第5話 潜竜

 帝都中心部にそびえる大帝の居城、陽宮。

 正面の大門をくぐり中心を通って後宮に入ると庭園がある。要衝としての構造上花や緑の少ない宮殿ではあるが、この空間だけは植物にあふれている。お抱えの庭師によって、雑草はもちろんのこと、松の枝の剪定から群生する牡丹の位置まで細部にわたって計算された作りとなっている。

 陽宮の中は、玉座を中心として政を執り行う舞台となる公的なものから、帝を含めた帝族の住む寝殿など私的なものまで、あらゆる間が存在する。どこに行ってもただよっている緊張感のようなものが、それぞれの間特有の臭いと共に漂っている。

 タマキはこの宮殿の作りそのものは嫌いではないが、そういった空気感に居心地の悪さを感じる質であった。この国で唯一にして至高の絶対者として全てを知ろしめす人の娘として生まれた以上、避けては通れない周りの人間からの畏怖の目線。兄達以外の人間達。自分と彼らが同じ空間にいるだけで自然に発生する、透明で重厚な壁。それを隔てた目線を感じ、言葉を聞き、世話を受けているとどうしようもなく実感する疎外感が嫌いだった。ここではどうあがいても自分はやんごとなき人でしかないのだ。

 そんな彼女が唯一安息を得られるのがここ、御花園だった。ここには彼女を畏れる人はなく、何の感情も感じ取れない緑が生い茂る。瑞々しく晴れやかなそよ風が彼女の顔や手を撫で、肩まで伸びた燃えるような赤い髪をなびかせる。牡丹の花が咲き乱れる中を歩いていると、誰かが庭石の傍に佇んでいた。丁度タマキと同じ年頃の、全身を覆う黒い外套のような装いに身を包んだ少女。

「マオ」

 少女はこちらを振り返った。タマキは前々からこの少女の素顔をよく見てみたいと思っていたが、今日もいつも通りフードを深く被っているせいで髪型すらよくわからない。

「何をしてるの?」

「鯉を見ていただけです」

 人工的な池に彼女らの身長と変わらない高さの小さな滝があり、優しいせせらぎが鼓膜を優しく叩いている。水流が落ちている辺りに数匹の立派な鯉が泳いでいた。

「あなたが餌をあげたの?」

「いえ」

 鯉の群れ具合からして誰かが餌をやった直後だと推測したが、どうやら彼女ではないようだ。

 この国の人間にしては珍しく畏怖の感情を向けない無愛想な少女に、タマキは一方的な親近感を抱いていた。直接話せるような機会はあまりないが。

「ねえ、マオ」

「はい」

 タマキは先程と変わらない口調のまま、直裁的に切り込んだ。

「兄上達について何か知らない?」

 数年前から一人ずつ姿を消しているタマキの兄達。大半は失踪し原因も居処も不明である。そして何よりタマキが不可解に思うのは、葬儀が執り行われた3人の兄妹の遺体を確認できなかったこと。遺体は穢れとして相対せない習わしとはいえ、どうにも彼女の脳裏に引っかかっていた。

「いえ。私は何も」

 目の前の少女は顔色一つ変えず簡潔に答えた。数秒間沈黙の時間が流れたが、タマキは何も読み取れないと悟り諦めた。

「ずっと探してるんだけど、全然手掛かりが無くて。ちょっとしたことでもいいから、何か知っていることがあったら教えて欲しい」

「私は兄君達とはあまり関わりがありませんでしたので」

「そう……」

 タマキは肩を落とす。

「では、私はこれで」

 そう言い残してマオは早足で立ち去る。彼女とすれ違う瞬間に消え入るような声が聞こえ、問いただそうとして追いかけたが、すぐに足を止めた。マオと庭園で出くわしたのはこれが初めてだった。そもそも彼女がここにいることに違和感がある。大帝の護衛がこんな場所で、鯉の世話をするでもなく何の用もなく突っ立っているだろうか。

