その3
その日の午後は、授業なんて頭に入ってこなかった。
ずっと唇がじんじんして。
意識するたびにあの光景がリフレイン。
心臓が高鳴って、顔が熱くなって、そのたびに友達に心配された。
結局、先生にもそれを指摘されて、私は熱があると言って保健室で休むことになったのだった。
私がベッドに横たわり、カーテンを閉じると、保健室の先生は用事があるとか言って出ていく。
まあ、ありがたい。
変に人がいるより、一人きりのほうが安心して休めるから。
今のうちに気持ちを落ち着けておこう。
どうあがいたって、家ではお姉ちゃんと顔を合わせるんだから。
「はあぁ……」
天井を見つめながら、大きく息を吐き出す。
すると次の瞬間、シャッ! とカーテンが開いた。
「よう」
「んひょええぇぇぇええええッ!?」
突然の襲撃に、私は後ろに飛び退き、ベッドからずり落ちる。
誰なのこいつ、変な声出ちゃったじゃんもー!
どうやら隣のベッドに寝ていたらしい彼女は、能天気な面で不思議そうにこちらを見ている。
……ってこの人、少し前に見たぞ。
あれだ、お姉ちゃんと私がキ……キ、き、その、そういうことしてるときにやってきた、お姉ちゃんの友達っぽい人だ!
「そこまでビビらなくてもいいだろうに」
「お、驚くに決まってます! 心臓爆発するかと思いました! 何なんですかあなた!」
「
爽やかに笑う栗生先輩。
短めの髪、人懐っこいが凛々しい表情、そこそこ筋肉のついたすらっとした手足――女子から人気のありそうな雰囲気がすごい出てる。
断言しよう。
この人は、私が苦手なタイプだ。
「ほぼ初対面でそんな顔をされたの初めてだ」
「そのお姉ちゃんの友達がどうしてここにいるんですか」
「菜々美ちゃんと同じだよ」
ほら出た! 初対面でちゃん付けで呼んでくるコミュ力!
くわばら、くわばら。
「体調が悪いようには見えませんけど」
「サボりだよ。菜々美ちゃんもそうだろう?」
「私はサボってません!」
「でも元気そうに見えるけど」
「誰かのせいで冷静さを欠いてるんです!」
「ひどいやつもいたもんだ。あはははっ」
彼女は、光だ。
圧倒的な光のパワーを持っている。
お姉ちゃんはどことなく闇も混ざってるけど、この人はもう光だけ。
よわよわな闇である私は簡単に吹き飛んでしまう。
「でもほんと、新鮮な気分だな。そういう反応の子って珍しいから、興味が湧いてきた」
それはあれか、いわゆる少女漫画とかにありがちな『おもしれー奴』みたいな認識されてるってこと?
「当たり前にみんなから好かれる人は、私みたいな人間とは見えてる世界が違うんですね」
「そうでもないって」
「そうなんですよ。先輩は“中には自分を嫌う人もいる”と思っている。でも私は、“中には自分を好いてくれる人もいる”と思ってます。そこには大きな隔たりがあるんです」
「あたしの心が読まれてる……? すごいなあ菜々美ちゃんは」
またもや繰り出される爽やかスマイル。
だから、そういうところだというのに。
「はぁ、もうこの話はやめましょう。で、何なんですか、私に用事があるから話しかけたんですよね」
私はようやくベッドの上に戻りながら、そう問いただす。
「そうそう、菜緒のことなんだけどさ。ここ何日か様子がおかしいんだ。もしかしたら妹なら原因を知ってるんじゃないかと思って」
「私も聞いていいですか」
「何でも聞いてよ」
「お姉ちゃん、ここ何日か様子がおかしいんです。原因を知りませんか?」
黙り込む栗生先輩。
私も沈黙を維持。
数秒後、耐えきれず、先輩は肩を震わせ笑った。
「あっははははは! これはまいった。菜々美ちゃんでも知らないのか」
「お姉ちゃん、先輩以外に友達はいないんですか?」
「たくさんいるよ」
当然のように、友達は複数人完備。
これだからうまく生きられる人間は。
「でも、うぬぼれでなければ、あたしが一番親しい。それ以上となると家族ぐらいしか思いつかないんだ」
「元々、私とお姉ちゃんはあまり仲が良くないので」
「え、そうなの?」
「家では滅多に声を聞くこともありませんでした。両親も似たようなものですけど」
「それ……本当に?」
「嘘ついてどうするんですか」
「いやぁ、だってあの菜緒のシスコン度合いだと、てっきり四六時中べたべたしてるのかと……」
シスコン? お姉ちゃんが?
どこの世界線の話をされてらっしゃるの?
「お姉ちゃんがシスコンって、何かの間違いですよね。普段は一言も喋らないぐらいなのに」
「え? いやそんなわけないじゃん。口を開けば菜々美がかわいい菜々美がキュートって、あのレベルのシスコンは他に見たことないって」
「幻聴では?」
「……本気で言ってる?」
私がうなずくと、栗生先輩は困った様子で頬を掻いた。
「えー……そんなことあるかねえ……?」
「まあ、様子がおかしくなってからは、先輩の言ってるお姉ちゃんに近い状態になりましたけど」
「あ、そっか。じゃあそれさ、別に菜緒がおかしくなったんじゃなくて、我慢するのやめたんだよ」
困った――腑に落ちてしまった。
今まで胸に張り付いていた気持ち悪さ。
頭を打ったんじゃないか、悪いものでも食べたんじゃないか、そう思わないと説明できない違和感。
だからこそ、いつかまた、何かの拍子で戻ってしまうんじゃないかという不安。
その全てに、説明がついてしまったから。
「結局、その理由が全然わかんないんだけどさ。菜々美ちゃんは心当たりないのかな? どんな些細なことでもいいから」
「……」
「おーい、菜々美ちゃん?」
「……えっ? あ、はい……些細なこと、ですよね。ちょうど様子がおかしくなる前日、漫画を借りたりしてましたけど、それぐらいです」
それは数ヶ月に一度、以前からあったことで、異変と呼ぶにはほど遠い。
「私が持ってる情報は、菜緒が『未来の菜々美からラブレターをもらった』って嬉しそうに言ってたことぐらいかな」
「何ですかそれ」
「わからん。菜緒がやたら浮かれてるから『どうしたの』って聞いたらそう言われただけ」
未来の私……? ラブレター……?
お姉ちゃん、やっぱり頭を打っちゃったんじゃ。
「んー……結局はわからずじまいかあ。気になるなー、すっごい気になるなー。ねえ菜々美ちゃん、よかったら連絡先教えてよ。菜緒に変化があったら教えてほしいんだ」
「嫌です」
「即答!?」
「先輩みたいなタイプの人がリストにいると不安なんで」
「知らない人の名前があるから、みたいな?」
「いえ、いつメッセージが飛んでくるかわからないじゃないですか」
「雑談ってそんなもんだと思うけど」
「私をそんな陽の光があたった世界に巻き込まないでください。私は地底でモグラのように生きていきます、ひっそりと」
「筋金入りだ……あたしは菜々美ちゃんのこと、すっごくかわいいと思うけど。磨けばもっともっと光るはずだ」
「おめでたいですね、先輩って」
「辛辣だねぇ……」
「がんばれ、ってみんな簡単に言うんです。がんばれば陽の光に当たれる、がんばればお姉ちゃんに追いつけるって。でもその人たちだってわかってるじゃないですか」
「何を?」
「どんなにがんばっても、追いつくのがせいぜいなんです。私がお姉ちゃんを越えることはないし、お姉ちゃんががんばれば、私は簡単に置いていかれる」
誰も。
誰一人として、私を“お姉ちゃん以上”と評価する人はいない。
他者から与えられる評価なんて、大抵の場合は甘く査定される。
そうやって下駄を履かせてもなお、私は並ぶのが精一杯。
「褒めてるつもりなのか、励ましてるつもりなのか知りませんけど、デリカシー無いですよね、そういう連中」
「……」
「怒りました?」
「いや――色々と、噛み砕いてた。そうか、だから菜緒は……」
「何なんですか、一人で納得して」
「うーん……まあ、そのうちわかるよ。たぶん、ときが来れば菜緒が自分から言うんじゃないかな。これ以上は馬に蹴られそうだから、あたしは退場するよ」
栗生先輩は急に立ち上がった。
勝手にやってきて、勝手に納得して、勝手に去っていく。
なんとも光の世界からやってきた人間らしい自己中心さである。
あれでもみんなから好かれて生きていけるんだから、きっと人生楽しんだろうなと思った。
「ああ、でも――」
先輩は保健室から出る直前、足を止めて言った。
「菜々美ちゃんがかわいいのは間違いなく事実だから。菜緒の妹じゃなかったら口説いてたかもね」
白い歯を見せ、腹が立つほど爽やかな笑みをこちらに向けて。
あと人に向かって指をさすな。
「嫌いですとっとと消えてください二度と顔も見たくないです」
「そう言われると燃えるタイプなんだよねあたし! あはははははっ!」
悪役みたいな笑い声を響かせて、先輩は去っていった。
私はどっと疲れて、ベッドに突っ伏す。
いかん、光の世界の住民はやはり話すだけで体力を持っていかれる。
というかサボってたくせにこのタイミングで教室に戻っていいのか。
どこまでも自由な人だ。
お姉ちゃんはよくあんな人たちに囲まれて生きていけると思う。
私には無理だ。
やっぱり、お姉ちゃんと私は違う世界の住人なんだ。
そう、思ってしまう。
……って、何でそれで私が寂しがらなくちゃならないんだ!
