15-5

「母さん、もしかしてこれ」

「よろしくお願いいたします」

 よく通る細い声。深々と頭を下げられる。目で母に訴えると、口をぎっと結んで強くうなづいている。

 むり、と声を出さずに返して首をふった。母も引かない。お互い、負けじと口をパクつかせて無言で言い合う。

 長い長いお辞儀から、やっと沙織さんが顔を上げる。母がすっと切り替えた。

「年の頃もお家柄もうちにはもったいないくらい。すごくいいのよ。こんな話、めったにあるもんじゃないよ」

「すいません沙織さん、母がどうお話したかわかりませんが……」

「理、黙ってなさい」

 母の強い目が刺さる。なにも知らない沙織さんは、やわらかな微笑みを浮かべたまま、わずかに首をかたむけている。そのやさしい目が余計につらい。

「俺は良さんと暮らすって言っただろう! なに勝手なことしてんの!」

 焦ってすべてをぶちまけた。壊してしまった。ふんわかと浮かんでいた嘘くさい雰囲気が、ばらばらに砕けて飛び散る。

「すいません沙織さん、俺、一緒になろうと思ってる人がいるんです。母にはまだちゃんと話してなかったもので」

「どうしてなの。どうして、ふつうの結婚をしてくれないの?」

 岩のふちに手をかけて、引きずるような声だった。

 沙織さんは凍り付いたように固まって、目を見開いている。白くてか細い喉だけが、引きつれたようにひくりと動いた。

「こんなにいいお嬢さんなんだよ。お家もちゃんとしてて、こんなに、こんなに。どうして? どうしてそんなに、あの男の子がいいの?」

 母の固い指が眉間を押さえる。ぐんぐんと力を入れている。

 胸や頭どころか、ひざの上で組んだ手から、肩までがずんとしびれてきた。

「苦労するだけだよ。世間の笑いものになって、後ろ指さされて、あんたも、お母さんたちも!」

「今はそういう時代じゃないから」

「あんたたちはそうでもね、このへんはまだそういう時代なの!」

 重たい、重たい言葉だった。でもきっと真実なのだろう。俺はまだ、この土地の上辺しか知らない。

 息を吸っても吸っても、まわりに酸素がある気がしない。ステージの時間を告げるアナウンスが、母の重たいため息の音だけをかき消した。

 沙織さんのバッグは、つかまれたところがますます強くきしんでいる。

「まだ、話の途中かね」

 はっと全員が振り返る。丸テーブルにいた常連のおばあちゃんが、母のすぐ後ろに立っていた。

「もうお昼じゃ。さっきの兄ちゃんのカレー、買うてきてくれんかね。あんたらもどんな?」

「あ、いえ、私は」

「私も、遠慮しとくわ」

 まるで金縛りでも解けたように、沙織さんと母が急に動き始めて腰を浮かす。おばあちゃんは俺を見て、おどけて肩をすくめている。

「そない言わんと、今日だけなんや。さ、さ、ほらここで」

「あっ、ちょ、ちょっと」

「きゃっ」

 ごつごつとしわ深い指が、浮きかけたふたりの肩をずんと下げる。あの母が払いのけたりできないのだから、沙織さんなんてまるで歯が立たないだろう。

「カレー五つな。兄ちゃん、はよう行っといで」

「はい!」

 声を出したら急に時間が動き始めた。テントからすこし離れて振り返ると、くしゃくしゃのやさしい顔が、ほっほっと笑って見送っていた。


 人ごみをすり抜けて走る。お使いを頼まれたせいもあるけれど、一刻も早く顔が見たかった。

 ずんずんとステージの音が響いて、叫んでいる人の声が聞こえてくる。同じように大声で、今すぐ思い切り叫びたいと思った。

 キッチンカーは行列ができている。黄色のほろも、手書きの小ぶりな看板も、なにもかもうれしそうだ。

 窓から良さんの赤いキャップがちらちらのぞく。どうしてこんなに、見ただけですべてが解決したように思えるのだろう。きゃっきゃっとはしゃぐ女の子のうしろに並んで、静かに胸を弾ませて待った。

 青空と、発電機のうなる音と、たくさんの屋台にまじったカレーのにおい。ぴかぴかとはじける良さんの声。

 ほかになにもいらないと思うことが、どうして間違っているように言われて決めつけられるのか、理解したくもない。

「いらっしゃい! あ、休憩?」

「うん、朝のおばあちゃんに頼まれて。カレー五つ、できる?」

「はい! お待ちくださいね」

 右手にレードル、左手にプラスチックのまあるい容器。じっと見ていると、ちかっと目を合わせてくれた。そろそろと顔を寄せてくる。

「さっちゃん、なんかあった?」

「……わかる?」

 鼻にしわを寄せて、きゅっと笑う。重たいものがすっとほどけて、勝手にため息が転がり落ちた。

「ごめん。めっちゃくちゃあった」

「うそ。それって大丈夫なやつ?」

 ぐっと息がつまる。負けないようにふんっと力を入れて、息を吸いなおした。

「大丈夫。絶対大丈夫」

「ほんとに~?」

 ふにゃりと伸びる語尾が甘ったるい。いつの間にか俺の顔もぐにゃぐにゃだ。

「お待ちどうさま! あとでゆっくり聞くからね」

「ありがとう。余裕あったら、こっちにも来て」

「もちろん!」

 今の笑顔で、他の人まで撃ち抜かれていないか気になる。なんとなくあたりを見回してから、急いでテントに戻った。

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