第68話 薫香
楽しかった帰省はあっという間に終わった。
僕は休暇最終日に余裕をもって寮へ戻った。荷解きする僕を皇女様が上から眺めて言う。
「家族は元気だったか、アオイ」
「うん。ただ、妹。小さい妹が」
「妹が?」
「僕の顔をすっかり忘れてて。すごい泣かれた」
わざわざハイハイで近づいてきて、僕を見て泣くというよく分からないことを何度もされた。
「エマは、冬至はアルと過ごしたの?」
ちょっとだけ気がかりだったそれを聞いてみる。まさかないとは思いつつ、皇女様を抱くアルの絵面がちらついてしまってしょうがない。
皇女様はきょとんとした。
「冬至? いや、冬至の日は、軍上層部もパーティーがあるからな。私は一日ほぼ公務をしていたが。アル・ミヤモリがどうかしたか?」
「ううん。どうもしないよ」
皇女様の返答になんとなくほっとする。でも、それならアルは冬至を一人で過ごしたんだろうか。切符代を貸してくれたお礼をもう一度言っておこう。特にお土産とかはないけど。
翌日にはいつも通りの学兵生活、というか休み気分を吹き飛ばすハードな訓練が始まった。走らされるぐらいならもうどうってことないが、最後のギアローダー訓練がしんどかった。
チグリスから降りた途端、ひどい眩暈に襲われる。気持ち悪くて吐き戻したい。けれど体には吐き気も吐く気もないから僕は吐くことができない。どうしようもない悪心を抱えて踞る。
久しぶりに乗ったからだろうか。2時間かそこらの訓練でこんなに悪くなるなんて。いつもなら皇女様の待ってる部屋に戻ろうというチョロい誘いに乗ってくる体と頭が、今日はぐずるばかりで一向に言うことを聞かない。
「大丈夫ですか?」
声を掛けられても答えることもできない。邪魔だったのか、隅へ寄せられて僕は丸くなった。
「水はいりますか?」
体が拒否してる。微かに顎を振って断る。
「そうですか。まあ、そこなら好きなだけ休んでいってくれて構いませんので」
それから随分長い時間、僕はそこで丸くなっていたと思う。いい加減もう大丈夫だろうと少し動いてみると、ようやく頭も体も自分が人間だったことを思い出したらしい。僕は深く息を吐き出して、宙に気持ち悪さを逃がした。
「お。動けるようになりました?」
近くで作業でもしていたのか、技術上官が立ち上がった僕にすぐ気がついて声を掛けてくれる。
「……すみません。大丈夫です」
声も出た。まだ少しふらつくけれど、ゆっくり慎重に動けば寮の部屋ぐらいまでは行けるだろう。
のろのろと動き出した僕を見て、上官は何か言いたげな顔をしたが特には言わなかった。
「ありがとうございました」
礼だけ言って出ようとしたが、思い直して立ち止まり、もう一度振り返る。
「あの、いっこ聞いても、いいですか?」
「はい? なんです?」
僕はぐるぐるする頭を一生懸命働かせて言葉を考える。
「前に言ってた、チグリスが弱くなるっていうやつ」
「ああ。神経接続を調整すると能力が低下する、というあの話ですか」
「それ。それすると、チグリスはどういう感じになりますか?」
「詳しくは調整することになればその時に話しますが」
上官は考え込む顔でうーんと唸った。
「簡単に言えばですね。現状の
それ簡単に言ってる?