私はお姉ちゃんが嫌い!
ノーモアお姉ちゃん!
ゲットアウトお姉ちゃん!
キスなんて……そう、もうキスなんて絶対にさせないんだからっ!
◇◇◇
放課後、校門に向かう途中。
スマホを見ると、お姉ちゃんからのメッセージが残っていた。
『今日は遅くなりそう、先に帰ってて』
何だこの文面は。
まるで私とお姉ちゃんが一緒に帰ることを前提にしてるみたいじゃないか。
今まで一度だってそんなことしてないのに。
私の唇を奪ったぐらいで恋人面かぁ?
……。
……ぐ、ぐぬぅ、思い出したらまた顔がっ、顔が熱くなってきたっ!
落ち着け私。
心臓、お前もだ!
周囲が奇異な目で私を見ているぞ、そういうの一番嫌いなはずだろう!
すうぅ……はあぁ……よし、いいぞ、その調子だ、もう余計なことを考えるんじゃない、頭の中からもゲラウトヒアするんだお姉ちゃん。
「元から待たないっての」
お姉ちゃんがああなった理由は不明、けれど理屈はわかった。
結局のところ――お姉ちゃんは、元から私のことを嫌ってなんかいなかったわけで。
……昔から何も変わってなかったんだ。
だったらどうしてそれを表に出さなかったのか、そして急にオープンにしだしたのか。
そこが問題なのだ。
……いや、待って。違うわ。もう違うステージに突入してるわ。
キスされたし。
あの顔、もう完全に妹に向けるものじゃなかったし!
そこも問題だ、というかそこが最大の問題だ!
シスコンとかシスコンじゃないとかそんなレベルじゃあない。
私は今、まさに禁断の扉を開こうとしている!
「そういうことだ……そういうことだったんだ……はっ!?」
しまった、気づいたら足を止めて独り言を……周囲の目が痛い。
とにかく今は、家に帰ろう。
せっかく一人になれたんだし、落ち着いて、今後のことを考えるんだ。
場合によっては――お姉ちゃんを、本気で拒絶することも、案の一つとして。
◇◇◇
外はすっかり暗くなり、街灯の光も気休め程度にしかならない闇の中。
私はなぜか、校門の前にいた。
格好は私服、両手にはスーパーの袋。
「別に迎えに来たわけじゃないし……」
断じて。そう、断じて違うのだ。
私は家に帰ってから、今日は夕食を作ろうと思い立った。
しかし冷蔵庫の中には食材がない、明日の弁当のことも考えると買い物をしておきたい。
そして家を出た。
買い物を終えた。
帰り、ちょっと寄り道をすれば学校に行ける。
まだお姉ちゃんは帰ってきてない。
だから――要するに、ちょうどタイミングが合っただけであって、決してお姉ちゃんを待つことが目的ではないのである。
それをはっきりと、明言しておきたい。
「……誰に対してだっつーの」
自分で自分にツッコミを入れながら、私は足元の小石を蹴飛ばした。
石は転がり、ざらざらのアスファルトに弾かれて、最終的に側溝に落ちる。
手持ち無沙汰――いや、両手はふさがっているから、足持ち無沙汰?
