その2
今日まで幾度となく『死にたい』と繰り返してきた私。
実際、それを試そうとしたこともあった。
けれど死ねなかった。
怖いからだ。
死ぬのは怖い、けれど生きていくのも怖い。
生への恐怖が強まっていけば、いずれ死の恐怖なんてなくなる。
人が本当に死ぬのは、そういうときなのかもしれない。
それはさておき――私は今、死にそうになった。
別に死にたいとは思ってもいないタイミングで。
妙な暖かさを感じて目を覚ます。
目の前で超絶美人が微笑んでいる。
そして彼女は優しくささやいたのだ。
「おはよう、菜々美」
愛おしそうに、私の頬を撫でながら。
そりゃあ……心臓も、止まりたくなるってもんだよね。
色んな意味で。
つか、寝起きでこんなに美人とかどうなってんの?
目を腫らした私の顔が恥ずかしくなってくるじゃん。
◇◇◇
目覚めはいつもより一時間早かった。
就寝時間が早かったのだから当然か。
生徒会の仕事でいつも早く家を出る姉と違い、私が出発するのはいつも、始業にギリギリ間に合う時間だ。
だから、朝の時間を姉と二人でこうして過ごすのはとても新鮮。
朝食は適当に済ませる。
大抵の場合、ハムエッグとトーストに、サラダを添えることが多い。
顔を洗った私がキッチンに立つと、興味深そうにお姉ちゃんは私のほうを見ていた。
「そういやお姉ちゃんっていつも朝ごはんどうしてるの?」
「途中でパンを買っていってるわ」
「ふぅん。じゃあ今日は私がお姉ちゃんの分も作っていい?」
「……いいの?」
「こっちがいいかって聞いてるの」
「構わない……いえ、むしろ、お願いしたいわ。私に手伝えることがあったら言って」
「じゃあトマト切っといてもらっていい?」
「わかった」
お姉ちゃんが私の隣に立つ。
不思議な感覚だった。
まるで家族みたいだ。
「……まな板はどこかしら」
「シンクの下のところ、包丁も一緒に入ってるから」
「これ……よね。トマトはどこにあるの?」
「そりゃあ冷蔵庫だけど……」
お姉ちゃんの動きが怪しい。
おどおどしていて、目が泳いでいる。
冷蔵庫を探る動きもぎこちなくて、野菜室にたどり着くまで結構な時間がかかった。
そしてお姉ちゃんはトマトをまな板の上に置き、その上に手を置いて、そこに包丁を――
「ストォーーーーーップ!!」
私は全力でそれを止めた。
きょとんとしているお姉ちゃん。
「何その構え!? お姉ちゃんは自分の手をトマトだと思ってるの!?」
「ふふ、面白いことを言うのね。トマトはこれよ」
「でも今、自分の手を切ろうとしてたよね?」
「こうすると、本で見た覚えがあるわ」
お姉ちゃんは真顔だった。
まずい、至って本気だこの人……。
「お姉ちゃん、料理できないの……?」
「授業でやったことはあるわ」
「包丁を握るのも?」
「……友人に、菜緒に任せると危ないから、と包丁は使わせてもらえなかったわね。でも平気よ、トマトを切るぐらいどうってことないんだから」
「待って待って待って! それじゃあまた指が切れるから!」
「ストンと下ろしたらトマトだけが切れて――」
「切れないよぉ!」
ま、まさか、ここまで筋金入りだとは。
しかし、お姉ちゃんは心なしか勇み足というか、どうしても自分でトマトを切りたいみたいで。
私は程よく半熟に焼けたハムエッグの火を止め、お姉ちゃんの後ろに立った。
そして少しの逡巡。
昨日で慣れたけど、また簡単に触っていいのかと、嫌いな姉なのに馴れ馴れしくしていいのかと自問自答しながら――ええい、ままよ! と、背後から抱きしめるように体を密着させる。
そして姉の両手を握った。
「私が教えるから、言われたとおりにして」
「菜々美、ありがとう」
「お礼とかいいから。まずは指を曲げて。そう、べたってトマトにくっつけるんじゃなくて、載せるだけ。そこから――」
私がお姉ちゃんに何かを教えるなんて初めてだ。
だから何だ、って話なんだけど。
そう、だから何だっていうんだ。
別に……何が変わるでもない。
◇◇◇
まだ時間があるし、ゆっくりしようと思っていたら、やはりというか、案の定というか、そううまくはいかない。
お姉ちゃんはどうしても私と一緒に登校したいらしく、準備を急かされた。
……こんな早くに家を出たって、私、学校でやることないんだけどな。
