第69話 デート
果たしてチグリスをどうするか、それは偉い人も悩んでいるんじゃないかと僕は思う。
ここしばらくで何度かチグリスは動員されたけど、いずれも能力を探るような使われ方だったと思う。戦闘だけじゃなくて索敵とか通信の能力だ。最前線の陣地からチグリスで視られる限り全ての地形や敵の動きといった情報を僕はたくさん本部の戦術作戦室へ送った。
たぶん将校のおじさんたちは、スカイデーモンの発生源がどこにあるかを突き止めたいのだろう。僕らはあまりに敵を知らなすぎた。
そうしてチグリスで送った情報はとても有用だと褒められたけれど、続く任務ですっかり不調になっている僕に喜ぶだけの余裕はない。
そして日中がクソ暑くなった頃、漸く彼らは決めた。チグリスは現状維持。強力な兵器として使われる。
「今日は図書室へ行かなかったのか?」
カラカラとクローゼットの扉が開いて、皇女様が何処かから帰って来た。部屋の隅で壁にもたれる僕に気づき声を掛けてくる。
僕は小さく頷いて応えた。
「うん。ここでのんびりしてた」
今日は休息日で、いつもなら図書室で過ごしている時間だった。目の前まで来た皇女様が膝をついて僕の顔を覗き込んでくる。
「どうした? 具合が悪いのか?」
皇女様の長い髪がくるくると踊って煌めく。
「悪くないよ」
本当に体に具合の悪いところはない。ただ
「そうか。なら良いが」
でも皇女様が帰って来たから、僕は頭や体と決めていた予定のために動き出す。
「ねぇ、エマ」
「なんだ?」
大きな翠の瞳がじっと僕を見つめている。僕は出来うる限り最大の笑顔で言った。
「デートに行こう」
「は? で、デート? な、なにを、突然」
やっぱり急すぎたのか、皇女様がわたわた動揺する。赤くなって目を見開いて、そんな顔も可愛い。
「デート、嫌?」
「嫌、とかではないが、でも」
「じゃあ行こう」
驚いたままの皇女様の手を掴んで僕は立ち上がる。ちょっと強引で申し訳ないと思うけれど。でももう僕には時間がない。
僕が皇女様を連れていったのは、基地の高いところにある見晴らしのいい屋根の上で、立入禁止というか普通は人が来ることなど想定されてない場所だった。
「よくお前はこんなところを見つけたな」
途中当然のように抜け穴を使う僕を皇女様が呆れた目で見る。僕は軽く肩をすくめてその視線をかわした。突然言い出したように見えて、このデートのために僕は随分と準備したのだ。けど、そんなことは皇女様が知らなくていいことだった。
大きく傾いた日は空を赤く染め始めている。そう、ここからはちょうど地平線に沈む夕日が見られるはずだった。
「エマと一緒に夕日が見たくて」
柵もなにもない屋根から落っこちないよう、隅っこに二人並んで腰を下ろす。
「しょぼいデートでごめん」
普通はデートと言えば、どこかへ出掛けたりご飯を食べたりするものだろう。でも基地の中でそんなことができるはずもなく、というか、一緒に夕日を見ようと思い付いたからそれをデートと呼んでみただけだった。
「うむ、しょぼい。実にしょぼいな」
皇女様がくすくすと笑う。どうやら“しょぼい”という言葉がお気に召したらしい。
「とてもアオイらしい、いや、私たちらしいデートだ」
吹き付ける風が皇女様の髪を揺らした。風の冷たさに皇女様が身を縮める。ああ、なんともうっかりしていた。昼間は暑いけれど、日が傾くと途端に寒くなるのが今時分の季節だ。
僕は急いで上着を脱いで皇女様の肩に掛けた。
「それではお前が寒いだろう」
「寒くないよ」
最近は暑いとか寒いとかの感覚も鈍っていて別に平気なのだ。
「そうか。だが、風邪を引いてはまずいからな」
そう言った皇女様がもそもそと身を寄せてくる。肩も腰も僕らはぴったりくっついた。
