた場所の泥が、まるで炭酸のようにシュワシュワと泡立っていた。あれが当たっていればちょっとやそっとの怪我では済まない。
心臓が痛いくらいに脈打って、酸素吸入が必要なほど呼吸が乱れる。それでもここから出てはいけないと刺された釘が、私の身体を茂みの中に固定した。
けれど……すぐにウルリックさんの動きがおかしなことに気付く。目を凝らせばブーツを泥とミスジの体液に取られた彼は、足が沈み込んで動けない状況に陥ってしまったようだ。
護衛の人達がそんな彼からミスジの気を逸らそうとするけれど、怒りで我を忘れた巨大ナメクジは、完全にウルリックさんを殺すべき相手と捉えている。
一気に血の気が失せて咄嗟に抱きしめた鞄の中で、不意にカチャリと陶器の小瓶がぶつかり合う音がした。そこでふと閃きと直感と、やけっぱちな勇気が身体の底から沸き上がって。
一本の小瓶の中身を両手に握りしめた私は茂みを飛び出し、こちらに背中を見せていたミスジの傷口に向かって突進した。そんなこちらの姿を見てウルリックさんが怒鳴るよりも早く、私は手に握りしめたありったけの塩を、矢で裂けたミスジの傷口にねじ込んだ。
直後に手に火傷のような痛みが走って引き抜いたけれど、文字通り傷口に塩を塗り込まれた……いや、ねじ込まれたミスジは、金属を擦り合わせたような絶叫を上げ、その痛みを与えた私に向き直る。
一瞬だけミスジの背後に位置を変えたウルリックさんと目が合う。それだけでもう、滅茶苦茶に彼が怒っていることが分かったけれど。私の眼前には背を仰け反らせたミスジがいて。
万事休すな状況に目を閉じそうになった視界の中で、矢羽の付け根におまじないを施した矢を弓につがえ「伏せろ
背中を撫でる熱と何かが弾け飛ぶ音に続き、タンパク質が焼ける時の悪臭が鼻をついた。恐る恐る顔を上げた先には、上半分を吹き飛ばされたミスジのグロテスクな断面図が剥き出しになっている。
一瞬込み上げそうになったものを飲み下していると、鬼の形相をしたウルリックさんが泥から足を引き抜いて走ってきた。私は次にやってきそうな言葉に備えて亀のように首を竦める。
けれど彼は怒鳴るよりも先に乱暴に私を引き立たせ「誰か治癒魔法を使える奴はいるか!」と、まだ動揺が解けきっていない護衛の人達を振り返って叫んだ。
その言葉に反応した中から一人こちらに歩いてくる人を確認した直後、今度こそ「何やってるこの馬鹿! 寿命が縮んだだろうが!」と頭上に雷が落とされる。どうやって謝ろうと言葉を探していたら、治癒魔法が使えるらしい人が隣から「先に治療を」と助け船を出してくれた。
治癒魔法というからにはてっきりゲームでよく見る、いかにも後方支援っぽい魔法使いを想像していたのに、私の手をとって観察する人は明らかに前衛職の人だ。栗色の短髪に明るい茶色の瞳をしたがっしり型の青年は、じっくりと鱗状に焼けただれた手を観察する。
彼に「治せそうか?」と聞くウルリックさんの声は苛立っていて、私も気まずい気分で青年の言葉を待った。彼は無言で頷いてから、私の両手を大きな手で握り込み、何かをボソボソと口ずさんだ。ホワリと青白い光が青年と私の手を包み込んだかと思うと痛みが引いて。
そのことに安堵した途端、フッと身体から力が抜けて。膝から崩れて意識を手放す寸前、咄嗟に支えてくれたウルリックさんが「だがまぁ、よくやった」と、どこか優しい声音で言った気がする。
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