いつもより早い時間に歩く通学路は、景色も微妙に違う。
肌に感じる風の流れも微かだが冷たく、人の気配が無いからか澄んでいる。
「菜々美」
相変わらず穏やかな声色で、私の心を乱すように、お姉ちゃんは名前を呼んだ。
「んー?」
気だるさを装って、私は気のない返事をする。
言葉に込められた温度の低さに対して、心音は無駄にうるさかった。
「手をつないでもいいかしら」
「嫌」
即答する。
何で私は朝から姉と手をつないで登校せにゃあかんのか。
カップルか? それも付き合いたての。
「恥ずかしがらなくてもいいのよ、この時間なら誰も見ていないわ」
「そーゆー問題じゃないから。どこに手を繋いで通学路を歩く姉妹がいるってんだか」
「新しい道を切り開きましょう」
「何そのフロンティアスピリット。繋がないから。不機嫌な顔をされても無理だから」
「……菜々美だって本当は繋ぎたいと思っているはずなのに」
「何でそう思えるの!? 前向きすぎるでしょ……」
「わかったわ。なら百歩譲って手は繋がないとして」
「また一方的に譲られた」
「ハグはいいわよね」
余計ダメじゃん。
「余計ダメじゃん」
心と言葉が完全に一致した瞬間だった。
「どうして?」
「こっちが『どうして』だよ! 手も握れないのにハグなんてできるわけないじゃん!」
「でも手はまだ繋いでいないけど、ハグはもう済ませたから、ハードルは低いと思うのよ」
「ここお外!」
「ふふ、お外だなんて菜々美はかわいいわね」
「思わず“お”を付けちゃった私の気持ちにもなれーーーっ!」
疲れる! 圧倒的に疲れる!
私は何でこんな朝っぱらからお姉ちゃんと一緒に登校した上に叫んでるんだ!
あまりに未体験のイベントすぎてなおさら疲れる!
「大丈夫よ、ここなら誰も見てないわ」
「今から誰か来るかもしれないし!」
「毎朝登校している私が言うのだから間違いないわ。安心して、私もさすがに誰かに見られるのは恥ずかしいから」
一応、羞恥心はあったんだ……。
そのせいか、お姉ちゃんはほんのりと頬を赤くして、控えめに両手を広げる。
おいで、と。そう謂わんばかりに。
私は周囲をきょろきょろ見回し、人の姿がないか確かめた。
――そこではたと気づく。
何、受け入れそうになっちゃってんの? と。
断ろうよそこは。
だってハグだよ? 公衆の面前でハグとか、付き合いたての浮かれウェーイぐらいしかやらない所業だよ?
それを、私とお姉ちゃんで演じちゃう?
何の冗談か。馬鹿げている。こんな現実あってたまるか。
でも――そう思ったところで、現実は変わらず、お姉ちゃんのムカつくぐらい可愛らしい赤面顔はそこにあって。
心音がうるさい。ノイズになって思考をかき乱す。
ううぅ……ああもうっ、なるようになれーっ!
「……ふふ」
胸に飛び込むと、お姉ちゃんの両腕が私を包み込んだ。
甘い微笑が私の耳元をくすぐり、ぞわりと全身が震える。
匂いは甘い。
体温は、昨日よりも暖かく。
火照っているせいかな。
私から見えるのはお姉ちゃんの耳とか首ぐらいで、そこですらまっかっかになってるんだから、きっと顔はトマトみたいになってることだろう。
私も、お姉ちゃんも。
どーしてそこまでして、私を抱きしめたがるのか。
やっぱり、これっぽっちもわからない。
ただはっきりしていることは、どうやらお姉ちゃんは、こうして触れ合う時間を“幸せ”と思ってるらしい。
私を。私なんかを抱きしめて、幸せになれる人間がいるなんて。
なんて安っぽい趣味なんだか、もったいない。
「……お姉ちゃん。あんまり時間かけると……その、遅刻、するんじゃない」
「始業まではまだまだ時間があるわ。もう少し味わわせて」
「そういう遅刻じゃなくて、生徒会の……」
「別に構わないわ。元から、こんなに早く出る必要はないのよ」
「……ん? じゃあ、何でいつもこの時間に?」
声のトーンが落ちる。
心音は少しだけ収まって、“幸”一辺倒だった感情に影が差す。
「私は、あの家にいないほうがいいと思っていたの。そのほうが、菜々美が楽だろうと思って」
「……」
「……いや、それは言い訳ね。菜々美のせいにしてしまったわ、ごめんなさい。きっと、本当は、私があの家に『居場所がない』と感じているだけだったのかもしれないわ」
簡潔な言葉が、私の姉へのイメージを一変させる。
……居場所がない?
