いつもそっけないクールな姉が急に妹の私を甘やかすようになったんですが!

kiki

その1

 



 私と姉は仲が悪い。


 不出来な私と優秀な姉、周囲の扱いが変わるのは当然のことで。


 成績や運動神経だけならともかく、外見も性格も姉のほうが抜群にいいものだから、友達の数も段違いだ。


 もちろん両親の扱いだって違っていて、二人の口癖はいつも『お姉ちゃんはあんなにすごいのに』。


 そこから『どうしてこんなにひねくれてしまったんだ』と続く。


 そんな環境でどうやってまっすぐ育てばいいんだ――と私は逆に聞きたい。




「はぁ……抜き打ちテストとか最悪。また宿題増やされる」


「そう言いながら菜々美、この前は免れてたじゃん」


「ギリギリね。点数微妙だったから家で怒られたし」


「え、わざわざ親に見せてんの?」


「バッグ置いてたら勝手に開いて見られたの」


「うーわ、最悪」


「お姉ちゃんも冷めた顔で私のこと見てたし……あーあ、私ってあの家に居場所ないんだけど。死にたい」


「口癖みたいに言うのやめなよ、それ」


「事実だからしょうがないよ。消えたいの、私」


「聞く人が聞いたら痛い子だからねー」


「自覚はある。でも変えられない。だから死にたいと思う」


「そこまで言うならもう遺書でもしたためておきなよ」


「あははっ、いい案かもね。でも安心して、こんな話、親しい相手にしかしないから」


「聞かされるほうの身にもなれよう! ほんともったいないなー、菜々美は」




 友達はそう言って、私の眼鏡をそっと外す。




「何やってんの、返して」


「外すと超美人」


「眼鏡好きに謝れ」


「コンタクトに変えたらいいのに。あと髪もさっぱり切ってさ」


「私を本格的に姉の劣化版にするつもり?」


「違う系統の美人になるだけじゃないかなー」


「んなわけないって。いいから返して」


「はーい」




 毎日のように鏡は見てるんだから、自分の顔のことぐらい自分が一番よく知ってる。


 元が悪くちゃ、どんなに頑張っても無意味だ。


 いいや、むしろ頑張れば頑張るほど、その結果がお姉ちゃんに届かなかったときの絶望は大きくなる。


 知ってる。


 私はそのことを、よく知ってるの。




「でもさ、だったら菜々美はお姉さん――菜緒さん、だっけ。あの人のことあんま好きじゃないの?」


「人の家庭事情に土足で踏み込んでくるよね」


「てへっ」


「まったく……別に私はどうも思ってないよ。お姉ちゃんもそうなんじゃない。姉妹だけど、他人みたいなもんで」


「……ふーん」


「聞いておいて微妙なリアクション」


「いや、だって……」


「だって?」


「んー……まあいいや。何でもない」


「何それ、気になるんですけど」


「いいのいいの、私が首を突っ込むことじゃないと思うから」


「そのデリカシーをもっと別の場所に発揮してほしいわ」




 結局、この子はなにが言いたかったんだか。


 ――まさか、私の嘘に気づいたわけでもあるまいし。




 ◇◇◇




 学校が終わる。


 帰路につく。


 校門を出てから駅までは徒歩十分、そこから家に一番近い駅まで電車で二十分。


 降りたら自転車で十分かけて、家に到着。


 この間が、私にとって最も憂鬱な時間だ。


 金曜ともなるとなおさらに。


 特別、学校が好きというわけじゃない。


 部活だってしていない、やる気もない、万年帰宅部だ。


 けれどそれ以上に、家という空間が苦痛すぎて。


 あそこは姉の城だ。


 何をしたって褒められるのは姉で、私なんて彼女の踏み台にすぎない。


 私が頑張れば、姉は頑張らずにそれ以上の結果を出す。


 親は私のことなんて褒めない。


 物事は過程が大事とうそぶく悪い大人たちは、この事実からどうして目を背けるのだろう。


 そういう奴らに限って、平然とした顔でこう言うのだ。




『なぜもっと頑張らないんだ』




 姉も同じような考えに決まってる。


 だって彼女は、いつだって私を冷めた目で見るから。


 同じ血が流れていると思いたくないのか、軽蔑の眼差しをこちらに向けてくるから。




 人は一人じゃ生まれない。


 今の私は過去の出来事の集積体だ。


 お前たちは私の努力を褒めたことなんて一度もないくせに。


 どうして平気な顔をして、私が努力しないことを責められるのか。


 お前たちは私の存在を褒めてくれたことなんて一度もないくせに。


 どうして、もっと自信を持てと白々しく言えるのか。


 そして私がそれを口にすると、彼らはこう反論するだろう。




『人のせいにするな』




 都合のいいことだ。


 出来のいい姉が出来よく育ったのは自分たちのおかげで、出来の悪い妹が出来悪く育ったのは私のせいだというのか。