「……つまり、頭と体が切れてるってことです。
「ないですけど。神経接続のギアローダーはみんなそうですよね?」
「そうでもないです。適性の問題ですかね。なかなか完全に切れる操縦者はいなくて、大抵は感覚ありますよ」
驚くと同時に納得する気持ちになる。道理でギアローダーに乗っていても皆声を使って話したりしてたわけだ。体の感覚のない僕は声を出せない、というか出すためにはチグリスを通して体に発声の指示を送らなくてはいけなくて、なんでそんな面倒なことをしてるのだろうと不思議に思っていた。が、周りからしたら声も出せない僕の方がおかしかったわけか。
「搭乗中の体は
「……そうすると?」
「思考や感情の影響を受けて、体の心拍数や血圧の変化、場合によっては発汗発熱流涙嘔吐などの症状が出ますね。そうすることで、
「チグリスの能力が落ちるっていうのは?」
「降りたあとに頭痛や吐き気に襲われているでしょう。それが操縦中に起きます。体の感覚がなければ直接的な影響は薄いはずですがね。それでも思考力や集中力の低下、疲労で
なんとなく分かった。もしあの津波の中で戦った時。あの時の僕の体が穏やかに眠っている状態でなかったら。感情のままに激しく鼓動して息が上がって泣いて吐いて喚いている状態だったら。
「それ、すごく弱くなります」
「かもしれません。戦闘能力に限らず、他の脳を過度に使用している
上官は、性能を抑えて長く使うか、最高性能で使い潰すかだと言った。
「460301。どっちがいいですか?」
今のままで僕は自分がもうどれほども持たないことが、分かっている。でも。性能を抑えても、その弱さで戦場へ出されるのは、とても恐い。
「分からない、です」
「ですよねぇ。まぁ、お偉いさんに悩んでもらいましょうか」
どっちになったところで、いいことはあんまりない。
重たい体を引きずるようにして僕は寮の部屋へ戻った。
時間はまだ夕飯の食べられる時間だったけれど、食欲は一向に湧いてこなかった。腹に食べ物は入っていないはずだし、それなりに動いてカロリーも消費してしまったはずだ。それでも体は食べたくないという。食べて消化するのは面倒だから、楽ちんな栄養だけをよこせと言う。食べたらおいしいし楽しいだろうと思うのだけど、そう思ってるのは僕だけで、体にとって食事はただの面倒らしい。困る。まぁ、おいしいなんていっても、頭が認識してくれないときは味も匂いも分からなくなって、僕にとっても食事は苦行になるから体の言うことも分からないでもない。
一食二食抜くぐらいならまだいいが。このまま食べられなくなったらどうしよう。そう思いながら部屋の扉を開いた。
途端に鼻を打つ、経験したことのない、濃い匂い。刺激的なそれに僕も頭も体もびっくりして固まる。なんだ、これ。
「アオイ、遅かったではないか! なにかあったのか」
僕の椅子に腰掛けた皇女様がくるりと振り返る。さらに漂う香ばしい匂い。なんだこれなんだこれ。煙? 油? みたいな匂い? 全然分からないけど、でもなんか。おいしそう。
「……エマ。これ、なにか、なんの匂い?」
殿下に近づくと、より一層匂いが強くなる。間違いなく皇女様が匂いの発生源だ。いつもは甘い匂いなのに、今日の皇女様はおいしそうだ。この匂いは腹に響き脳を溶かして心を打つ。そういう匂いだった。
鼻を動かしながら近づく僕に、皇女様は顔を引きつらせて慌てて自分の服の匂いを確かめ始める。
「……に、臭うか……? す、すまん。シャワーを浴びる時間がなかったから」
「なんの匂いなのこれ?」
「……いや、今日は、会食で、メニューが焼き肉、だったのだ。だから、ちょっと臭いが」
「やき、にく?」
なんだそれは!? 焼くのか、肉!?
「肉って、肉ってまさか、まさか鶏を焼いて食べたの!?」
僕ら庶民が口にできる肉なんて工場産のトカゲがいいとこだけど、軍では時々食事に鶏肉が出る。皇女様のお食事ともなればいつも鶏肉で、だからこんなにいい匂いなんじゃないかと思う。
「ま、まぁ、鶏も少しあったが。でも、だいたい、牛とか豚とか」
牛!? 豚!? なんだそれ!! 肉って焼くとこういう匂いになるの!?
「ちょ、ちょっと、もうちょっとこの匂い嗅がせてもらっていい?」
「は!? い、いや、だ、駄目だ! 匂いを嗅ぐって。なに言ってるお前」
そんなこと言われてもこの匂いは容赦なく僕を惹き付ける。もっといっぱい吸い込みたい。なんかお腹も空いてきたし。僕は皇女様に目一杯近付いて思いっきり焼き肉の匂いを楽しむ。
「おおおおお前っ! 普段はまったく寄って来ないくせに! この痴れ者がっ!」
どんっと皇女様に突き飛ばされて僕は床へ尻餅をつく。
「いてっ」
「これでもくらえっ!」
「え?」
倒れた僕に天井が降ってきた。いや、天井っていうか。天井の一部が柱みたいに降ってきて僕は押し潰される。
「ぐえっなにこれ??」
ぐいぐい押さえつけられて僕は動けない。なんだこれ。
「私はシャワーを浴びてくる! お前はそこで頭を冷やしておれ!」
皇女様はそう怒鳴ってクローゼットへ飛び込んでいった。
「あ、ちょ、エマっ」
慌てて呼び止めるが、もう姿はない。
部屋の匂いはやや薄らいだが、でもまだいい匂いが微かに漂っている。
「……エマ」
苦しい。っていうか。なんかお腹空いてご飯食べたくなったから、僕も食べに行きたい、んですけど……。
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