どうして完璧なお姉ちゃんが、劣った私と同じ感情を抱くのだろう。
「ゴールは見えているのに、ずっと逆方向に向かって全力疾走しているような気分だったの」
「お姉ちゃんが?」
お姉ちゃんはこくりとうなずいて、それきり何も話さなくなった。
ただ、両腕に込められた力が少し強まって、体の密着度が上がって。
心音が肌を伝う。
私たちが姉妹であることを示すように、似たような鼓動。
似たようなビート。
ずるい。
やめて。
お姉ちゃんも私とそんなに変わらないんだ――なんて、そんな馬鹿げたこと、考えさせないで。
「……これぐらいにしないと、本当に誰か来てしまうわね」
奇跡的に誰も通り掛かることはなく、私たちは自然と体を離した。
近めの距離で見つめ合う。
お姉ちゃんは、お姉ちゃんらしくもなく、表情豊かにはにかんで。
私は直視できずに、ふてくされるように唇を尖らせながら視線を逸した。
胸元をぎゅっと掴む。
沈まれ、――心。
「さあ、行きましょう菜々美。途中でコンビニに寄ってお昼も買わないといけないわ」
お姉ちゃんは私の手を取って歩きだす。
隣を歩く姉は、いつになく満たされた様子で、いつまでもニコニコと私に笑いかけていた。
◇◇◇
や。
や。
や――
「やられたあぁぁぁぁあああああっ!」
いつもよりもずっと早く学校に到着した私は、教室に誰もいないのをいいことに、頭を抱えながら叫んだ。
――やられた。
誰にかって、姉にだ。
あれだけ、あれだけ盛大に拒否っておいて、まさかあんな自然な流れで……手を、繋がれるとはッ!
典型的なドア・イン・ザ・フェイスじゃん! やっぱり私よりずっと頭いいし顔いいし全然同じなんかじゃないよ大嫌いだあんな姉ぇー!
「うごごご……ぐううぅ……」
私がラスボスの断末魔のような声をあげながら突っ伏していると、ガラリと教室の扉がオープン。
視線だけそちらに向ける。
友達が「お~?」と意外そうな顔で首をかしげながらこちらに寄ってきた。
「……おはよ」
「おはよー、菜々美。珍しいじゃん、こんな早い時間に来てるなんて」
「色々あったの」
「うん、本当に色々あったって感じの顔してるね」
「あった。本当にありすぎて頭の中がパンクしそう。もう死にたい」
「出たよ持ちネタ」
「今日のはレベルが違うの。こんなに死にたくなったの久しぶり」
「レベルが上がるとどうなるわけ?」
「遺書とか書き出す」
「やばいじゃん。ガチのやつじゃん。やめてよね、菜々美が死んだら私、本当に悲しいから」
「うん……でも今日は本当に死にたくなるタイプの“死にたい”じゃないから」
「タイプあるんだ……」
もちろんある。
自殺願望は多種多様だ、一言で論ずることができるものじゃない。
「今の気分は……穴があったら入りたいみたいな……」
「ああー、そういう死にたいか。それなら私もわかるかも。でもいつもノンアクティブな菜々美がその状態になるの珍しいんじゃない?」
「……向こうがアクティブに迫ってきたから」
「誰?」
「姉」
「あの仲が悪いって言ってた? なるほどねー、わかったわ。喧嘩したんでしょ」
「逆」
「逆ぅ? 仲良くしたってこと?」
「そう、めっちゃお姉ちゃんがべたべたしてくるようになった」
「……良かったんじゃない?」
「いきなり抱きしめられたり、お風呂に一緒に入ろうとしたり、一緒に寝たりしても?」
「おおう……オーバースキンシップっ!」
なぜにアメリカンなリアクション。
「菜緒先輩って、あのクールで有名な生徒会の人……だったよね」
「そういうことになってる」
私もそう思っていた。
少なくとも一昨日までは我が家でもそうだった。
友達は私の手前の席に座ると、背もたれに両手を乗せながら話を続けた。
「菜々美が何かやったんじゃない?」
「覚えがないんだって。つか一昨日は私とお姉ちゃん一言も会話してないから」
「一言もって……同じ家に暮らしてるんだよね?」
「うん、普通じゃない?」
「親とは?」
「喋ってないよ。話すことないし」
「お……おおう……ごめん、菜々美」
「なぜ謝る」
「……正直、そこまで冷めた家庭だとは思ってなかった」
だから容赦なく踏み込んできてたのか。
私は軽くため息をつく。
「ま、気にしなくていいよ。そういう神経の図太さがいいところでもあるし」
「えへへ褒められちった……」
「半分はけなしてるから」
「半分も褒められちった……」
頭をかいて照れる友達。
こいつ無敵か?
「でもその急な変化は、やっぱり菜々美が何かやったとしか思えないよ。それか、お姉さんが頭を打ったか」
「今のところそれが優勢だと思ってる」
「ガチ説だった……」
「じゃないと説明できないことが多すぎて。はぁ……このまま続くんなら私の身がもたないっての」
「……」
「何、急に黙ってこっち見て」
「いんやぁ、嫌って言ってる割には……菜々美、割と楽しそうだよ?」
「はあぁぁっ!?」
思わず巨大な声が出た。
幸い、まだほとんど生徒はいないから目立たずに済んだけど――
「な、何をっ! 私が、嬉しい? お姉ちゃんに構われて!? ありえないありえない、本当にありえない絶対にありえないっ! だって私、お姉ちゃんのこと嫌いだから。大嫌いだから! 呆れることはあっても、嫌がることはあっても、喜んだり楽しんだりとか絶対に、絶対に、絶対に絶対にぜぇぇぇぇぇぇったいにありえないんだからねっ!」
思わず、大量の言葉が流れ出てしまう。
友達は圧倒されたというか、引いたというか、そんな感じで軽くのけぞっていた。
「お、おおう……菜々美の爆発力を見た……」
「はぁ……と、とにかく、そういう……こと、だから」
「うん、よーくわかった」
……本当にわかってんのかな。
わかってなさそうな顔してるけど。
「信用してよぉ、もう菜々美のプライバシーに首は突っ込まないから。問題はお姉さんがどうしてそうなったか、だよね?」
「……そう! そこが一番重要なの!」
「でも菜々美としては、どっちのお姉さんのほうが好みなの?」
「さっき首は突っ込まないって言わなかった!?」
こいつ、抜いてから即突っ込んできやがった!
そういうとこあるんだよね……ほら、めっちゃニヤニヤしてるし。
「いいじゃんそれぐらい、聞かせてよ」
「……わかんない」
「えー」
「わかんないったらわかんないの! 昨日まで一言も話さなかった相手と、急にあんな距離感で接して。今、私の頭の中はぐちゃぐちゃだから。結論出すまでは時間かかる」
「もう結論は出てる気がするけどなあ……」
「何か言った?」
「んふふふ何も言ってないよぉ~」
聞こえてるっつの、まったく。
嬉しいとか、喜ぶとか、嫌じゃないとか、そんなはずがない。
そんなはずは。
だって私は、この世で一番、お姉ちゃんのことが大嫌いなんだから。
◇◇◇
結局、授業中や休み時間に考え込んでも答えは出ずに、昼休みがやってきた。
私はいつものように弁当を持って友達の席に向かう。
机をくっつけて、彼女と向かい合ったところで――
「んお?」
友達は窓を見て、驚くような仕草を見せた。
釣られて私もそちらに目を向ける。
「げ」
「んひひっ」
嫌そうな私の顔を見て、友達は笑う。
教室の入口に――お姉ちゃんが立っていた。
弁当片手に立って、柔らかく微笑んで、こちらに手を振っている。
当然、クラスのみんなの視線はそこに集中した。
ざわつくオーディエンスども。
どうやら中には、私とお姉ちゃんが姉妹だってことすら知らない人もいるみたいだ。
「いってらっしゃあーい」
「他人事だからって楽しんで……」
「いやいや、自分のことのように楽しんでるよ?」
なおひどい。
けど、このままお姉ちゃんを放置するわけにもいかず。
私は開きかけた弁当を再び袋に詰めて、教室の入口に向かった。
「ごめんなさい、お友達と一緒だったのよね」
