第12話
あのベテラン音響に比べれば失踪中の柳田は赤子のように扱いやすかった。
「くそっ、代用なんかできるかっ!!考えてもみろ、文部省からかな文字を借りて、普段のかな文字をどこかにしまったのも柳田だ。確信犯ならその三文字は隠す。い○、あっ!!。あいつは代用策をさせて陶器とプラスチックの差ぐらいにちぐはぐにさせるのが目的だったんだろう。あいつらの思い通りにさせてたまるかっ」憤りの勢いにまかせ、一階、非常階段の扉を開けた。
ガランとしたホールウェイー。
「しかし、主任、背に腹は代えられません。面子にこだわり過ぎれば…」部下は緊迫した責任ある男の顔を見て、とても最後まで意見を言い切れる雰囲気ではないと察知し口を噤んだ。
防音の厚い扉を開ける。馴染みの薄い係が立っている。部下にかわりはないが音響部の男で「最中ですからご遠慮ください」と一組目の歌声が聞こえてきた。その姿を目撃した別の係が駆けつけた。二対二の攻防となり、音が漏れるからと四人は廊下に出た。
「部長があなた方は中に入れるなと」と強気の態度を崩さず言った。
「何故だ?何が起こっているか知らないわけでもあるまい。問題は解決していないだろう」という問いに
「ええ、ですが、皆さん待ちくたびれていましたし、少年少女も親御さんも時間に制限があるんです。その希少な三文字にこだわりすぎて、延期してまた明日、はたまた明後日なんていうのは無理なんです。今晩の券で故郷に帰らなければいけない方々も多い。それに、たかたが高校生の合唱コンクールです。三文字でボロが出るならもとい駄目なんじゃないですかね」
「それは誰の意見かね!?」と責任ある男は詰問したが、直属の部下とは違う男には効果が発揮されず、シラを切られてしまう。
準備期間中に漂っていた雰囲気。誰しもが、おそらくは責任ある男ですら感じて喉元まで出かかっていた言葉。国際的舞台で活躍する楽団、著名な指揮者、ミリオンセラーを連発させたポップアーティストの為に働こうとする社員らの態度との温度差をひしひしと感じる。
「たかだかアマチュア高校生」
責任ある男は愕然とした。今度から運営部の責任ある立場に抜擢され、文部省から希少なかな文字を借り、課題曲を選択できるシステムに変える試行錯誤をしたものの、共に本腰をいれていた柳田に裏切られたかもしれないと思うと実りが薄いこの学生のコンクールへの「たかだが高校生」の発言に頭が真っ白になった。
確かに言うとおりだ。コンクールを終えた足でそのまま新幹線に乗らなければいけないという人々もいるのだ。これ以上の遅れは許されない。一人の係が防音の重い扉を開けて中の様子を伺った。消えた三文字がコーラスに使われる二組目が歌い出している。
「お願いです。入らないでくださいね。僕らも怒られたくないんで。これ以上、問題は大きくなりません。多少の違和感を覚えかねますが、音響の問題とアマチュアの方々は考える。それをベテランの音響主任が許しているんですからいいのでは?スポンサーさんらも黙って席に座って聞いています。ねっ。ここまでのご尽力の為に募る気持ちも理解できますが、日程通り終わらさなければホテル代、新幹線代を肩代わりしなければいけなくなります」と門番を応接かさった係らは再び重い扉を開けて中へ入っていった。
「主任!!」立ち尽くす責任ある男に直属の部下は声をかけるも耳には入らない。無理に扉を開けても二人の係の背中の壁が立ちはだかっているのは容易に想像ができる。
文部省からお借りしたかな文字に拘っているのは自分だけなのか。スポンサーですら、日程通りに進まないことによる余計な出費と天秤にかけて正しい判断をしたとなる。運営を任されている自分が偏屈にこだわっている。
失意のままに本部に戻ると早速、柳田を追う部下からの連絡があった事を聞いた。
柳田はパチンコやり放題で小一時間時間を費やし、ゆうやけ公園で菓子パンと缶コーヒをお腹に入れ、汗を流しにゆの湯に行き、タッチの差で柳田を追う部下と入れ違ったということだった。
焦りも悲壮感もなく、飄々としたいつもの休日の柳田という様子だったことが判明。報告を受けて余計に混乱する本部と責任ある男。内縁の妻に旦那の無事を知らせる為に連絡を入れる。
「ああああ。えええええんえんえん」大女優と同姓同名の女は張り裂けた感情が放出し泣いてばかりいた。
「帰ってくるんですよね?」という泣きながらの問いに責任ある男は無責任に「ええ」力なく答えた。電話越しでも雑味のある「よ」が聞き分けられた。
鞄ひとつ、背広姿でどこをほっつき歩いているというのか。消えた三文字を持ち歩いているという確証はないが、国賓クラスが利用するかな文字を持ってパチンコをし、鞄を置き去りにして素っ裸で湯に浸かっていたのならば、知っている生真面目な柳田の性格に修正不可能な亀裂が入ったと考えて間違いない。
ネジが馬鹿になってしまったかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます