第27話 弓道指南とボディタッチ

 弓道場の射位しゃいに立った由佳ゆかは、表情が少し固い。

 彼女の表情はまさしく試合前そのもので、緊張度合いが見て取れる。


 俺は由佳のそんな表情を、練習中に見たことがなかった。


 由佳は矢をつがえて的を見据え、弓を上方向に高く持ち上げる。

 左手で弓を押し、右手でつるを引きながら引き絞る。


 最大まで引き絞ったあと狙いをつけ、数秒ほどその状態を保ち続ける。

 今は機が熟するのを待っている状態だ。


 ──乾いた音が、道場内に鳴り響く。

 それはすなわち、矢が放たれたということだ。


 矢は勢いよく的に向かって飛翔する。

 しかし健闘むなしく、命中には至らなかった。


 ──やはり全体的に見て、いつもの由佳とは違う。

 スランプに陥っているというのは、どうやら本当らしい。


 由佳は矢を放った直後の姿勢を数秒間維持し、残心ざんしんを取る。

 武道における残心とは、「敵を目の前にして気を緩めないように」ということであり、剣道や空手などにも残心はあるらしい。


 ──姿勢を維持するより、さっさと次の矢を準備したほうが実戦的だと思うんだけどな。


「弓弦、どうだった?」

「えっと、まずは肩の力を抜いて──」


 俺は由佳に細かいところをアドバイスする。

 弓を持たない状態で手本を見せたり、時にはボディタッチをしたり。

 ボディタッチといっても、肩や腕を触ったり掴んだりする程度なのだが……


「──ここはこうして……」

「やっ……さ、触らないでよ……変態……」

「分かってるとは思うけど、変態だから触ってるんじゃない。これも指導の一環なんだ」

「わ、分かってるわよそんな事……でも……」


 由佳は少し上ずった声をしていた。


 部外者が見ればただのセクハラかもしれないが、これはれっきとした指導だ。

 由佳もそれはきちんと理解しているはずだし、後輩にもそうやって教えているはずなのだが……


 とはいえ、俺だって何も感じないわけではない。

 ボディタッチを交えた指導は必然的に距離が近くなるので、矢車菊ヤグルマギクのような甘い香りがする。

 由佳の後ろに回って教えるときは特に、長いポニーテールからいい匂いがふわりと漂ってきて落ち着かない。

 それに男とは違い、由佳の身体はとても柔らかく女性らしさを感じた。


 ──今までただの幼馴染だと思ってたけど、由佳も女の子なんだな。

 俺はそんなことを思いつつ、一通りアドバイスを終えた。


「──というわけだ。次の射を頼む」

「あ、ありがとう……がんばる」


 由佳は2本目の矢をつがえ、矢を引き絞る。

 今のところは順調で、特に身体の力みや歪みなどは感じられない。


 ──矢が放たれる。

 勢いよく飛び、的枠ギリギリの場所に命中した。


 弓道はアーチェリーとは違い、どこに命中しても等しく「一中」として数えられる。

 とはいえ的枠ギリギリにあたるようでは、本番の昇段審査では厳しいかもしれない。


「ゆ──矢口やぐちさん、なにか考え事でも──」

「あんたが弓道部にいたときからずっと思ってたんだけど、その『矢口さん』っていうの、他人行儀だからやめてくれないかしら? いつも『由佳』って呼んでくれてるじゃない」


 矢口由佳はあからさまに、不機嫌そうにしていた。

 一応弓道場の中だけでは名字で呼ぶようにはしていたのだが……


 弓道場にいた部員たちは、ヒソヒソと話をし始める。

 「やっぱりあの二人、付き合ってたんだ」とか「とても仲がいいのね」とか「くそっ、矢口さんに告白を断られたと思ったら、そういうことだったのか……!」とか……

 確かに幼馴染だから仲はいいけど、恋人として付き合っているかといえばそれは別だ。


 俺は身振り手振りでそれを否定したあと、由佳に向き合う。


「分かったよ、由佳。で、なにか考え事でもしてたか?」

「べ、別にっ!?」


 由佳は顔を真っ赤にしながら否定する。


「『別に』ってことはないと思うけど。矢を完全に引き絞るところまでは、順調だったと思う」

「そ、そうかしら……?」

「ああ……でも、狙いが甘かったのかな?」

「そ、そうねっ! 多分そうだと思うわっ!」


 由佳はとても恥ずかしそうにしながら、次の行射の準備に入った。



◇ ◇ ◇



 19時前……

 弓道部の練習がもうそろそろ終わる時間帯だ。


 俺がこの時間まで由佳に付きっきりで指導した結果、的中率は本人が言っていた5割ほどから6割程度までに改善している。

 とはいえ、まだまだ目が離せない状態ではあるのは事実だ。


 だが、今日のところはここまでだ。


「由佳、俺はもうそろそろ帰る」

「そ、そう……? お、教えてくれてありがとうね……」


 由佳は袴を掴んだり離したりして、ソワソワしている様子だった。


「あの! き、今日は一緒に帰らない……?」

「いつもの友達とは一緒に帰らないのか?」

「い・い・の! ね、たまにはいいでしょっ! ──それとも、日が落ちそうなのに女の子一人で帰らせるつもり?」

「はあ……分かったよ──じゃあ、道場の外で待ってる」

「──あ、あのっ……わたしも一緒に帰ってもいいですか……?」


 俺が由佳のもとを去ろうとすると、弓道部1年の相羽あいば茉莉也まりやが現れた。

 すると部員たちが「おのれ……相羽さんまで手篭めにするなんて……うらやま、けしからん!」「やっぱり相羽さんとも付き合ってるのかな?」などと色めき立つ。


 まったく、その言い方だと俺が二股かけてるみたいじゃないか。

 由佳と親しく会話していただけでも、似たようなことを言われちゃったし。


「分かったよ。相羽さんも一緒に帰ろう」

「ありがとうございますっ……でも、わたしのことはいつもどおり『茉莉也』って呼んでください……矢口先輩のことだって名前で呼んでいますし、わたし……」


 茉莉也がそう言うと、男子部員と由佳からの視線が俺に集中し始める。

 数多の視線が突き刺さってとても痛いが、俺は「分かったよ、茉莉也」と返事する。

 すると茉莉也は「ありがとうございます!」と頭を下げた。


「──はあ、せっかく二人きりになれると思ったのに……」

「どうしたんだ? 由佳」

「な、なんでもないわよっ!」


 由佳はとても恥ずかしそうに、そっぽを向く。

 よく聞こえなかったのだが、一体どういう意図を持って何を言ったのだろうか。

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