 だから嫌いなんだ、私はあの空間が。そこに暮らす人間が。


 私自身も含めて。




「ただいまー」




 そう言っても、誰も返事はしない。


 姉は生徒会があるから、基本的に私よりも遅い。


 一人ならそこまで落ち込むことはない――そう思うかもしれないが、私はこの場所そのものが嫌いなんだ。


 だからと言って出ていこうとしない私の小ささも嫌いなんだ。


 嫌い。嫌い。嫌い。


 そんな自己否定を胸いっぱいに溜め込む。


 だから……あんなもの・・・・・を書いたりしてしまうんだ。


 やだな、やだな。そういう逃げ道・・・を探そうとする私も嫌だけれど。


 けれど日に日に、私という存在が無になるという選択肢が、ポジティブなものに思えてしまう。


 ――いけないいけない。


 いつの間にか玄関でぼーっとしていた、何をしているんだ私は、誰もいないからって――




「……おかえり」




 靴を脱ごうとした私に、声が降り注いだ。


 顔をあげる。


 階段の途中に、私服の姉が立っていた。




「う、うん、ただいま」




 ギクシャクとした空気。


 どうしてお姉ちゃんが、この時間に、こんな場所に?




「……」


「……」




 お互いに話題がないし、とりあえず聞いておくか。




「お姉ちゃん、何でいるの?」


「早退したのよ」


「へえ……珍しいね」




 別に具合は悪そうに見えないんだけどな。


 まあ、理由は特に気にならないけど。


 でも……いつもなら興味なさそうに前を通り過ぎるだけのくせに、今日はやけにこっちをじろじろ見てくるっていうか。


 この状態だと、話さないわけにもいかず、とりあえず思いついた話題を振ってみる。




「……そ、その、何で早退したの?」


「特に理由はないわ」


「それってサボりじゃない?」


「そうなるかもしれないわね」


「……いいんだ」


「良くないわ」


「そう、なんだね。あはは、真面目なお姉ちゃんでもそういうことあるんだ」


「初めてよ。それより――」




 お姉ちゃんは階段を降りて、私の前に立った。


 うわ、こんな至近距離になるのいつぶりだろ。


 相変わらず、私とは違って端正な顔をしている。


 するとお姉ちゃんは、ふいに私の頬に手を当てた。




「……え、え?」




 戸惑う。


 それはもう戸惑う。


 心臓バクバク言ってる。


 何で、お姉ちゃん、いきなり触ってんの?


 するとお姉ちゃんはさらに私に顔を近づけてきて――




「困った顔をしてるわね」




 誰のせいだよおおーっ!




「さっき、私に気づく前もそうだったわ。玄関でぼーっと立ち尽くしてた」




 見てたのかよ! なら言ってよ!




「何を考えていたの?」


「何って……別に」


「何も無いってことはないでしょう」


「無いって言ったら嘘になるけど、別にお姉ちゃんに話すようなことじゃないから」


「気になるわ」


「な、何で?」


「気になるといったら気になるのよ。ねえ、教えてくれないかしら」




 こ、このっ……今まで全然、私に興味も示さなかったくせに。


 何? 頭でも打ったの? 変な薬でも使ったわけ?


 それとも――




「からかわないでッ!」




 ――ああ、そうだ、きっとその可能性が一番高い。


 だから突き飛ばした。


 お姉ちゃんは、戸惑う私の姿を見て楽しんでたんだ。


 この家で最底辺を這いつくばる私が、顔を赤くして困惑してるの見て笑ってたんだ。


 そうだ、きっとそうに違いない。


 だってそんな理由でもなきゃ、高貴で出来のいいお姉ちゃんが、私みたいな出来損ないの妹に触ることなんてないんだから。




「……ごめんなさい」




 お姉ちゃんは、心なしかしょんぼりとした様子で、素直に頭を下げた。


 ほんと……何なの、それ。




「でも誤解しないでほしいのだけれど……私は、単純にあなたのことが気になったのよ。とても暗い表情をして心配だったの」


「なら……さ、そういうの、聞く前に、自分のこと話すべきじゃないかな」


「私のこと?」


「帰ってきた理由! 真面目なお姉ちゃんが、いきなり早退して、こんな変なことまでして……絶対、理由、ないわけないし!」


「……」


「ほら話せないんでしょ? だったら私だって――」


「菜々美」




 お姉ちゃんはまっすぐにこちらを見て、そう呟いた。


 流水のように澄んだ声。


 宝石のように澄んだ瞳。


 そのどちらも、私の心の壁をたやすく通り抜ける。


 やめて、お願い。


 ねえ、やめてよ。


 こんな醜い私の中身なんて、見ないで。入ってこないで!




