第11話

一人の部下が血相を変えて本部の扉を開け「主任、困りました。後半戦を無理にもでも始めさせるみたいです」と貴重なかな文字三つ欠けた状態で後半戦を開始させようとしていることを報告した。

 

承諾なしに強行する人間はただ一人、ベテランの音響の男。彼もまた凝り固まった頭の堅い人間で、彼には記念大会も学生もプロも関係なければ、スポンサーも文部省もへったくれもない。

 

ただただ、与えられた日程の職務をこなし、帰る。責任を問われるようなことは一切せず、少しでも火の粉が飛んでこようものならば部下だろうが、何だろうが壁に使って言い訳をする。そうやってコンサートホールの音響の責任者とのし上がり、それなりの発言権を得てきた。


報告した部下を引き連れ、急いで本部から廊下に出てエレベーターを待つ。


非常階段が目に入る。


エレベーターは一階で止まったままだ。


なかなか開かないエレベーターの扉横上に備えられている小モニターにホールの様子が映っている。一組目の学生らが整列している。「ジャーーーンッ」シンバルに続いて打楽器による前奏、「なんていう曲だ…」と責任ある男は心で思った。どこそかの国王を喜ばせる猿の芸事の合図のようだ。


「始まってしまいました」一緒にエレベーターの到着を待つ部下は目にした状況を何の考えもなしに発言し、それが異様に幼稚な行為に感じてしまい苛立って「聞けばわかる」とつっけんどんに返事をして、足が条件反射で動き、非常階段の扉を乱暴に開けて駆けおりる。


待ちに待った父兄らの落ち着きを失った歓声が聞こえてきそうだ。


普段、目にするのは熱狂的なパフォーマーに無我夢中で手を振り、声を合わせて歌い、感極まり泣く。遠く感じていた絶対的存在の歌手があんなに近いところで生歌を歌ってくれているということで、手に届きそうな距離にもどかしさを感じ、現実を突きつけられ、泣き腫らし、コンサート後にはすっきりした顔で出て行く面々を思い出した。


今度のコンクールは違う。ステージに立つのは普段一緒に食卓を囲む我が子らだ。その成長と努力の成果を見届けたいという落ち着いた客のはず。待たされるだけ待たされて、気が狂ってしまった客を想像してしまっていた。


「ハアハアハア。一組目はあの三文字は含まれていないそうです。ハアハア、二組目にはコーラス、ハモリで使われます。音響側は主任がいつも使用しているかな文字で代用するだろうと、何を迷うことがあるのかと言っていました。それしか選択肢がないのに、面子なんかにこだわるからいけないんだって。何時まで待たせるんだって怒っていました。勝手に始めれば否が応でも代用策で○るしかなくなるだろうって。あっ。すみません」若い部下は階段を駆け降りながらも報告任務を全うできる。


「ちっ」案外その面子が大事なのだ。コンサートホール経営部、運営部、宣伝部は面子と隣り合わせでやってきて、都内外にある複数のコンサートホールと競い合っている。音響がいる技術部は「コンサートホールは音が命、自分らの存在こそが他と差をつける生命線、変な事を植え付けようとする他部署とは必要以上に口をきくな」と言い聞かせ、関わりを持たないようにし、自分らの技術力向上のみを考えている。いかに面子を保ち、様々な形のエンターテイメントを誘致できるか、その努力を一向に考えてくれない。

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