第10話 衝撃と畏怖
その姿はまさしく、竜であった。
その威容はまさしく、幻想の世界から飛び出してきたかのようであった。
黄昏時の薄明かりと背後で燃え続ける炎によって、全身を覆う鱗が金属光沢のような輝きを放っている。
一見四つ足で立っているようにも見えるが、地に着いているのは巨木の如き後ろ脚のみであった。大きく広げた厚い翼はもちろん、刺々しく長い尾もゆるやかに動かしているが、接地はしていなかった。見かけほどの莫大な質量を感じさせないその様は、ある意味優雅な印象を与えた。
鎌首をもたげたその頭高は20m余り。翼開長は50m近く。
呆けたように眺めていた兵士の一人は、胸を張っているいるようなその躯幹に、かつて旧世界の極東にあったとされている仏教の護法神像の姿を連想した。冷たい金属のような鱗を纏っていながら、そのすぐ下にある仁王像の如き隆々とした筋骨がありありと見て分かったのだ。高層建築に匹敵する巨躯に、誰もが、熱した鉄のような強力な生命力を感じ取った。
その場にいたほぼ全員が、自分達を見下ろす竜の眼光に射すくめられていた。
竜は前方防御陣地の前に立ちはだかるように降り立ったのだが、正面にいた兵士も、右翼の兵士も、左翼の兵士も、奇妙なことに、どの場所にいた者も自分が睨まれていると認識していた。玉のように見開かれた眼球は特殊な構造をしており、八方睨みと呼ばれる画法に似た機能を果たしていたのだ。
鋭い牙が並ぶ微かに開いた口腔からは蒸気のように熱い呼気が溢れ出ている。
前線にいた全ての兵士達が、人間大の釘で肩から踵までを地面ごと刺し貫かれたように硬直していた。
戦闘で張りつめ摺り減らし、血糖が不足気味となった各々の神経と脳は、突然目の前に現れた存在が発する濁流の如き情報量に対応できなかった。飽和状態となった精神は、それぞれが語彙として所持している概念の中から、各様の漠然とした印象を選び出した。
その眼光に忿怒を見出す者もいた。
その威容に知性を感じ取る者もいた。
その巨躯に神仏を連想する者もいた。
その風体に優美を認める者もいた。
だが魔獣と対峙した時とも異なる、全身を磨り潰すような恐怖心に関しては皆共通していた。
最初に我に返ったのはオオヤマ曹長だった。
「総員後退! 後退だ! 走れ!」
兵士達は彼の叱責によって気を取り直し、大半が蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。
こちらは装備の消耗の具合に加えて、全くもって準備が整っていない。
そもそも。
あんなものが来るなど聞いていない。
オオヤマ曹長は胸中で激しく悪態をついた。
このままではまともに戦えない。まずは一旦下がって態勢を整えるべきだ。
いや、それどころか……。
その時、機関銃に飛びつく一人の兵士が、彼の視界に映った。兵士は喉の奥から絞り出すように叫びながら機関銃を撃ち始めた。
オオヤマ曹長はその姿を見て。二十数年前、まだ誰もが槍や刀で戦っていた頃の合戦上を思い出した。あの頃は自分も若かったが、もっと年齢が下の、そう今目の前にいる兵士のような若者ほど、不合理な行動を取る。劣勢な状態で前に出てしまうのだ。当然、そういう人間は余程の剛の者でない限りは容易く討ち取られる。
武勲のためか、仲間を守るためか、それとも視野狭窄に陥ってしまうのか……。
扱う武器が高度になったところで兵士の本質的な部分は案外変わらないものなのか、と彼は頭の中の妙に冷静な部分で納得していた。
魔獣を退けている時はあんなにも頼もしかった7.62mmの銃声が、今は酷く小さく聞こえた。竜の体表は、マズルから吐き出された銃弾の悉くを弾き返した。曹長は背筋が寒くなった。
彼は兵士の襟首を後ろから鷲掴んで引きずる。兵士は抵抗した。
「止めないでください曹長!」
「馬鹿者っ! 下がれと言っただろう!」
竜が動いた。
機関銃のグリップから手を離した兵士は、すぐに怯え始めた。
竜が見下ろすようにしていた首をぐっと下げ、地平線に顔を向ける。
大きな一対の翼の角度を変え、首に近付けた。翼を掌だとすると、両手の親指の付け根を合わせているような形である。
その上翼で巨大な球を包み込もうとしているかのように少し曲げているため、正面から見ると、パラボラアンテナを半分に切ったような形状に近かった。
方々に走って逃げていた兵士には聞こえなかっが、オオヤマ曹長は奇妙な音に気付いた。
それがなんであるかは分からなかった。彼は兵士を立ち上がらせ、背中を叩いた。
「行くぞ。とにかく、走れ」
竜に背を向け、走り始めた時、オオヤマ曹長はその奇妙な音が、竜が空気を吸い込んでいる音だと気付いた。
直後、世界が爆発的な音響に支配された。
彼は文字通りの意味で、後ろから津波に襲われたのだと錯覚した。
それはまるで空気の津波であった。
竜が辺り一帯のそれを吸気し一気に吐き出した空気は、爆薬の炸裂によって押し出された爆風波のようになった。さらに、本来であれば全方向に広がるはずだったその衝撃波は、首に寄せた翼の形状によって全てが前方に向かった。
前方防御陣地から逃げ出した者の大半が鼓膜に何らかの損傷を負った。竜と距離が近かった者ほど、被害は大きかった。
竜に最も近かったのはオオヤマ曹長であった。
空気を媒介とした強烈な鈍的外力は、彼の空気を含む器官に肺挫傷などの重大な損傷を与えた。
さらに瞬間的な気圧変化は肺胞を破壊し、胸腔内に漏れだした空気が肺を変形させるほど圧迫し、呼吸不全となった。
この時点で既に彼の肺は爆傷肺に似通ったダメージを負っていた。
彼は全身を襲う痛みと断続的に打ち付ける衝撃波に耐えかね、膝を屈していた。前を走っていたあの少年のように若い兵士が、目の前で倒れ伏した。
荒れ狂う河川の濁流のような竜の咆哮はまだ止まない。
凶悪な空気の振動は頭蓋を越えて脳を揺らし、さらに圧力変化によって網膜の血管が破裂し、閉塞し、涙のように血が溢れ出す。胃と腸もまた破裂、又は挫傷した。
彼は状況が掴めないまま、眼球と耳孔から熱い液体が流れだす感覚を覚えた。既に満足に呼吸はできないというのに、喉の奥から血が溢れてくる。
彼は薄れ、混濁した意識の中で娘の姿を探した。
幼い頃から変わらず好奇心旺盛だった。
前線に近付いたりなどしていないだろうか?
学者達の待機する指揮所の方向を見たが、既に重度の視力障害を起こした彼の眼球は、酷く赤黒く滲んだ世界しか映さなかった。
彼は糸の切れた操り人形のように倒れたが、既にその意識は途絶えていた。
10秒余りの致命的な咆哮が終わりを告げた頃には、竜の視界にまともに動ける人間はいなかった。
足元の死体を気にもせず、さらに魔獣を通さなかった鉄条網を悠々と跨いで、竜は歩を進める。
狂騒から解放された指揮所は、未だ混乱状態であった。
この距離であれば両手で耳を塞いでいれば何とかなった者も多いが、それが間に合わず聴覚に異常をきたした者も一定数いた。
戦闘団団長、クニヒラ大佐は額から脂汗を流しながら悩んでいた。
天幕のランプの照明が、うっとおしい程明るく感じる。
「あんなものが、あんなバケモノがこの世に存在しているというのか……」
どうすればいい?
歩兵大隊との連絡は取れない。迫撃砲中隊はまだ残っているはずだ。だがあれに通用するのか?
