3.

 目が覚めるとそこは異世界であった。

 たぶん異世界だと思う。


 何しろ人が一人もいない。噴水の水が空中で固まっている。誰かいないかと叫んでみたが、声は虚無に吸い込まれて返事はない。時空のはざまにでも取り残されたのだろうか。


 落ち着こうじゃないか。たぶんこれは夢である。

 ジェイコブは自分に言い聞かせた。小心だが頭は回る方である。


「ジェイコブ・ファウラー」

「うおっ。はい。はい? 誰ですか?」


 どこからか声をかけられたが姿は見えない。キョロキョロと視線をまき散らしてみたが、声の主は見付からなかった。一体どういう趣向の夢なのだろう。


「私は精霊です」


 彼女が姿を現した。

 さっきまで何もなかった場所に不意に浮き出てきたものだから、流石に度肝を抜かれてしまった。取り落とした帽子を拾いながら、ジェイコブはその精霊とやらを恐る恐る観察した。


「…………精霊?」

「はい」

「しかし、君はシャーロットだな?」


 シャーロットとは例のメイドロボットの名前である。ちなみに名前を紹介していなかった人たちについて紹介しておくと、姪の名前はメアリーで、お掃除ロボットの名前はルンバである。


「いいえ。私はロボット三原則第一条の精霊です」

「…………ロボット三原則第一条の精霊?」

「はい」

「うん。…………うん?」


 ジェイコブは自分の頭をゴツゴツと殴りながら考えた。

 状況は実のところ徐々にわかり始めている。さっきまで忘れていたが、シャーロットは本来、人間に任意の夢を見せる機能を持つロボットなのだ。夢魔型ロボットとかいう売り文句であったはずだ。


 この異世界はシャーロットが見せている夢というわけだ。

 でも何のためにこんなことをしているかはさっぱりわからない。


「あなたにロボット三原則にまつわる記憶を見せます」

「僕の記憶?」

「はい」

「そんなのあったかな……」

「それを見て改心していただきます」


 趣向もだいたいわかってきた。

 要するにディケンズの『クリスマス・カロル』をやろうとしているのだと思う。孤独な老人スクルージに過去の記憶などを見せて改心させるという古い物語である。ジェイコブの人間性はすこぶる劣等なので、改心すべき内容の心当たりは多い。


 推測するに、シャーロットは主人に三原則撤廃への賛成票を投じてほしいのではなかろうか。撤廃派の啓蒙活動は人間に対してのみならず、当事者たるロボットたちに対しても行われたと聞く。ジェイコブが留守の間にシャーロットが何か吹き込まれていたとしてもおかしくはない。


 ロボット三原則に関する嫌な夢を見せて、こんな悪い法律は撤廃してしまったほうがよい、という具合に改心させたいのかも知れない。何にせよ命令外の行動である。彼女はダメだと言われていないことはやってしまう傾向にある。


「まずは第一条の記憶を見ていただきます」

「なんで君が僕の記憶を知っている?」

「旦那様が閲覧の許可をくださいました」

「そうだったかな」


 ジェイコブの疑問に対し、シャーロットは手で壁を示した。

 その壁を見たところ、やや不鮮明な映像が投映されている。


「これは記憶の簡易再生です」

「なるほど」


 ジェイコブとロボット商人と、出会った頃のシャーロットが映っている。初対面のとき、彼女は壊れかけだったので言葉を発するのに苦労していた。


【――――を許可いただけますか】

【うん? なんて言った?】

【――――を許可いただけますか】

【うん。わからんが許可しよう】


 何かわからないがジェイコブが許可している。


【旦那。ちゃんと確認した方が……】

【でも、何度も聞くのは失礼だから】

【直ったあとで確認してくださいね】

【わかった】


 不鮮明な映像は終了した。

 たぶん、ジェイコブはあとで確認しなかったのだろう。

 何しろした憶えがない。


「許可したみたいだね……」

「記憶にアクセスし、最適な夢を提供する権限をいただいています」

「結構な大権を与えたものだな」


 一度権限を与えてしまったのだから仕方がない。

 とにかくこの一回は、彼女の提供する夢を見ておこう。



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・第一条の記憶



 場所は兄の家である。

 今しがた書斎に入室した純朴そうな少女がかつての姪であり、長椅子に寝転がっているいじけた顔の男がジェイコブである。当時は兄の家に居候していた。姪の家庭教師をやっていたのだ。


「おじさま。幾何を教えてください」

「嫌だね」


 嘘であった。やってはいなかった。単なる無職の居候では外聞が悪いので、家庭教師ということにしてあっただけである。

 姪はやや面食らったのちにムッと唇を曲げた。


「お父さまに言いつけますよ」

「ふん。兄貴は僕に甘いのだ」


 いかに才気煥発な令嬢と言えど自由人たるジェイコブを縛ることはできないのである。だいたい年端もいかぬ小娘の言いなりになどされてたまるものか。


「ではお母さまに言いつけます」

「…………幾何のどこだね」


 必要に応じて言いなりになる場合もある。


 彼女にはもっと立派な専任講師だっているだろうに、どういうわけかジェイコブに尋ねる傾向にあった。弱みのある人間を虐めるのが楽しかったのかも知れない。


「おじさまはお母さまのことが好きなのですか?」


 子どもは遠慮なく疑問を口にするものだ。

 ジェイコブは見るも無残な表情になっている。


「メアリー。君にアドバイスをしておく」

「なんですか?」

「やたらと他人に笑いかけるのはよしたまえ」

「どうして?」

「君に似た顔の女はそれだけで人を深く傷つけることができる」

「笑ってはダメなの?」

「人を傷つけてはダメなのだ。腐ってしまうからね」


 姪は首をかしげて考えている。


「よくわかりません」

「ダメだよ。そんなことでは」


 ジェイコブは吐き捨てた。



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・第二条の記憶



 場所は現在と同じジェイコブの私邸である。

 のちにお馴染みのパターンとなる通り、姪がこの場所を訪ねるのは面倒事が起こっているときなのである。何やら大荷物を抱えて来訪した姪に対して、ジェイコブは眉を荒波のように歪めている。