「まあ……そうだけど。で、何?」
「よかったら、二人でお昼を食べたいなと思って」
それは――十分、考えられた事態だったはずだ。
たぶん考えないようにしていただけで。
お姉ちゃんは申し訳無さそうにしながらも、どこかそわそわしていた。
早く二人きりになりたい――そう謂わんばかりに。
「わかった。どこで食べるの?」
「中庭。人が少ないところを知ってるのよ」
「じゃあ行こう」
お昼を外で食べる――という行為そのものが、どことなく“できる”人間が取る行動のような気がして、若干の抵抗があった。
きっとお姉ちゃんにとっては、それも普通のことなんだろう。
彼女の普通は、私の上等。
壁はなおも、そこにある。
果たしてこれは実在するものなのか、はたまた、私の心が見せる幻なのか――
◇◇◇
木陰に置かれたベンチの周囲には、まったくひと気がない。
まさに穴場と呼ぶべき場所だ。
「こんなところにベンチがあったなんて」
「ふふ、元々はなかったのよ。余ったベンチを譲ってもらって設置したの」
「お姉ちゃんが?」
「生徒会特権よ」
自慢気に胸を張るお姉ちゃん。
……そんな顔もするんだ。
まだ一日も経っていないのに、一緒に過ごしているとあまりに“意外”が多すぎて困る。
私たちは並んで座る。
膝の上に置かれたのがコンビニ弁当というのは、どうにも風情が無い。
そのとき、ふとお姉ちゃんの視線が、私の手元に向けられていることに気づいた。
「今朝、コンビニに寄ったときも思ったのだけれど……あまり慣れてないのね。普段、お昼ごはんはどうしてるの?」
そんなところまで観察されてたのか。
「お姉ちゃんが出ていったあとに、簡単なお弁当を作ってる」
「すごいわ! 毎朝作ってるの?」
「まあ……前日のお惣菜を詰めたり、冷凍食品入れてるだけだけど。あとは卵焼きを作ったり、ウインナー焼くぐらいかな」
本当に大したものは作っていない。
まさにズボラ弁当だ。
けれどその話を聞いたお姉ちゃんは、目をキラキラさせながら私のほうを見ていた。
尊敬と……これは、期待、だろうか。
猛烈に嫌な予感がする。
「ねえ菜々美、もしよければなんだけど……」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないわ」
「自分の分も作れっていうんでしょ」
「もちろん手伝うわ」
「妨害にしかならないと思う」
「そ、それは……今はまだできないけれど……慣れれば、私だって作れるはずだもの」
あ、いじけた。
お姉ちゃんでもそんなことするんだ。
でもなあ、結局、今朝もつきっきりで包丁の使い方を教えたけど、最後まで直らなかったしなあ。
「……まあ、別に一人分が二人分になるだけだし、作れないこともないけど」
「本当にっ!?」
「でも問題は、私がお姉ちゃんより先に起きなくちゃならないこと」
「なら私が出る時間を遅らせるわ。どうせ、元からそこまで早くでる必要はなかったんだもの」
「それでも私が元々出てた時間よりは早いじゃん。どのみち私は起きるのが早くなる」
「私は、明日からも一緒に登校したいと思っているのだけれど……」
「私はやだ。もっと夜ふかししたい」
「肌によくないわよ」
「別にお姉ちゃんほど誰かに顔を見られたりはしないから」
「私が見てるわ、一番近くから」
だからって――今、じろじろ見る必要ある?