「目標、接近してきます。団長、指示をください」
通信員が怯えたような顔で振り返り、凝視する。
ここで撤退すれば、事業の完遂が遠のく。死傷者も、作戦で浪費した武器弾薬の全てが……。
この世界で最も希少なものが無駄になってしまう。
「しかし……」
「攻撃を開始しましょう。魔獣と同じくあれもまた森から来た生物だとすれば、今ここで止めれば何もかも無駄になります」
隣にいた副官が進言する。
「しかしだな……」
「あの巨大生物には飛行能力がある様です。ここで撃退しなければ、国民が被害を受けるかもしれません。そのような事態は絶対に避けるべきです」
その時、無線が声を伝えた。
「CP。聞こえるか。こちらタイガー
指揮所近くで待機していた戦闘車両部隊が前進を開始した。
「くそ、勝手に何を……」
クニヒラが思案していると、天幕の外でざわついている学者達に気付いた。
我々が逃げるわけにはいかない……。
「各隊に通達。民間人が退避する時間を稼ぐぞ。攻撃開始」
天幕の外で待機していたハルは、未だに状況がうまく呑み込めていなかった。
遠方に見える巨大な竜の姿は、妙に現実感が無かった。
「あんなの、森で見たことない。あんなの、知らない」
対してシウは落ち着き払った様子であった。
そこに隊長のイェンと副長のリーが駆け寄った。
「シウ、ハル、無事か」
「はい。問題ありません。ですが、私達はどうすべきでしょうか」
「我々は厳密には戦闘団の指揮下に無い。それにどうせ小銃は奴には通用しないだろう。他の隊員にも伝えろ。学府の連中の避難を手伝うぞ」
「はい」
「了解」
戦場で最も動揺が広がっていたのは、学府から派遣された調査隊員達の待機する天幕の周辺だったかもしれない。
若き鉱物学者のオオヤマは、前線にいたはずの父を見失ってしまっていた。
双眼鏡を首から提げていた調査隊員の一人が、それを手にもって地面に叩き付けた。
「クソッ、クソッ、ふざけんなよ!」
彼は鳥類学を専攻していた。機会があれば猛禽類のような魔獣である
彼もまた他の隊員達と同じく、オオヤマと変わらない年代であった。暴れだした彼を周囲の人間が抑える。
「気持ちは分かる。あんな魔獣がいるなんて聞いてないもんな。みんなも同じだ。だから落ち着けって」
「そこじゃねえよっ」
彼は体を押さえる手を振りほどき、竜を指さして言った。
「あんな巨体が空を飛ぶなんて、航空力学的にありえないんだよ。でもあいつは飛んでた。空を飛んで軍のヘリを攻撃したんだ。分かるかっ!? 今お前らが見てるのは、科学的にありえない存在なんだよ!」
戦闘団の攻撃が始まった。
陣地で待機していた迫撃砲中隊は、未だ敵の全貌が良くわからぬまま指示された地点に向けて砲弾を放つ。9両の戦闘車両は竜と一定の距離を取りつつ展開し、直接照準で30mm弾を叩き込む。数台の軍用トラックから降り、ボルトアクション式小銃を撃つ歩兵も大勢いた。
「そもそもあのサイズじゃ、普通に考えて自重でまともに歩けないはずなのに、後脚だけで……」
傍にいた一人が静かに付け加える。鳥類学者の彼は、力が抜けたように尻餅をつき、肩を落としていた。
「俺が必死こいて勉強してきたのは何だったんだよ……」
彼は目の前の世界が軋み、音を立てて崩れていくような感覚を味わっていた。彼が習熟した『書庫』の知識では処理しきれない存在は、彼が思っている以上に彼の世界観にダメージを与えていた。
オオヤマは彼に近づき、膝を折って励ました。
「大丈夫だよ。きっと骨が普通よりも頑丈だったり、何か特殊なんだよ」
「オオヤマぁ、お前専門は鉱物学だろ。確か森の中で変な石見つけたって言ってたよな? お前だってあり得ないもの見たんだろ、その目で」
「それは……。でも、あれは」
「神様なんて信用なんねえから学者になろうと思ったのに。んだよこれ。総統の馬鹿野郎と
「そもそも、生きて帰れるのかな。俺達」
傍にいた誰かがぼそっと付け加えた。
竜の体表や近辺でぽつぽつと爆炎が花開く。攻撃を受けている竜は損傷するどころか、臆する様子も無く仁王立ちしている。爆発音に紛れているものの、砲弾が炸裂する直前の、金属が金属を弾き返す様な不気味な音が、なお彼らの動揺を誘った。
シウとハルの二人が天幕の一つに駆け付けた頃には、陰鬱な空気が辺りを覆っていた。
「我々が誘導しますので、皆さんは後方に避難してください。早く」
その時、天幕の外のスピーカーに繋がった無線が、凛とした女性の声を響かせた。
「副官のタカナミだ。同志諸君、時は満ちた。これより我らが主の降神の儀を執り行う。天佑と福音を確信し、総員突撃せよ」
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