 解答が浮かんだ瞬間に、すぐ傍の東屋で寛ぐ男に呼び止められる。

「タマキ」

 そよ風が止んだ。

「何をしている」

 タマキは声の主の方向を向き、すぐにその場に跪いた。

 軽やかな緑の匂いが一気に霧散し、空気が重苦しくなった。

 常に敬われる立場である彼女が、唯一畏敬の念を抱いて応対せざるを得ない男。この国を統べる者が、そこにいた。

「マオはここに来て日が浅い。あまり問いただすと困ってしまうだろう」

 石造りの土台の上に建てられた東屋が2つある。中央を流れる小川を挟んで東側にあるのが万春庵。西側にあるのが千秋庵。千秋庵は、対となる万春庵と同じく数々の職人の手によって意匠の凝った作りではあるが、決して華美ではなく庭園の植物とどの季節においても調和するような落ち着いた装飾が施されている。

「は。申し訳ありません」

「兄弟を心配する気持ちは分かるが、もういい加減諦めよ。あやつらが戻らなかったところで、国が亡ぶわけではあるまい?」

「はい」

 タマキは跪き目の前の石畳を見つめながら必死に頭を回した。この件について父から直接忠告を受けたのは初めてだった。

 考えろ。考えろ。

 何故直接言う? たまたまここで会ったからか? 父がこの庭を好むとは知らなかった。嫌っているとも聞いていない。いやそんなことは今どうでもいい。いかに冷徹にならねばならぬ立場とは言え普通ならもっと他に言うことがあるはずだ。なのにこれだけか? いや、代わりとなる兄上達を心配するあまり、父を信頼されていないように受け取られたか? これはまずいだろうか?

 様々な感情と推測がタマキの脳内を駆け巡るが、彼が庵から降り、ゆっくりと近付く足音が彼女の思慮を遮る。

「面を上げよ」

 190cm近い長身が目の前にあった。玉体を包むこの宮殿で一人しか身に着けることを許されない黄色の常服が、日の光に照らされ淡い黄金色に輝いている。タマキは眩しかったが、少し腰を曲げて覗き込むように見下ろす男の体で陰になった。日を背にしてはっきり見えるようになった若々しい男の顔が歪んだ。

「この角度だと肩の鱗が見える。見苦しい」

「……申し訳ありません。気を付けます」

 その言葉と表情の意味を察した瞬間、タマキの心は一気に氷のように冷えた。先ほどまでの思慮は雲散霧消し、頭が凍り付いたかのように何も考えられなくなった。

 いつの間にか父が立ち去っていたことに気付き慌てて立ち上がると、既に彼は庭園の北側から出ていくところで、その後ろに付き従うマオの姿があった。

 タマキはとぼとぼと南側から出ていく。出口にある木陰で筋骨隆々の若い禿頭の大男2人が待ち構えていた。それぞれ背中に身の丈ほどの細長い鉄棍を背負い、口元と鼻を布で覆っている。背中の物騒な獲物が木製ならば山伏に見えないこともない。タマキは帝の子ゆえ特別に許されているが、彼女と同じくがしなければならぬ口覆い。

 それがあってもなお目つきや醸し出す雰囲気から、目の前の双子の大男から哀れみの心情が伝わってくる。恐らく庭園の外から様子を窺っていたというわけでもないだろうに。

「よく気付くね。ありがとう。でも、私は大丈夫だから」

 タマキは両手で自分の頬を軽くはたいて気を取り直した。

 物心ついたころから体の各所が蛇の鱗のようになっている謎の奇病。先ほどは父に直接指摘され気が重かったが、こんなことでめげてはいけない。私にはちゃんと味方がいる。父や宮廷の宦官や使用人達とは違い、私を畏れず、気持ち悪く思わない味方が。