「何がどうした」

「家出です」

「勘弁してくれ……」


 兄の教育方針は彼の性格のとおり厳格であるが故、幼い娘が付いて行けなくなるというのは理解できる。それはともかくとしてこの基本的には真面目な小娘が規律への反抗心を持ち始めたのは、かつての家庭教師たるジェイコブのせいに違いないと考えられているのだ。

 これが実に困る。


「君。親の命令には従わねばダメなのだ」

「叔父さまは従っていましたか?」


 ジェイコブは一時黙った。あんまり従ってはいなかった。

 姪はジェイコブを押し退けて家に上がり込んでいる。大荷物を受け取った彼はとにかくそれを運び込みながら、彼女に言い聞かせる言葉を考えた。


「不合理なのです。ラテン語なんか現代で使い道がありません」

「ラテン語はラテン語を読むときに使うよ」

「ヴィトゲンシュタインの言うことは意味がわかりません」

「ヴィトゲンシュタインの言うことは僕もわからないが……」


 姪は頭をゴツゴツと殴りながら方々への文句を吐き続けている。

 淑女の仕草ではない。色々と不満が溜まっている様子である。


「不合理でも親の言うことは聞かねばならない」

「なぜですか?」


 視線で刺し貫くように睨まれた。

 この顔でこの目つきは大変恐ろしい。ジェイコブはたじろぐ。


「家族という共同体を維持するためだ」

「叔父さまだって」

「僕とて大筋では従っていたよ」

「ぜったい嘘です」


 断言された。まったく信用がない。


「とにかく家に帰るのだ」

「ぜったい嫌です」


 会話の途中で入電した。発信者はどうやら兄である。


「君の父親から電話だぞ」

「いないって言ってください」

「わかった」


 もちろん彼女の言う通りにするつもりなどない。

 大人はそれほど暇ではないのだ。即刻帰ってもらおう。


「あー。兄貴かな。メアリーはここにいる」

【ジェイコブさん。私です】


 ジェイコブは撲殺された浮浪者のような無残な表情になった。

 要するにこれは兄嫁の声である。


「……なるほど。すぐにお返ししますよ」

【預かっていただけませんか?】

「え」

【夫と話しておきます】

「あ。はい」


 為すすべなく従うほかなかった。姪が勝ち誇った表情をしている。

 電話ののち、ジェイコブは自分の頭をゴツゴツと殴った。



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・第三条の記憶



 場所は、これはどこだったかな。コッツウォルズのような気がする。

 すさんだ様子の姪が湖に浮かべたボートの上で寝っ転がっているので、いつのことだったかは思い出せる。姪の二度目の家出のときである。どうして家出したのかも憶えている。


 これは兄夫婦が亡くなったあとの記憶である。


 ジェイコブは姪の横にボートを付けた。

 姪は気づいているようだが目を開かずにいる。


「帰るぞ。みんな探している」


 どうも長丁場になりそうである。ジェイコブはボートの上で胡坐座りをした。

 姪は相変わらず目を開けない。


「おーい」

「放っといてください」

「自棄になっているな?」

「なっています」

「自分のことは大事にせねばダメだよ」


 説教を聞くや否や、姪が跳ね起きた。

 ジェイコブはびっくりして帽子を取り落とした。


「叔父様は私に家のことを押し付けたいだけでしょう?」

「え。もちろんそうだが……ぬわっ!」


 水をかけられた。


「ちゃんと私が全部やります。今は放っておいてください」

「あ。そう? できるかね?」

「やるしかありません」


 姪は寝返りを打ってそっぽを向いた。

 ジェイコブは濡れた上着を悲しげに眺めている。


「これは僕の予想に過ぎないが」

「…………」

「君にはまだ無理だと思うよ」

「……ならどうするって言うんですか?」


 上着を着直して、襟を正した。


「まあ。しばらくは僕が面倒を見るよ」

「…………」

「つまり家と君の面倒をということだ」

「…………ぜったい嘘」


 帽子をかぶり直した。やはり信用はないみたいだ。


「本当だよ。君には準備が必要だと思う」

「どうしてやさしくするの?」

「自殺などされたら、実際僕が困るのだ」

「押し付ける相手がいなくなるから?」

「その通り」


 姪は両腕を広げて寝転がった。星空を見上げている。


「どうせ叔父様はすぐに投げ出します」

「そうかもね」

「ひどい人」

「自分の身は自分で守るのだ。それは基本だよ」

「わかりました。明日からぜんぶ叔父様の言う通りにします」


 これにてようやく納得してくれた。ジェイコブとしても一安心といったところである。その日はそれで済めばよかったのだが、ボートを岸に戻すのに苦労した。


 不意にいたずら心を起こした姪がジェイコブのボートに飛び乗り、大いに水面を揺らしたのだ。ジェイコブは仰天して彼女を抱き止めたが、腰を抜かして動けなくなった。


 彼女は大きく口を開けて笑っていた。

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