「菜々美が、心配で」


「……な」




 今日、一番わけのわからない言葉だった。


 私? 私みたいなちっぽけな存在が、お姉ちゃんに影響を与えるなんてありえる?




「い、いきなり私のせいにするのやめてよね!」


「事実だから」


「私の何がお姉ちゃんを早退させたって言うの!?」


「言えない」


「何で!? 肝心なとこだよそこ!」


「たぶん、菜々美も聞きたくないと思うから」


「はぁ? 私が聞きたくないって――」




 思わず早口になる私。


 けどお姉ちゃんはお構いなしに、また距離を縮めてきた。


 そして今度は、触るどころか、両手を広げて私を抱きしめる。


 柔らかな感触が、暖かな温もりが、直に私を包み込んだ。




「お、おね、ちゃ……っ、は、あの、あのっ、何、やって……!」


「辛い思いをさせてしまったわね」


「は、はぁっ!?」


「さっきも、本当は嫌なことを考えていたんでしょう? 一人で悩んで、抱え込んでいたんでしょう?」




 い、いや、それはそうかもしれないけど。


 その理由、大体お前のせいなんだけど!




「辛かったら、私に甘えていいわ。いつでも、どんなときでも、抱きしめる準備はしておくから」


「いいから! とりあえず離して!」


「我慢しなくてもいいわ」


「いやだから我慢なんてしてないってばぁー!」




 私はどうにか強引に姉を突き放して、逃げるように階段を駆け上がった。


 お姉ちゃんはそんな私の背中をじっと見送ったようで、追って来たりはしない。


 それでも不安は消えず、慌てて自分の部屋に入ると、いつもはしない鍵をかけて、扉にもたれながらへたりこむ。




「はぁ……は、あ……」




 私は胸に手を当て、肩を上下させた。


 どくんどくん、どくんどくん。


 まるで体中に熱を広げるように、心臓は激しく高鳴る。




「何だったの、一体……」




 ただの気まぐれ?


 それにしたってたちが悪すぎる。


 けど、もしそうじゃなかったとしたら。


 本当に頭を打っておかしくなったんだとしたら――この地獄が、まだ続くっていうの?




「わ、私の体がもたない……」




 へろへろと立ち上がり、ふらふらと歩いて、ぼふっとベッドに倒れ込む。


 眼鏡を外して、顔を枕に埋める。


 体に残るお姉ちゃんの残り香に、また心臓が騒ぐから、私はさらに強く目をつぶり、必死でそれを振り払った。




 ◇◇◇




 しばらくして、一階で電話が鳴った。


 お姉ちゃんが取り、何かを話したあと、階段を上がってこちらに近づいてくる。


 大丈夫、鍵は閉めてる。勝手に入ってこれはしない。


 足音が部屋の前で止まった。


 そこで、なぜかお姉ちゃんは少し間をあけた。


 すごく嫌な時間だ。


 そしてノックはせずに、向こうから声をかける。




「さっきお母さんから電話があったわ。今日は遅いから、適当に食べておいて、だそうよ」


「……わかった」




 それは、そう珍しくないことだ。


 ひとまずお小遣いで夕食を食べて、あとで母が補填する方式。


 父はもともと遅くにしか帰らないので、一緒に食卓を囲むことはほぼない。




「菜々美、よかったら私と――」


「嫌だ」


「まだ何も言ってないわ」


「一緒に食べに行こうって言うんでしょ? 無理だからそれ」


「どうしてそう思うの?」


「間が持たないから! 第一、お姉ちゃんだっていつも一人で食べてるんだから、そっちのほうが楽なはずだよね!?」




 私は思わず声を荒らげた。




「……それは、そうだけど」




 落ち込む姉。


 だからやめてくれっての。


 まるで私が悪いみたいじゃん。


 つか今まで、そんな感情見せたことなかったくせに何なの? 卑怯じゃんそんなの!