とにかく退屈だった。
かれこれ十分以上は待っている。
もうそろそろ義理は果たしたかな――なんて自分に対する言い訳めいた言葉を頭に浮かべた頃、談笑する女性たちの声がこちらに近づいてきた。
なんとなく、見つからないように校門を壁に向こうを覗き込む。
あれは確か……生徒会長。
あとは副会長に、なんとか委員に――あ、いた、お姉ちゃんだ。
見つかってはまずい、と隠れる。
だがそこに隠れたところで、じきにお姉ちゃんたちは真横を通り過ぎていくわけで。
「……あ」
よりにもよってお姉ちゃんが真っ先に気づいて、足を止めた。
「おー? もしかしてその子、菜緒ちーの妹さんじゃない?」
会長はこの薄暗さの中、ひと目でそれを見抜く。
怖いな、全然似てない姉妹なのに。
「ど、どうも」
「やっぱりー! そっくりだもん、顔とか雰囲気が!」
そういうおべっかはいらない。
私がお姉ちゃんと似てるなんてこと、ありえないんだから。
「いいねえ、愛されてるねえ菜緒ちー。ご褒美あげなよ。熱烈なハグとか――」
生徒会長の言葉を遮るように、お姉ちゃんは私のほうに飛び込んできた。
そして私の両手がふさがっているのをいいことに、全力で、ぎゅーっと抱きついてくる。
「わーお、情熱的」
「お、お姉ちゃんっ!?」
「菜々美……大好き」
「ちょ、ちょっと!?」
人前でなんてインモラルなことをっ!
でも――生徒会の人たちは、なぜかケラケラ笑っている。
ああそうか、栗生先輩と同じで、この人たちの前でもお姉ちゃんはシスコンだったんだ。
だから誰も不思議に思わない。
「こりゃ私たちはお邪魔だね。じゃーね、菜緒ちーとその妹ちー。まったあっしたー」
会長たちは手を振って離れていく。
一方でお姉ちゃんは、それに反応もせずに、とにかく強く私に抱きついていたので、代わりに私が手を振って答えておいた。
「お姉ちゃん、ちょっと……さすがに苦しいって……」
「……ごめん。来てくれると、思わなかったのよ。ふふふ、こういうのをサプライズっていうのね」
「たまたま買い物の帰りのタイミングと合っただけだって」
「帰り道からは逸れてるわ」
「ちょっとだけだよ」
「その時間を、私のために使ってくれたことが嬉しいの」
腕の力は弱まったものの、なおもお姉ちゃんの顔は近い。
鼻先が触れるほどの距離で目を潤まされたら、嫌でも緊張で胸は高鳴る。
お姉ちゃんの胸もこちらに押し付けられていて、どくんどくんと高鳴っているのがわかった。
甘い空気――というのはこういう雰囲気のことを言うのだろうか。
求めるでもなく、望まれるでもなく、お姉ちゃんの顔は自然とこちらに近づいてくる。
「ま、まままっ、待って! 待って待って! お姉ちゃん、それはっ、だからそれは違うんだってっ!」
「何も違わないと言ったじゃない」
ひたりと、お姉ちゃんの手のひらが私の頬に当てられる。
「まだ、会長さんとか近いし、というかここ、外だしっ!」
「菜々美だって、こんなに火照っているのに」
「誰かに見られたりしたら、私たち――」
「我慢なんて、しなくていいのよ」
してない。
するもんか。
お姉ちゃんの前で、私が、我慢なんて、するはず――
「んっ」
誰が通るかもわからない、夜の校門前で、私たちは唇を重ねる。
立って、抱き合っているから、昼間よりもさらに密着度は増していて、より深くお姉ちゃんの体温を感じてしまう。
お姉ちゃんも慣れていないからか、腕をどこに置いていいのか、迷うように動かしてみたり。
より深く触れ合うために、ちょうどいい顔の角度を探してみたり。
試行錯誤に、人間性を感じられて。
そこにあるものが、私と変わらない、生の感情なんだとわかってしまって。
胸が、きゅうっと締め付けられる。
両手の買い物袋は健在、だから私はされるがまま。
「はぁ……ふぅ……ん、ぅ……」
「ふぁ……あ……」
姉妹の声を混ざり合い、どちらがどちらかもわからない。
私は抵抗できないだけ。
そう、だからこれは、不可抗力。
仕方のないこと。
そう言い聞かせて、渦巻く――の感情から目を背けて、そうしているうちに、遠くから車の音が近づいてきた。
反応して、お姉ちゃんは唇を離す。
ブオォオン――と、乗用車が通り過ぎていった。
「はぁ……はぁ……」
私たちは胸を上下させながら、呼吸を荒らげ、至近距離で見つめ合う。
お姉ちゃんはまだ夢の中にいるような、とろんとした目をしていて。
たぶん私はとても冷静に、しっかりとした表情をしていたと思う。きっと、おそらくは。
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