落ち着いて食べられないんだけど。
「ふふ、菜々美はすぐに赤くなってかわいいわね」
「なっ――なってないし、赤くとかなってないし! ぜんぜん!」
「んふふふっ、なってるわよ」
「お姉ちゃんの目がおかしいの!」
上がっているのは体温だけ。
ほんのちょっぴり心音がうるさいだけ。
仮に赤くなっていたとしても、それは嫌悪感からくる体温上昇とかそういうやつでしかない。
「そんなに急いで食べたら喉に詰まるわよ」
忠告を聞かずに、私はご飯を掻き込んだ。
「げほっ、けほっ」
むせた。
アホか私は。
「大丈夫? はい、これお茶」
「……んぐっ、んくっ……ふぅ、ありがと」
「ちゃんと噛んで食べないとダメよ」
私を諌めながら、手渡したペットボトルに蓋をして、自分の真横に置くお姉ちゃん。
私の視線は自然とその動きを追いかけた。
今のお茶……私のじゃない、よね。
お姉ちゃんの、ペットボトルで、つまり――
「……? ああ、間接キスだったわね」
少し恥じらいながらお姉ちゃんは言う。
――それは、妹に対する反応として正しいものなのか。
意識した途端、私の顔は沸騰しそうなぐらい熱くなる。
収まれ、収まれ、これ以上火照るな、私の心。
「困ったわね……意識したら、私も急に恥ずかしくなってしまったわ」
そう言いながら、お姉ちゃんはどこか熱っぽい瞳で、太ももの横に置かれたペットボトルを見つめる。
そして手に取ると、蓋を開き、じっと私が口を付けた部分を見つめた。
「でもおかしな話ね。姉妹として十五年も生きてきて、同じ食卓だって囲んできたのに、今さらこんなことで恥ずかしがるなんて」
「……わざとやったの?」
「今のは偶然よ。わざとやるのはこれから」
「これからって――」
お姉ちゃんはペットボトルに、ちゅっと軽く口づけた。
「あ、あっ、なっ……!?」
言葉が出てこない。
お姉ちゃんはいたずらっぽく笑う。
私は口をぱくぱくさせながら、どこか蠱惑的な姉の眼差しに、困惑するばかり。
そんな私を尻目に、なおも口づけは続けられた。
ちゅ、ちゅっ、ちゅぅ――角度を変え、長さを変え、私を翻弄するように繰り返される悪魔のキス。
その度に私の心はバカみたいにかき乱されて、そのくせ目はそらせずに、見開いてじっとその様を記憶に焼き付けている。
そしてお姉ちゃんは最後に、ちろりと舌を出して、ペットボトルの飲み口に這わせ――
「ダメぇっ!」
私は思わず、お姉ちゃんの肩を掴んだ。
手元からペットボトルが落ち、地面に叩きつけられる。
とくとくと、流れ出たお茶が土に染み込んでいく。
幸い、お弁当は落ちずに無事だった。
「は……はぁ……あ……そ、それは、ち……違う、でしょ……」
「何が?」
なぜか、触れてもいない舌の輪郭が、ぴりぴりと甘く痺れていた。
幻痛めいたその感覚が、私の体を冒しているせいで、掴みかかった両腕はかすかに震えている。
「違う、よ……だ、だって、姉妹はそんなことしないっ! いくら、お姉ちゃんが、私と近づきたいからって、そんなことしたらっ!」
「私は、
「は――?」
思わず、言葉を失う。
元から言葉はうまく出せていなかったから、毒はさらに私の肺にまで達して、呼吸すら忘れた。
何を言っているんだ、この人は。
だって、私とお姉ちゃんは姉妹で、間違いなく血のつながった家族で、だったら関係なんて姉妹以外にありえないのに!