「私が、菜々美と話したいのよ」


「何を話すっていうの?」


「今日、学校で何があったかとか」


「何もなかった。いつもどおりだった」


「そのいつもどおりを、私は知らないわ」


「私もお姉ちゃんの日常なんて知らない。お互い知らない、それでいいと思うけど」


「姉妹なのだし、もっとお互いを知ってもいいと思うのよ」


「今まで全然そんな素振りを見せなかったくせに、急に言われても困るの!」


「……徐々にならいいの?」


「いやそういうことじゃなくて!」




 わかった、もう間違いない。


 お姉ちゃんはふざけてるんだ。


 ふざけて、私の反応を見て楽しんでる。


 こういうときはがつんと言ってやらないとだめだ。


 私はベッドから立ち上がると、扉の前まで近づく。




「ねえお姉ちゃん。私、はっきり言うけどさ、お姉ちゃんのこと嫌いだから!」


「え……」


「当たり前じゃん! 今まで一度だって好かれるようなことしてきたと思う? いつも褒められるのはお姉ちゃんで、可愛がられるのはお姉ちゃんで、私は出来損ない扱い! 着てた服はお姉ちゃんのおさがりばっか。新しいのがほしいって言ったら『お姉ちゃんぐらい成績あげてからいいなさい』だってさ。やれるものならやってるよぉ!」


「……」


「そのくせ……こんな悪趣味な嫌がらせまでして、私の心をかき乱そうっていうの? いい加減にしてよっ! もう放っておいてよ! 本当は私、お姉ちゃんの顔だって見たくないの!」




 ――言っちゃった。


 いや、違う、言ってやったんだ。


 これでいい。


 これで私の立場ははっきりわかったはず。


 だったら、もう変に私に絡んでくることなんて――




「菜々美、ここを開けて」


「……は?」


「お願い、開けて」


「さっき言ったよね、顔も見たくないって!」


「いいから開けて」


「人の話聞いてる!?」


「聞いてるから、開けてって言ってる」


「っ、この……!」




 ムカついた。


 人生でこんなにムカつくことないってぐらい。


 だからぶん殴ってやろうと思って、鍵を開いた。


 扉が開く。


 現れたお姉ちゃんは、さっきよりずっと真剣な表情でまっすぐこちらを見ていて――私は金縛りにあったみたいに動けなくなった。


 その隙をついて、卑怯にもお姉ちゃんは私を抱き寄せる。


 ふわりと、またもや私はお姉ちゃんの体温と匂いに包まれて、身動きが取れなくなる。


 一度のみならず、二度も抱きしめられるなんて。


 それも一日で!




「……」


「何か、言ってよ」


「……ごめんなさい」


「何に対して謝ってるの?」


「卑怯なことしてるってわかってるから。謝るしかないわ」


「お姉ちゃん……一体、何があったの?」


「私には何も起きてないわ。起きたのは、あなたよ菜々美」




 何、言ってんの、ほんと。


 え、私の体から変なフェロモンとか出てる?


 それでお姉ちゃんを引き寄せた?