「行くよ」

「あぁ」

「うん」

 二人の大男はくぐもった様な声でそれぞれ短い返事をした。

 二人を伴ってしばらく廊下を歩いていると、タマキの兄の一人、リンが声をかけてきた。

「兄上」

「タマキ、タマキ、ちょっといいか?」

「はい。アレイ、アシャク、ちょっと待ってて」

「あぁ」

「うん」

 二人に少し外すよう促す。アレイとアシャクを廊下で待たせ、リンとタマキは誰も使っていない狭い部屋に入った。

「庭園に行っていたのだろう? その、マオはいたか?」

「ええ、いました。しかし、兄上。父上はつい先ほど庭園を出られたので、マオももうあそこにはいません」

「そっか。残念」

 リンは短くため息をついた。

「兄上。噂では聞いていましたが、まさか」

 タマキは訝しむような表情をわざとらしく作る。リンは少しだけ顔を赤らめる。

「言いふらすなよ?」

「マオ、いつもフードで隠してるけど可愛いですもんね」

「女のお前からみてもそうか。やはり俺の目に狂いは無かった」

「ただの護衛とはいえ、父上の護衛ですよ。それにどこの家の者かも分からない。本気ですか? まあ、私は個人的に応援したいですけど」

「最悪、輝宮を一緒に出るさ。一番綺麗でタフな馬の後ろに乗せてな」

「駆け落ちじゃないですか文字通りの。ていうかそもそもマオの気持ちはちゃんと確認したんですか」

「まだはっきりとは聞いていない。でも急がなきゃいけないんだ」

「なぜです」

 リンはタマキに歳が近く、宮廷の中でも特に気の許せる者の一人だった。いつものような軽快な調子で話をしていたはずだったが、リンの顔が突然曇った。

「言わないでおくよ。ああ、それと話は変わるけど、行方不明の兄貴や姉貴達を探してるらしいが、いい加減止めた方がいい。理由は言えん」

 タマキはむっとした。

「先ほど父上にも同じことを言われました。なんなんですか一体。心配ではないのですか」

「え、お前。父上に直接問いただしたのか」

 リンの顔がさっと青ざめた。その顔色の変わりように、タマキは輪郭が見えない焦燥に駆られる。

 リンは自分の髪をくしゃくしゃと乱雑にかき回して悩んでいたが、すぐに胸元から一枚の紙片を取り出し渡した

「危険を感じたら北の皇国の都シオンに行け。ミヤイリという医者を探して俺の名前を出せば匿ってくれる。だがその時にはもう俺を頼ることはできない。一人で逃げろ」

「え、これって、亡……」

 リンはすぐにタマキの口を右手で覆って遮った。

「シーッ」

 タマキは無言でこくこくと頷いた。

「皇国は近々魔獣の森に攻撃を仕掛けるようだが、悲しいかな、恐らく負けるだろう。どの程度の敗北を喫するかはわからんが、とタイミングが重なるかもしれん。気を付けろ」

「えっ」

「勇み足よな……。あの森には、竜がおるというのに」

「なぜ、負けると分かるのですか」

「マオから聞いたんだよ。彼女は魔獣の森について知っている」

「分かりません。突然すぎて、兄上が何を言っておられるのか。整理する時間をください」

「混乱するのも無理はない。だが安心しろ。例え逃げきれなかったとしてもお前は兄上達のように地獄に連れ去られることはない。死ぬかもしれんが、それでもだいぶマシだ」

「分かりません。分かりませんが、もしや兄上も、どこかに行ってしまわれるということですか」

「大丈夫だよ。タマキ、お前は呪いにかかっていないからな。父上や俺達のように」

 呪い? 病気のことだろうか?

 だが呪いというならばむしろ逆のはずだ。

 混乱し沈痛な面持ちのタマキと比べ、部屋を出るときには既にリンはいつもの笑顔を取り戻していた。この切り替える力が、情報収集能力が、何もかもがタマキには羨ましかった。

 まだまだ父上や兄上に負けてばかりだ。私は。

「ああ。そういえばタマキにはお前達がついているんだったな」

 リンはずっと廊下に立っていたアレイとアシャクに気付いた。二人の肩に手を置く。

「タマキを頼んだぞ」




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