「私は、菜々美の全てを受け入れたいの」
「っ……」
「菜々美がしたいこと、ぜんぶ、していいのよ」
甘い。
耳に、心に、まるでシロップをかけたように。
けれどそいつはやけに暖かくて。
私の氷――いや、鉄の檻すら溶かしてしまうぐらい、凶暴なやつで。
「そ、そんなもの……」
「安心して」
逃げられない。
全てを見透かすような瞳から、私は逃れる術を知らない。
「私たちの望みは、一緒だから。『拒まれるかもしれない』なんて、考える必要はないの」
今まですれ違ってきたくせに、一体お前は、私の何を知っているんだ。
「したいように、して。ね?」
何を――知っているんだ――
そんな私の気持ちとは裏腹に、導かれる。
桜色。
ふるふる揺れて。
半開きのまま、物欲しそうに。
まるで血の繋がりが引力とでも言うように、私は姉の肩を掴んだまま、前のめりになって、顔を近づけた。
やめて。
一度動き出した感情の流れは止められない。
やめてよ、ねえ。
お姉ちゃんの吐息はいつもより少し荒くて、熱い。
嫌いなのに。
こわばったからだ。潤む瞳。紅潮する耳。
大嫌いなのに。
お姉ちゃんも興奮しているんだと思うと、私は無性に、――しく感じる。
大嫌いだって、ずっと、ずっと、言い聞かせてきたはずなのに――
「ん……っ」
「ぁふ……」
触れた瞬間、同時に声が漏れた。
姉妹を証明するように、とても良く似た、鼻がかった声が。
しびれる。
唇からぶわっと広がる肺が震えるような麻薬めいた甘さに、脳が正常に動かない。
お姉ちゃんの右手が、スカート越しに私の太ももに触れた。
お姉ちゃんの左手は、さらなる深みを乞うように、私の右腕をそっと掴んだ。
「んふ……ふうぅ……」
「ふっ、く……はふ……」
胸から湧き上がる切なさに、人はじっとしていられないから、唇だって揺れる。
互いに揺れて、擦れあって、さらに甘い。
甘い。甘い。甘い。
目がチカチカして、頭がふわふわして、もう、お姉ちゃん以外のことが考えられない。
至近距離で辛うじて見えるお姉ちゃんの表情も、見たことないほどとろけていて。
漏れ出す吐息が、聞こえる小刻みな声が、私を狂おしく求めていると認識させる。
これはいけない。
間違っている。
こんな、間違った繋がりなのに、互いの感情が一致してしまったんじゃ――歯止めなんて、きくはずがない。
風が吹き抜けていく。
落ちた枯れ葉がカラカラと地面を転がる。
しかし人の気配はない。
ここは二人だけの世界。
だからこそ、想いはエスカレートしていく。
キスなんて、唇を合わせるだけだと思っていた。
唇を合わせるだけじゃ、どうにもならないと思っていた。
でも、違う。
現実はそんなに甘くなくて、本当はもっと、余裕がなくなるほど、甘くて、甘い。
「おね、ひゃ……っ」
「んふぅ……なな、み……っ」
互いに呼び合う声さえも、まるで心臓に直に触れているように、体の奥底まで響いて染みて。
たぶんこのとき、お姉ちゃんのいうとおり、私たちは同じことを考えていたんだと思う。
――もっと深く触れたら、どうなってしまうんだろう。
より後戻りできない深みへと。
堕ちてしまいたい――堕ちてしまいたい。
願望と願望が繋がって、同調して、舌と舌が触れ合おうとした瞬間――
ザッ、と。
私たちの世界を、第三者の足音が壊した。
「っ!?」
「……んふ」
ガバッ、と体を離す。
私は怯える猫のように目を見開いて。
お姉ちゃんは口元に手を当てながら、色っぽく惚けて。
同時に、足音のしたほうを向いた。
「よう、菜緒……に、そっちは……」
ボーイッシュな男子――いや、制服からして女子か。
リボンの色からして、お姉ちゃんと同学年。
知っている。
確か彼女は、“王子様”と呼ばれている人物で――首をかしげる彼女と目があった瞬間、私はこみ上げる罪悪感だか何だかわからない気持ちに耐えきれなくなった。
乱暴気味に膝の上に置かれた弁当をベンチに置き、一人で駆け出す。
「あ、おいっ、妹なら別に逃げなくても――」
とにかくこの場所から離れたかった。
留まると、もっと、おかしくなってしまいそうで。
もう十分におかしいけど、より取り返しのつかないことになりそうで。
離れなきゃ、離れなきゃ、離れなきゃ。
けれどどれだけ走ったって――唇に染み付いた、ファーストキスの感触は消えなくて。
誰もいない校庭の片隅で、私は立ち止まる。
「わけ、わかんない……ほんと、何が……何だか……っ」
袖で唇を拭いてかき消そうとした。
けれど直前で、私の中の感情がそれを止めて。
「う、ううぅ……嫌いだ……お姉ちゃんなんて、大嫌いだああああぁっ!」
抗えない無力感に、私は思わずそう叫んだ。
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