第64話 ぷんぷん
アルは自信ありげにいいものを思い付いた、と言う。でもここまでの流れを考えると、あまり信用できない。
「……なに?」
「アオイ、お前さ。皇女殿下様のこと、まだ『殿下』って呼んでるだろ」
そりゃあ皇女殿下様だから。
「いい加減それ止めて、名前で呼んでみろよ」
「は?」
殿下を、名前で呼ぶ?
「え? それが、プレゼント?」
なんだそれ。意味分かんない。なんでそれがプレゼントになるんだよ。
「そうだよ。だって絶対名前で呼ばれる方が嬉しいに決まってんだから」
アルは言う。
「アオイだって皇女殿下様に番号で呼ばれるより、名前で呼んで欲しいだろ」
確かに、皇女様はいつも僕を名前で呼ぶ。いや、いや、でも。殿下というのは称号であって、別に番号ではない。
「おんなじだよ。皇女殿下様を『殿下』としか呼ばないのは、記号で呼んでるようなもんだ。ずっと仲良く一緒に暮らしてるくせに名前で呼んでもらえないなんて、俺ならかなり怒るぞ」
そう、そうなのか。実は殿下、怒ってるのか。
「で、でも。名前、殿下の名前長くて……僕は覚えてない……」
「おい」
呆れ返ったアルの声。
「皇女殿下様の名前は、エマニュ、エ……なんとか、かんとか」
アルも覚えてないんじゃないか。
「とにかく。エマ! エマって呼べば、それでいいんだよ」
エマ。僕が皇女様を、エマって名前で呼ぶ。
「……それで、殿下喜ぶ?」
「そりゃあもちろん。きっと喜ぶ。っていうかほら、殿下じゃなくてエマだろ、エマ」
アルに促され口を動かしてみるけど、うまく言うことができない。
「ヘタレ」
違う。これは、体が言うことを聞かないだけ!
「ともかく、騙されたと思って今晩試してみろよ。きっと皇女殿下様喜ぶから」
アルに突っつかれ、僕はぎこちなく頷く。そこでちょうど訓練の始まる時間になった。
「あの、殿下」
夜、僕は下から殿下を呼んだ。もちろんプレゼントを渡すため、に。
「ん? なんだ?」
皇女様がひょっこり顔を出す。それはいつもと何ら変わらない動作で変わらないお顔なのだが、僕はどぎまぎする。
「あの、えっと」
名前を呼ぶ。名前で呼ぶ。ただそれだけなのに、それが出来ない。っていうか、突然名前だけ呼ぶって、それ変じゃないか?
「ええと、さ」
どうしようどうしようと思う。でも、ともかくなんでも名前を呼んでみるしかないのだから、だから名前を呼んだらいいのだ。
声を掛けておいて何も言わない僕に皇女様が首を傾げる。
「だから、どうした?」
不審げになっていく皇女様に僕は焦る。早くプレゼントを。……やっぱり名前を呼ぶのがプレゼントって、おかしくないか? なんて、今さら考えている猶予は、ない。呼んでしまえ。
見つめてくる皇女様の瞳を見据え、いや、やっぱりおろおろと視線をさ迷わせ、たった一言、エマ。たった一言だ。しかし名前を口にしようとするだけで、頭は緊張の臨界点に達し、体が熱暴走を始め、どうしようもないほどコントロールが利かない。そして僕は、情けないほど動揺していた。
「なにか、具合でも悪いのか?」
とうとう心配した皇女様がベッドを降りてきてしまった。立ち尽くす僕に近づいてくる。
「顔が赤いな。熱でもあるんじゃないか?」
心配そうに額へ手を伸ばしてくる。近い。皇女様がめっちゃ近い。いつになく、あ、触れられた。柔らかい皇女様の手のひらが僕のおでこにひたりと当てられる。
「やはり熱い。動けないほど辛いのだな? とにかく医務室へ。行けるか?」
さらに手を伸ばしてこようとする皇女様を捕まえ、僕は慌てて引き剥がす。
「ち、違う。別に、具合は悪くない」
「だが、熱が出ているぞ」
「違う。大丈夫。違うから。ちょっと、ちょっとだけ待って」
は?という顔をする皇女様を尻目に僕は目を閉じて集中する。
よし、よし。落ち着け。全員聞け。どうする。皇女様の名前、呼ぶ?
そう自分に問いかけてみるが、頭も体も完全に尻込みしくさっている。ついでに僕もすっかり及び腰だ。
やっぱり止めておこうか。
そう、思う。思うけど。アルが、名前で呼んだら皇女様は喜ぶと言った。殿下って呼んでいたら怒る、とも言った。
僕は皇女様に喜んで欲しい。だから名前で呼びたい。
よし、よし。やるぞ。僕は目を開けて皇女様を見つめる。
「アオイ・カゼ……壊れたのか?」
悲しそうな皇女様。っていうか、壊れてないよ! なにさりげなく叩こうと手を上げてんの。
「あのさ、殿下。僕は殿下にお礼というか、プレゼントを贈りたくて考えてたんだけどね」
「え。どうした、急に」
皇女様が眉根を寄せる。その表情もまた可愛い。近くで見てるから、破壊力がすごい。
「考えてみたけど、あげられるものが何もなくて」
「なにをそんな、別に私は」
何か言いかける皇女様の口を指でふさぐ。とりあえず黙って聞いて欲しかった。
「だから。エマ。って名前で呼んでもいい?」
そっと指を離すと、皇女様はぽかんと口を開けた。口を開けたまま固まった。
「あの、エマ。エマ?」
焦って何度か呼び掛けると、皇女様のお顔がみるみるうちに赤く染まっていく。真っ赤な顔で彼女は口をぱくぱくと動かした。
「え、エマ……?」
「お前よくも皇女である私を名前で呼ぶなどと、そんな、大それた、あれを、どういうつもりで、なんの権限で、皇女の私を、あろうことか名前で!」
真っ赤な顔で突然怒った。え、喜ぶ、んじゃないのか。ええ、すごい怒って、る? いやだって、喜ぶって。そう、言ったのに。そう思ったから、呼んだのに。呼んだだけなのに。
「ご、ごめん……! そういう、つもりじゃなくて、ただ、だから、ごめんなさい」
喜ばせるつもりが思いっきり怒らせてしまった。どうしよう。どうすればいいんだろう。
僕はおろおろと謝り続ける。
「ごめん、殿下。もう、しないから」
真っ赤な顔でそっぽを向いた皇女殿下が、ちらりと僕を見て言った。
「だが。だがだ! よくよく考えれば、私は皇女ではあるもののこの部屋の備品でもある。そう、この部屋の備品だ。部屋の
……いやまあ。部屋の備品を管理番号とかで呼ぶ人はそういないだろう。
「だから! 特別に! 特別にお前だけは私を名前で呼ぶことを! ゆる、許してやらんでもないぞ! あ、アオイ!」
ものすごく顔を真っ赤にして、ものすごい勢いで叫んで、ものすごく怒っているのだと思うけど。でも皇女様は確かに名前で呼んでいい、と言った。
「本当に? え、ありがとう、エマ」
特別に、というのが嬉しくなってもう一度名前を呼ぶと、皇女様はふるふると口許を震わせた。
「あ、ああ。だが! ふ、二人っきりの時だけだぞ。他に人のいるところで名前で呼んだら、お、お前が怒られるんだからな!」
「うん。気を付ける」
僕はぷんぷんしている皇女殿下を間近で楽しんだ。
本当は皇女様を喜ばせるためになにかあげたかったんだけど。逆に怒らせてしまったみたいだけど。
これはこれでなんか嬉しいから、まあいいや。
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