 そんな馬鹿なことあるもんか。


 どう考えてもお姉ちゃんに問題があるのに、何で私のせいにされなくちゃならないんだ。




「こうして抱きしめるのって、いつぶりかしらね」


「さっきぶり」


「ふふっ、そうではなくて」




 ……あ、笑った。


 抱き合ってるから、顔は見えないけど。





「……幼稚園ぶりだと思う」


「よく覚えているわね」


「っ……聞かれたから答えただけだし」


「どうりで懐かしいわけだわ。菜々美は、こんなに大きくなっていたのね」


「そりゃ幼稚園の頃に比べたらね」


「知らなかったわ、そんなことすら」


「普通……そんなもんでしょ、姉妹なんて」


「だとしても、私は知るべきだと思ったのよ」


「わけわかんない」


「理由がないと、そう思ってはいけない?」


「当たり前じゃん。わけわかんなすぎて、今のお姉ちゃん、気持ち悪いもん」


「……さすがにひどいわ」


「事実だから、謝んないよ」


「なら慣れるまでお姉ちゃんが頑張るしかないわね」


「……まだやるつもり?」


「当然よ。今日からずっと、あなたを全力でかわいがるって決めたのよ」




 本当に、どういう心変わりなんだか。


 得体がしれなさすぎて気持ちが悪い。気持ちが悪い。


 気持ちが悪すぎて、心臓がバクバク言っている。


 この感情は吐き気にも似ている。


 圧迫するんだ。胸の内側から、私の全てを。


 やめてくれって叫んでも、きっとやめてくれないんだろうな。


 お姉ちゃんは周囲から認められているから。


 周囲から認められた人間は自信を得るから。


 自分を肯定できる人間は、どこまでも身勝手になれるから。


 私みたいなクソザコ女に、止められるはずがない。




「ひとまず……ご飯、一緒に食べましょうか」




 それはもはや強制だ。


 どう答えたって結果は一緒だから、私は諦めとともに言葉を吐き出した。




「いいよ」




 ◇◇◇




 私とお姉ちゃんは夜道を歩き、近所のファミレスまでやってきた。


 途中、手を繋がれそうになったけど、それは阻止できて何よりである。


 さすがにこの歳の姉妹が夜道で手をつないでるのはキモすぎるから。




 店員に、心なしか嬉しそうに「二人です」と告げるお姉ちゃん。


 二人きりで食事とか、いつぶり――どころか初めてじゃないかな。


 緊張して背中に変な汗かいてきた。


 客はあまり多くない。


 知り合いとかいなさそうでよかった。


 案内された近場の席の前に立つとお姉ちゃんは、




「妹ファーストよ」




 などと意味不明な言葉を発しながら、私に先に座らせた。


 そしてお姉ちゃんは、なぜか私の隣に座る。




「お姉ちゃん、普通あっちじゃない?」


「ここがいいわ」


「いや、近いから」


「近くていいのよ」




 強すぎる、勝てない。


 仕方ないのでその位置を受け入れ、メニューを手にとった。


 私がそれを自分の前に広げると、お姉ちゃんはこちらを覗き込んでくる。


 私はそんな姉の前に、もう一つのメニューを差し出した。


 だがなおも、こちらにしなだれながら覗き込むのをやめない。




「お姉ちゃん、そっち……」


「一つで十分よ」


「私が困るんだけど」


「何が困るの?」


「そ、それは……」




 顔が、近いから。


 そう言おうとしたけど、なぜか気まずくて、私は口ごもる。


 反論できなければ、姉がやめる道理はない。


 私にできることは、早めに注文を終わらせることぐらいだった。


 店員を呼ぶ。


 私はミートドリア、姉はダブルハンバーグ。


 がっつり食べるんだな――とか思っていると、




「少しわけてあげるわ」




 などと言い出した。




「いらない」


「ミートドリア、一番安いやつじゃない。遠慮しないでいいのよ」


「私、少食だから」


「そんなはずはないわ」




 困ったな……こればっかりは姉妹だからごまかせないか。


 確かに、私は控えめに頼んだ。


 そこそこ大食い――それは唯一と言っていいほどの、私たち姉妹の共通点だった。




「半分あげる」


「……嫌って言ったら?」


「それでもあげる」


「私の意思は……」


「本音を見抜いているのよ、お姉ちゃんは」




 よく言うよ、今まで何も見ようとしなかったくせに。


 けど――今は、正解だ。




 店員が同時に料理を運んでくる。


 姉はナイフで二つあるハンバーグのうち一つを半分に切ると、私のミートドリアの上に乗せた。




「ふふ、ハンバーグドリアになったわね」




 そんなどうでもいいことを、微笑みながら言う姉を前に、私は無性に恥ずかしくなって、思わず熱くなった顔を伏せた。




 ◇◇◇




 帰り道、コンビニに立ち寄る。




「デザートを買いましょう」




 ファミレスでデザートを我慢したことを見抜かれてしまった。


 いや――この場合、お姉ちゃんも食べたかっただけなのかもしれない。


 甘味コーナーの前に立つ。


 私はお姉ちゃんの様子を伺った。


 するとお姉ちゃんもこちらを見て、首をかしげる。




「好きなものを選んでいいのよ、菜々美」


「お姉ちゃんから先にどうぞ」


「私は菜々美のあとでいいわ」


「何で?」


「……ふふ」




 急に笑うのはやめてほしい、心臓に悪いから。


 不気味だけど、言われるがままにミルクプリンを手に取る。


 最後の一個だった。


 お姉ちゃんは私のほうを見て、すごく悲しそうな顔をした。




「何でもいいって言ったよね」


「そうだけれど」




 じっと私の持つミルクプリンを見つめるお姉ちゃん。




「……」


「な、何でもいいんでしょ?」


「……そうよ」




 く……何でかわからないけど、罪悪感が湧き上がってくる。


 別に私が悪いことをしているわけでもないのに。


 というか何が悪かったのかもさっぱりだ。


 でも仕方ないので、私はプリンを売り場に戻す。


 お姉ちゃんの表情が和らぐ。


 もう一度手に取る。


 お姉ちゃんが悲しむ。


 戻して和らぐ、手に取り悲しむ。


 和らぐ、悲しむ、和らぐ――




「菜々美、私で遊んでいるの?」




 はっ――しまった、私としたことがなんてことを。


 いくら何でもお姉ちゃんだってこれはおこ――




「ふふふ、嬉しいわ」




 ――何でそこで笑うの?


