第8話

「はい。柳田です」答えたのは予想していた相手だった。柳田と共に暮らす交際九年目の内縁の妻。名前までは瞬時に思い出せなかった。籍は入れていないが、「柳田」と答えたのは貸し家が彼名義で、彼女は週三回のパート給料で二人の食費を担当している関係の性質からだろう。

 

「こんにちは。コンサートホール責任者の…」彼が名乗りをあげるまえに柳田の内縁の妻はせっかちな性格をあらわにして「どうもご無沙汰しております。日頃、柳田がお世話になっております」と遮った。責任ある男は柳田の内縁の妻の名を忘れている。内縁の妻は遮ってまでした社交辞令の挨拶を言い切ってから顛末に気がついたのか、不安定な息遣いが受話器越しからも読み取れた。「あのう…どうして…」と言い出すのを今度は責任ある男が遮って「まことに恐縮なのですが、お名前をお伺いして○ろしいですか?あっ!!いいですか??話を円滑にするためにも」と無意識の言葉に失われた文字の一つが混じっていたが、相手は回線の不備と思ったのか「あああ。ええ。もちろんです。直接にお会いしたのは一度ですからね。失礼しました。私、○しながさ○りと申します」と名乗られた名前も黒電話と、とぐろを巻いた受話器をつなぐ線の間で失われ、文字が消える。だが、男は文字配列で柳田の内縁の妻との遠くない過去の出会いの自己紹介の場面を思い出した。


 恥じらいながら、大女優と同じ名前だということで談笑した。彼女は似ても似つかないと謙遜し、男は確かに真逆と言っていいほど違うと正直に言いたくなるのを堪え、大人の対応をしたつもりでいたが、おそらく表情筋は全てを物語っていたはずだ。浅黒い肌に癖毛の髪、胸とお腹が同じように出ている体系。電話越しには恥じらいも謙虚さもないのは二度目だからか、それとも姿が見えないという利点を逆手にとっているのか。「草冠に方向の方に長いで芳長です。下はひらがなでさ○りで、字は違いますけど女優さんと同じ名前です」電話越しではまんざらではないという態度。「芳長」が発覚して会話は楽になる。

 


 「それで主任さん、どういったご用件でし◯うか?うちのが体調でも崩したのでし◯うか?」女の言葉で責任ある男はある程度の推理はついた。

 「芳長さんの言い方ですと、柳田君は在宅ではないのですね」

 「あら、い○だ。あの人、職場にいないのですか?」語気が強まる。肝っ玉かーちゃんの素性が現われ、同じ名前の大女優のおしとやかさを演じていたのも、ものの二分程度。

 


「ええ、今朝から見えていません。それで、寝坊または体調を崩しているのではないかと思い、自宅に電話をしてみたんです」

 

 「ああ。そうでしたか、ご迷惑をおかけまして申し訳ございません。今日は大事な合唱コンクールの全国大会当日でし◯う。あの人、この日をずっと楽しみにしていましたのに。何か事故にでも巻き込まれたのかしら。い○だ、急に胸がキュっと締め付けられる気分ですわ。どうしたらいいのでし◯う。」とアドレナリンに占拠された女は慌てふためいる。

すでに警察には捜索を依頼しました」

 

「警察!?警察ですって?ああ、でもそう○ね。警察さんにお世話にならなければいけませんね。ああ、どうしたらいいのかしら。あたしはこういうのがからっきし駄目なんです」肝っ玉母ちゃんも肝心な時には腰がぬけるということか。

 

「柳田君はコンクールを楽しみにしていたとおっし◯いましたね?」責任ある男も昨日まで難しいとされていた文部省からのかな文字の借り出しを成功させた柳田のひたむきな姿勢を評価していた。しかし、「ええ。プロの派手なコンサート◯り純粋な学生さんらを応援するほうが◯っぽど健全だと常日頃言っていましたし、年に一度の重大な任務を任される日で、責任ある仕事を任される特別感があった◯うです○。さっきからなんか変ですね。電話の具合が悪いのかしら」

「あっ。い◯っ、っち。面倒だな…。こちらの不具合です。お気になさらずに。柳田君は、不平不満は言っていませんでしたか?」


「…すみません。職場の上司さんにこんなことは言うべきではないのでし◯うが」   

 

「どうぞ、お気にめせずにいってください。彼の行方の手がかりになるかもしれませんので」 

 

「ええ。そうですね。今は彼の安否が一番ですわね」

 

「そうです」責任ある男は気のない虚偽の返事をした。大事なのは消えた三文字の行方のほうだ。

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