「風邪を引かないためだからな」
顔を赤くしながらツンと澄ましてそう言う皇女様は可愛かった。そして触れた皇女殿下はとても暖かい。却って風の冷たさが分かるようになって、僕は久しぶりに寒いという感覚を思い出す。
大きく赤くなった日がじりじりと落ちていく様を僕と皇女様は二人でくっついて見守った。
「思っていたより夕日とは早く沈んでいくものなのだな」
皇女様がポツリと呟く。
「こんなに美しいのに、私はちゃんと見たことがなかった」
「僕もだよ。居住区は高い建物ばかりで、陽はあんまり見えないから」
「そうなのか。私は、」
沈みきった太陽の残照が、空の色を染めかえていく。
「行けもしない所を見るのが、なんとなく怖かった」
皇女様は基地の外へは出られない。
「エマは外へ行ってみたい?」
しばらくの沈黙。それから皇女様は静かな声で言った。
「ここでの暮らしに不足はない。皇女の待遇に不満もない。たぶん、私は多くの人より恵まれている。それなのに外へ行きたいとは、言えない」
本当にそうなんだろうか。彼女は恵まれているのだろうか。僕にはよく分からなくて、何を言えばいいか分からなくなる。
黙ってしまった僕に皇女様は小さく笑った。苦い笑みだった。
「なんにせよ、いずれは私も
皇女様のお父さん。前の皇子だったはずの人。その人は娘を軍に備品として差しだして出ていった、のではなかったか。皇女様はお父さんと会ったことはあるんだろうか。
ぼんやり考えている僕に、皇女様は自分も同じようにしなければならない、と言う。
「それが私の皇女としての務めだ。子が産めるようになったら誰かと子を生し、その子を次の皇子とする」
皇女様の翠の瞳には刻々と
「そう決まっているし、皇女として心得ても、いる。だが。時折とても怖く思うことがある」
震える息が吐き出され、触れた肩からその所作のいちいちが直に伝わってくる。
「私は誰の子を産むのだろう」
掠れた声が懸命に言葉を紡ぐ。
「その子を、私はここへ置いて出ていくのだ。その子は皇子として生きなければならない」
それは産んだ子供を捨てるということだ、と皇女殿下は言った。
「捨てるために産むのに。誰を、誰と、生せばよいのだろう」
小さく小さくしぼんでいくようなその声は、今にも消えてしまいそうだった。
「できるのだろうか。しなくてはならない、んだろうか」
彼女の不安と恐怖。僕には、か細く震える肩から漠然と感じることしかできない。子供を産むとか生すとか、僕にとってはあまりに遠い未来の話で現実味がなく、それを想像してみるのも難しい。
「なぜ私が皇女なのだろう。私は、どうしたらよいのだろう」
皇女という運命の檻に閉じ込められた小さな
「アオイ」
繋いだ手を見つめてエマが僕の名前を呼ぶ。
「私と」
言いかけた口が閉じる。顔を上げたエマは、ひどく悲しそうな顔で微笑んで僕を見つめた。
「アオイ。私と、もう少しでいい、一緒にいて」
小さな小さな願い。暮れなずむ空を背にした皇女様の微笑みは泣きそうで儚げで、僕はああと氷解した。
エマはずっと探していたのだろう。誰か、自分を皇女の運命から救ってくれる
そして彼女が言いかけて止めたのは。どんな言葉だったのか。それは分からない。
答えない僕にエマの瞳が大きく揺れた。慌てて僕は握った手に力を込めた。
“もう少し”。
ただそれだけの願いを叶えることさえ、僕にはできるかどうかが分からない。彼女が思うほど僕の時間は残っていないだろうから。でも。だから。
僕は僕の全てをエマに捧げて構わない。
僕はエマの
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