 嬉しいの? 私にからかわれて?


 わからん。ぜんぜんわからん。


 とりあえずミルクプリンは置いて、普通のプリンを手に取る。


 今度は――よし、合格らしい。


 そしてお姉ちゃんはすぐさま、私と同じプリンを手にとった。


 ま、まさか、さっき悲しそうな顔をしてたのって……最後の一個だったから?




「菜々美は今もプリンが好きなのね」


「お姉ちゃんはヨーグルト派じゃなかったっけ」


「……そう、ね」




 微妙な間があった。


 ヨーグルトそんなに好きじゃないのかな。




「でも今日はプリンの気分なの」


「だからってわざわざ私と同じものを食べなくてもいいと思うけど」


「菜々美と同じがいいのよ」




 姉妹で同じプリンを買う……って、仲良し姉妹じゃないんだから。


 恥ずかしいったらありゃしない。


 さっきの食事のせいか、私も少しずつ慣れてきてるし。


 これが当たり前になったら――と思うと、私は恐ろしくてたまらなかった。




 ◇◇◇




 帰宅。両親はまだ帰らず。


 先にお風呂に入ることに。


 さすがに一緒に入ろうとは言われなかった、安心する。


 お姉ちゃんは私を先に入れようとしたけど、いつも見てるサイトをまだチェックできてないから、ここは譲る。


 自室で動画を見ながら笑ってると、風呂から上がったお姉ちゃんがわざわざ部屋まで呼びに来た――かと思ったら。


 扉を開いたお姉ちゃんは、その場で両腕を大きく開く。




「体、念入りに洗っておいたから」


「は?」


「いつでも抱きついてきていいわよ」




 眉間にしわを寄せる私。


 その体勢を続ける姉。


 さてはこいつ、私が呆れてるってわかってないな?




「……お姉ちゃんがそんなボケる人とは思ってなかった」


「私は本気よ」


「子供じゃないんだから。抱きしめられて喜んだりはしないっつの。お風呂はすぐに入る」


「菜々美は……私に抱きしめられて、嬉しくなかったの?」




 ……なんじゃその質問は。




「姉にハグされて喜ぶ妹はいないでしょうよ」


「菜々美の話をしているの」


「だから……嬉しく、ないって。第一、私たちってそういうことする姉妹じゃないから」


「……」


「不満げな顔をされても変わらないし」


「抱きつきたくなったら、いつでも言うのよ。私はいつでも抱きしめる準備をしておくから」




 そのセリフを聞くのは今日二回目――って、体を洗ってきたってそういう意味だったんだ。


 いや、別に、何か変なことを考えてたわけじゃないけども。




 ◇◇◇




 お風呂から上がってきた頃、母が帰ってきた。


 手にはコンビニの弁当をぶら下げて。


 ちょうど玄関の近くにいたから、「お父さんならまだだよ」と告げると、母は興味なさげに「そう」とだけ返事してリビングに向かった。


 これが私の日常だ。


 お姉ちゃんだって似たようなものだった。


 だから、それに寂しさを覚えるほうがどうかしてる。




 母とはその日、言葉を交わすことはなかった。


 自室に入る。


 何となく、そこにお姉ちゃんがいそうな気がしたけど――いなくてほっとする。


 うん、ほっとしてる。


 机に座り、漫画でも読もうかとふと本棚に目を向けて――私は首を傾げた。


 あの漫画、五巻だけ抜けてる。


 たまにこういうことがある。


 お姉ちゃんが勝手に私の部屋に入って、漫画を持っていくのだ。


 数ヶ月に一度、姉が見せる気まぐれで、私はその意味を特に考えたことはなかった。


 しばらくすると戻ってくるし。


 でも今日は状況が状況だけに、どうしても気になってしまって――私は自ら蟻地獄に落ちるように、姉の部屋を訪れた。


 ドアをノック。




「お姉ちゃん、今――」




 暇? と聞くより先に、




「いいよ、入って菜々美」




 とお姉ちゃんに言われてしまった。


 まるで待ち受けてたようじゃないか。


 部屋に入ると、机に向かっていたお姉ちゃんは、わざわざ立ち上がって私を迎えた。


 そして両手を広げる。




「しないから」




 肩を落としてしょんぼりするお姉ちゃん。


 ポンコツか?




「お姉ちゃん、私の部屋から漫画持ってったでしょ」


「ああ……ええ、一冊だけ借りたわ」


「もう読んだんなら返してもらおうかなと思って。読んでないならいいけど」


「いえ、大丈夫よ。読んだから、うん、返すわね。えっと……どこに置いたかしら……」


「……?」




 お姉ちゃんは、妙に焦った様子で本を探しはじめた。


 机の上は整理されていて、一度見れば何がそこにあるかなんてすぐにわかる。


 けどなぜか姉は、おどおどしながら、しきりに机の上を見ている。


 不思議に思いながらも、私は部屋の他の場所を見回す。


 飾り気のない部屋だ。


 私の部屋と違って、漫画もあまりなければ、ぬいぐるみやアニメのグッズもないし、パソコンもない。


 本当に勉強と寝るためだけの部屋といった雰囲気で――実際、お姉ちゃんは普段、そういうことばかりしていると思っていた。


 今だって机に向かってたってことは、明日の予習でもしてたんだろうし。


 真面目を絵に描いたような、クールな優等生。


 そっけなくて、表情は薄くて、妹の私に対しても、何なら両親に対してもそれは変わらない。


 だからこそ――今のお姉ちゃんは、まるで別人のように思えて。




「あ、あったわ!」




 なぜか私の本は、お姉ちゃんの机の引き出しから出てきた。




「なんでそんなところに……」


「どうしてかしらね……」


「そりゃお姉ちゃんしか知らないって。まあいいや、ありがと」




 本を受け取ろうとする。


 しかしお姉ちゃんは、なぜかそれを離そうとしない。


 互いに本に触れたまま、私たちの視線は割と近い距離で交差した。




「ねえ、菜々美」




 解せない。


 今までのやり取りを思い返したって、全然理解できない。


 どうしてお姉ちゃんの目は、涙で潤んでいるんだろう。




「最近、夢見が悪かったりはしない?」


「問題ないけど」


「もし悪い夢をみているのなら、私が一緒に寝てあげるわ」


「うん、問題ないって言ってるけど」


「……」


「……」


「……一緒に寝ないと、返さないって言ったら?」


「諦めるかな。別にそこまで思い入れのある本じゃないし」




 ……あ、またしょんぼりしてる。




「お姉ちゃんは、そんなに私と一緒に寝たいの?」


「菜々美は寝たくない?」




 なぜそこで聞き返す。




「姉妹で一緒に寝る歳でもないでしょ」


「なら……私が寝たいということにしておくから、一緒に寝ましょう?」




 なぜ私が譲歩されてるみたいな状況になってるんだ。




「嫌だ」


「どうして!?」


「だから何度も言うけど、別に姉妹で寝るような歳でもないから。あと、私はお姉ちゃんのこと好きじゃない」


「……」


「どういうつもりなのか、本当に、心の底からわからないけど、一日やそこらで関係が変わるわけないじゃん」


「明日も続けるわ。明後日も、来年も、一生、ずっと」


「何で?」


「変わろうと思っても、どこかで実行に移さないと、変わらないと思ったから」


「いや、そうじゃなくて……んー……その、そんなに私と寝たいわけ?」


「とても寝たいわ」




 この会話、いかがわしくない?


 恥じらいを見せないあたり、お姉ちゃんは気づいてないんだろうけど。


 つかやっぱり卑怯だって。


 このやり取りで、私だけ一人で赤くなってるのは絶対におかしい。不公平だ。




「……はぁ。わかった。今日だけだかんね? あと、私の部屋でいい?」


「ええ、今すぐに向かうわ」


「まだ寝るには早いから! せめて十二時を過ぎてからにしてくれない?」


「その時間は、もう私は寝てるわね」




 そうだった、早いんだった。


 その分だけ起きるのも早いからね、お姉ちゃん。




「あー、じゃあ、十一時で。それでいい?」


「本もそのときに持っていくわね」




 そういえば本を返してもらいにきたんだっけ。


 それが、どうして一緒に寝る話に……?




 ◇◇◇




 お姉ちゃんは十時半に来た。




「菜々美と話がしたくて」




 そう言われたら断れない。


 だけど困ったことに、何の話をするかは考えていなかったらしい。


 仕方ないので、読んだ漫画の話題で三十分を潰した。


 共通の話題があると……少しはマシかな。


 そして十一時、ついに私たちは同じベッドに入ることになった。


 お姉ちゃんは自分の枕を持ってきて、私の隣に置く。


 明かりを豆電球に変える。


 とはいえこれはシングルベッド。


 二人で寝るには、かなり密着しないといけない。




「だから狭いって言ったのに」


「これはこれで楽しいわ」


「そうかなぁ……」




 私は戦々恐々としていて、心臓がバクバクいって落ち着かない。


 お姉ちゃんは無自覚に足を絡めてくるし。


 あと私の髪、長いからお姉ちゃんに下敷きにされそうなんだよね。


 大して綺麗でもないくせに面倒なやつだ。




「菜々美の髪って、とても綺麗よね」


「……それはないって」


「そう? 私はいつも羨ましいと思っているわ」


「嘘でしょ……お姉ちゃんのがずっとさらさらじゃん」


「隣の芝は、というやつね。きっと菜々美の友達もみんなそう思ってるわよ」




 ありえないと思うけどなあ。


 だって、手入れとかもそんなにしてないし。


 朝のセットとかめちゃくちゃ面倒で適当だし。




「私も伸ばそうかしら」


「それはやめて」


「どうして?」


「同じ髪型にしたら……比べられるから」




 私が伸ばした理由は、お姉ちゃんと別の髪型にしたかったからだ。


 他人に褒められても嬉しくないのは、別に望んでこの髪型にしたわけじゃないからだ。




「同じにしたって、私はどうせお姉ちゃんの型落ちにしかならないから」


「……」




 違うって言ってほしかった。


 いや……違う。


 言ったら言ったで、白々しいとか思うんだ。


 お姉ちゃんもきっとそれがわかったから、何も言えなかった。




「……めんどくさいでしょ、私」


「ごめんなさい、うまく言葉が出てこなくて」


「いいのいいの。コミュ力とかもどう考えてもお姉ちゃんのが上だし。大抵、悪いのは私のほうなんだよ」


「そんなことはないわ」


「あるの」


「ない」


「ある」


「ないと言っているじゃない」


「あるったらあるの! 私は――それを、今までの十五年間、ずっと実感してきたんだから」




 私は間違っていることが多い。


 みんな、簡単に『もっと自分の意見を出せ』っていうけど、出したら出したで『そのやり方じゃ間違ってる』って言われるのがオチだ。


 それを何十回、何百回と繰り返したら、嫌でも学ぶ。


 言ったところで無駄だって。




「それに、お姉ちゃんは正しいから。いつだって」


「私はずっと間違ってきた」


「何を?」


「……」


「言ってよ。じゃないと寝てあげない」


「……菜々美のこと」


「私?」


「そう。私はずっと、一番大事なことを間違ってきたから」




 それが……急に私に構うようになった理由ってこと?


 間違った、って何のことだろう。


 過ちなら、私のほうがずっと多く犯してきたはずなのに。




「今すぐにでも改める必要があったのよ。それが菜々美を戸惑わせてしまう結果になったことは、謝るわ」


「でも、その“間違い”が何だったのかは……教えてくれないんだよね」


「……ええ。今は、まだ」


「わかった。とりあえず、お姉ちゃんがこれからウザ絡みしてくるってことだけは覚えとく」


「私、うざいかしら」


「物事には限度があるから」


「そう……つまりちょうどいいということなのね」


「何その超訳……」




 やっぱりうちの姉はこわい。


 けれど気づけば、自然と言葉は交わせていて。


 慣れって怖いな、なんて思いながら――私は目を閉じようとする。




「もう寝るの?」




 お姉ちゃんが寂しそうに言った。


 甘やかすとかいいながら、甘えた声を出すのはそっちじゃないか。




「お姉ちゃんがこの時間に寝るって言ったからだよ」


「そうね……私、眠いわ」


「じゃあ寝てください」


「その前に、ちゃんと挨拶はしましょう。おやすみなさい、菜々美」




 暗闇の中でも、お姉ちゃんの微笑みは輝いて見えて。




「おやすみ、お姉ちゃん」




 それに比べたら、私の顔なんて黒ペンで塗りつぶしたほうがいいような有様。


 見せつけられる。


 私という存在が恥ずかしくなる。


 そんな馬鹿らしい劣等感を、与えられる体温で打ち消しながら、私はいつものようにもやもやとした気持ちで夢に落ちる。




 私はいつも悪夢を見る。


 自分で自分を殺す夢だ。


 けれど今日は、久しぶりに――何の夢も見ずに、朝を迎えた。



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